(増補版)375E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年6月〜1882年8月)

題:(増補版)375E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年6月〜1882年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年6月26日、植木枝盛らが、元老院に酒税減額を建白す
 る。
1882年6月27日、「日本銀行条例」が公布された。
  日本銀行条例が制定され、公布された。
  そして、1882年10月10日に、永代橋のたもと(現:日
 本橋箱崎町)に、日本銀行の本店が開業した。
  1885年、日本銀行券(兌換銀券)の発行開始→銀本位
 制度確立へ
  これまで、日本は、兌換貨幣(金との交換が保証され
 た通貨)を使用していたが、
  まだ、経済基盤が弱かった日本からは、金貨の海外流
 出などで金準備不足が深刻化した。
  そのため、兌換制度を止める必要があった。
  1871年に、新貨条例が制定し、
  「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度を導入した。
  しかし、同時に採用された金本位制は、金準備不足の
 ために実際には銀貨が主に使われた。
  1876年に事実上、1878年に正式に、金銀複本位制が確
 立した。
  そして、1885年に、銀本位制に移行し、
  1897年に、ようやく金本位制に復帰した。
1882年6月27日、検疫
  神戸・横浜などの7港に、悪疫防止のため、船舶検疫制
 度が実施された。
1882年7月7日、東洋社会党の結社が禁止された(6月20日
 あり)
  東洋社会党は、 1882年5月25日に、長崎県の樽井藤吉、
 赤松泰助らが結成した。
  「道徳を以て言行の基準とす」
  「平等を主義となす」
  「社会公衆の最大福利を以て目的とす」
 ・・という綱領を立てた。
  この綱領にある様に、日本で初めて「社会党」と名づ
 けられた政党だったが、
  旧佐賀藩主・鍋島閑叟(なべしまかんそう)の徳政的土
 地改革制度継続を要求した流れにあり、
  社会主義政党でもなく、また、無政府主義政党でもな
 かった。
  組織面においても、平等主義のために指導、被指導と
 いった上下関係をもたず、
  党名の「東洋」が示すように、党の趣旨を「支那や朝
 鮮」にも拡充することを目指し、
  東洋の独自性を主張する意識があった。
  そして、米欧に牛耳られている日本のみでなく、朝鮮、
 清(中国)にも広め、東洋の衰運を挽回したいとの意図
 もあった。
  しかし、当局により虚無党とみなされ、
  同年・1882年6月、山田顕義(あきよし)内務卿(きょう)
 により治安に有害とされ、
  1ヵ月後の6月20日に、集合禁止を命じられ、
  翌年・1883年1月、樽井は軽禁錮に処せられ、解散した。
1882年7月10日、お茶の水女子大学附属の前身
  東京女子師範学校で、予科を改組し、
  修業年限5年の附属高等女学校を設置した(お茶の水
 子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校の前
 身)
  1873年11月、文部省学監の御雇外国人・ダビッド・モ
 ルレーは、
  申報(しんぽう、中国最初の日刊紙)のなかで、日本
 も欧米諸国に倣って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」
 として育成することを建言し、文部少輔である田中不二
 麿もこれに同調し、
  翌年・1874年1月、三条実美太政大臣に対し「東京府
 ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出した。
  これが承認され、
  同年・1874年3月13日に、木戸孝允文部卿により、お茶
 ノ水橋たもとに、女子師範学校を設置する旨布達が発令、
  日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範
 学校の設立となった(11月に開校)
1882年7月14日、共同運輸会社
  渋沢栄一・益田孝らが、共同運輸会社を設立した。
  共同運輸会社は、海運会社で、日本郵船会社の前身。
  この年に、三菱(みつびし)会社の海運界独占に対抗す
 るためにつくられた。
1882年7月23日、壬午軍乱(じんごぐんらん)
  朝鮮王国の漢城(ハンソン、現=ソウル)で、兵士が
 待遇に不満をいだいて反乱を起こした。
  この暴動に貧民も混じって、大臣の屋敷を襲撃した。
  支援と称して出動した清国軍は、暴動に加担した軍人
 や民衆を弾圧した。
  軍・兵士らは、また、朝鮮王国の重臣や、日本人軍事
 顧問らを殺害した。
  日本公使館も襲撃され、公使の花房義質らは、一旦脱
 出した。
  日本政府は、軍艦4隻を派遣し、清朝政府も、北洋艦
 隊を派遣した。
  翌月・1882年8月に、済物浦条約を締結した。
  (朝鮮・京城に内乱起り、暴徒、王宮に乱入、日本公
 使館も襲撃さる。壬午事変ともいう)
  この壬午事変の後の、翌々年・1884年の甲申事変を経
 て、日本は清国との間に、天津条約を結ぶに至る。
1882年7月30日、朝鮮の変報に、日本軍艦、急きょ派遣。
1882年7月31日、工部美術学校(日本最初の美術教育機関
 の彫刻科の廃止に伴い、ラグーザの解任。
  1887年の西南戦争後の、財政事情の悪化のため、十分
 な教育ができないと考えた御雇外国人・フォンタネージ
 は、1878年に、帰国してしまった。
  代わりにフェレッチが招かれたが、
  フォンタネージに心服していた画学科の学生たちは、
 不満をもち、多数が退学した(退学者たちは十一会を設
 立した)。
  後に、フェレッチに代わり、サン・ジョヴァンニが就
 任した。
  さらに、アーネスト・フェノロサの提言などもあって
 日本美術の再評価が行われた。
  こうした背景の中、1882年6月に彫刻科が廃止され、翌
 年・1883年1月に、画学科も廃止されて、工部美術学校は
 廃校に至った。
  因みに、フェノロサは、日本美術を愛した日本美術研
 究家で、
  ハーバード大学で哲学をまなんだ秀才(首席で卒業)
  父が自殺し、
  自殺者を差別するキリスト教の差別を受けるころ、
  東京大学の求人情報を知り、新天地として渡日を決意
 する。
  フェノロサは、来日後すぐに、仏像や浮世絵など様々
 な日本美術の美しさに心を奪われた。
  「日本では、全国民が美的感覚を持ち、庭園の庵や置
 き物、日常用品、枝に止まる小鳥にも美を見出し、最下
 層の労働者さえ山水を愛で花を摘む」と彼は記した。
  彼は、日本の美を求めて、全国の古寺を旅した。
  このような時、仏教寺院は寺領を没収され、経済的危
 機にあった。
  日常の費用に困る状況、財政難にあった(廃仏稀釈の
 関係、西欧は何でも良いという時代だった)。
  フェノロサは、日本美術の素晴らしさを訴え、保護に
 立ち上がった。
  1880年に、長男が誕生し「カノー」と名付けた。
  日本画家の「狩野」に由来していた。
  また、彼は、1881年(28歳)に、滅亡寸前であった日
 本画を憂え、日本画の復興も決意した。
  その頃の日本は、日本の良さを見失い、何でも欧米讃
 美にあった日本へ、覚醒を求め、講演もした。
  日本政府も、フェノロサの言葉に目覚め、フェノロサ
 の演説を印刷し、全国に配布した。
  1882年(29歳)の時、彼は、日本画の第1回コンクール
 (内国絵画共進会)の審査委員として招かれた。
  ここで狩野芳崖(かのうほうがい)を発見する(この
 時、芳崖54歳)。
  フェノロサは、この翌年から、芳崖に生活費を支給し
 始めた。
  1884年(31歳)の時、彼は、政府の宝物調査団に任命
 され、文部省職員となっていた岡倉天心と奈良・京都の
 古社寺を歴訪した。
  この調査で、法隆寺の救世観音像(国宝)を見い出す。
  これらの行動などのうち、仏教の奥深さを知ったフェ
 ノロサは、翌年・1885年(32歳)の時、キリスト教を捨
 て、仏教徒となった。
  そして、滋賀の三井寺園城寺)にて受戒した。
  『諦信』の法名を授かった。
  彼の故郷、生地のセラームの魔女事件の記憶も彼には、
 フェノロサにはあった。
  歴史上の汚点として残る、1692年の悪名高い魔女裁判
 で、200名もの女性が、拷問され、火あぶりの刑に処せら
 れている。
  1888年フェノロサ35歳の時、岡倉天心は欧州の視察
 体験から、国立美術学校の必要性を痛感した。
  そして、東京美術学校(現:東京芸術大学)を設立し、
 初代校長となった。
  フェノロサは、副校長に就任し、美術史を講義した。
  東京芸術大学には、この開校の由来を刻んだ石碑があ
 り、フェノロサが描かれている。
  1890年(37歳)、ボストン美術館に日本美術部が新設
 され、フェノロサへ就任以来が届き、
  また、この時、日本政府との契約も満期終了となり、
 彼は、帰国の途に就いた。
  日本政府は、フェノロサに勲三等を授与した。
  この年、フェノロサは、ボストン美術館の東洋美術部
 長に就任した。
  そして、日本美術の紹介に尽力した。
  1896年(43歳)の時、彼は、2度目の来日をする、そし
 て、東京高等師範学校の教授となった。
  そして、この年、彼は、夫人と共に、三井寺・法明院
 を訪ねた。
  法明院は、彼を仏門に導いた僧が、住職を務めていた。
  フェノロサは、法明院の茶室「時雨亭」で寝起きした。
  今でも、フェノロサの愛用の蓄音機・望遠鏡・地球儀
 が同院に保存されている。
  1898年(45歳)、3度目の来日。
  この時、上野で「浮世絵展覧会」を開催し、彼・自ら
 英文付きの目録を作成し、解説を書いている。
  1901年(48歳)、来日。これが最後の来日だった。
  「北斎展」の開催のための来日だった。
  そして、1908年(55歳)の時、ロンドン開催の国際美
 術会議にアメリカ代表委員として出席し、
  その滞在中に、心臓発作で急逝した。
  戒名は、「玄智院明徹諦信居士」。
  フェノロサは、生前、「墓は法明院に」と願っていた。
  翌・1909年、三井寺・法明院に分骨され、埋葬された。
  彼が集めた2万点の美術品は、ボストン美術館でしっか
 り管理・所蔵され、展示されている。
  当時、来日した医師・ビゲローは次の様に記した・・、
  「維新後に名品が大量に(日本の)市場に出たのは、
 二つの原因による。
  ひとつは、経済的に困窮した貴族層が値段の見境なく
 売り出したこと。
  もう一つは、日本人の間に、極端な外国崇拝があるこ
 と」・・と。
  フェノロサも天心に言った、
  「本当にもったいないことです」・・と。
1882年8月5日、「戒厳令」 制定
  軍隊に非常事態統治権戒厳令が定められた。
  (参考)戒厳(かいげん)とは、
  戦時において、兵力をもって一地域、あるいは、全国
 を警備する場合に、
  国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止
 し、
  行政権・司法権の一部、ないし全部を、軍部の権力下
 に移行することをいう。
  軍事法規のひとつであり、戒厳について規定した法令
 を戒厳令(martial law)という。
1882年8月5日、徴発令を定めた(8月12日説あり)
  戦時調達を定めた徴発例が定められた。
  1882年8月5日のこの日に、戒厳に関する法令が、元老
 院の審議を経て、太政官布告第36号を以て公布された。
  徴発は、戦時または事変、時によっては、平時の演習
 に際し、地方の人民に賦課して軍需を満たすことで、
  この徴発令は、朝鮮の壬午軍乱にあたり、日本陸軍
 初の動員を行うに際して急ぎ制定された。
  「戦時若クハ事変ニ際シ、兵備ヲ以テ、全国若クハ一
 地方ヲ警備スル」
  警戒される地域は、戒厳地域と称し、
  その地域内において、司令官は、次の諸件を執行する
 権利を有する。
  (1)集会、若しくは、新聞・雑誌・広告等の時勢に妨
    害ありと認めるものを停止する。
  (2)軍需に供すべき民有の緒物品を調査し、又は、時
    機に依りその輸出を禁止する。
  (3)郵信・電報を開封し、出入の船舶及び緒物件を検
    査し、並に、陸海通路を停止する。
  (4)戦状に依り、已むを得ざる場合、人民の動産・不
    動産を破壊たん焼する。
  ・・などで、有事の際に、国民の気持ちを一つにまと
 めるとともに、軍事機密が洩れるのを防ぐことを意図し
 ている。
  そして、戒厳の執行によりて蒙りたる損害は要償する
 ことができないとなっている。
1882年8月8日、憲法の成案の確信を得る。
  伊藤博文が、ウィーンのロレンツ・フォン・スタイン
 邸を初めて訪問し、そこで最も有益な教示を受け、憲法
 の成案に確信を持ったという。
  それから、11月まで4ヶ月間(2ヶ月?)、ウィーンに
 滞在し、憲法の講義を受けた。
  河島醇や柳原公使や、たくさんの日本人が集まって随
 分にぎやかだったという。
  明治憲法大日本帝国憲法)の逸話。
  (参考)ロレンツ・フォン・スタインは:
  ドイツの法学者・思想家。1815年11月18日〜1890年9月
 23日。
  彼は、伊藤にプロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた。
  そして、伊藤は、この時、日本政府の法律顧問として
 招聘したいと懇願した。
  しかし、高齢を理由に実現しなかった(代わりの候補
 者が推薦された)。
  ただ、シュタイン自身は、ドイツの体制には批判的で
 あり、日本の国情・歴史を分析した上で、あえて、ドイ
 ツ憲法を薦めた。
  しかし、伊藤とともに憲法草案を執筆した井上毅が、
 シュタインに批判的であったため、
  実際に制定された大日本帝国憲法の内容には、シュタ
 イン学説の影響は少ない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive