(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月〜1882年10月)

題:(増補版)376E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年8月〜1882年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年8月9日、清国が、属邦保護のためとして朝鮮派兵を
 日本へ通告して来た。
  壬午事変(1882年7月23日に勃発)の発生を察知した清
 国は、「両国間を調停したい」「日本公使館は我が属邦
 に在るので派兵したい(兵を派して護衛したい)」と言
 って来た。
1882年8月11日、日本の清国への通告
  吉田清成外務卿代理は、朝鮮(李氏朝鮮)は清国の属
 国ではない、「日本は、朝鮮を自主独立国と認める」と
 通告した。
1882年8月11日、伊藤博文が、憲法草案の形が見えたことを
 日本へ連絡した。
  伊藤博文は、日本の憲法を作ろうと、ヨーロッパに来
 ていたが、
  その憲法を、如何に形づけるかと、その姿が見えずに、
 苦しみ悩んでいた。
  その当時、日本は、一部の選ばれた者が、政治を行う
 体制で、
  自由民権運動が起こり、国民の間で、最高潮に達して
 いた。
  そこに、「憲法を定めて、国会を開く」という国民の
 要望があった。
  政府は、国民の要望を聞き入れ、1890年に、国会を開
 くことを約束した。
  伊藤は、この様な切羽詰まった状態の中で、憲法につ
 いての調査に、ドイツに来ていた。
  この日、伊藤博文は、岩倉具視へ、ドイツから書簡を
 書いた。
  その憲法の姿が見えたと感動的に記述した。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、皇室の基礎を固め、、
 大権の大眼目を充分に組み立てました。・・
  いま、我が国の現情は、自由論者が、英米仏流の思想
 を誤信し、国家を傾けようとの勢いで御座いますが、こ
 れを凌駕する論理と手段とを私がつかみましたことは、
 報国(ほうこく、国恩にむくいること)の赤心(せきし
 ん、嘘いつわりのない、ありのままの心、まごころ)を
 貫徹する時機において、その効果をあらわす大切な要具
 になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」・・と。
1882年8月15日、煙草税の増税を建議
  朝鮮で起きた壬午事変、そして、その後に、清が、朝
 鮮に軍隊を駐留させて干渉するようになった。
  朝鮮内では、この清の方針に沿おうとする穏健的開化
 派(事大党)と、
  これを不当とする急進的開化派(独立党)との二派が
 相争う姿が鮮明になった。
  党派の観点からは前者の清の方針に沿おうとする派が
 優勢だった。
  後者の独立党は劣勢であった。
  また、アメリカ・イギリス・ドイツなどは前者を支援
 し、日本は後者を支援した。
  この様な情勢の中で、日本は、参事院議長・山県有朋
 が、煙草増税をもって軍備充実にあたりたいと建議した。
1882年8月30日、「済物浦條約」 締結
  日本と朝鮮の両国代表の間に、善後処置のための済物
 浦条約が成った。
  日本と李氏朝鮮の間で締結された条約・・済物浦は、
 朝鮮語読みで「サイモッポ」、仁川の旧称。
   壬午事変(壬午軍乱)での日本公使館焼き討ち事件等
 の事後処理のために結ばれた。
  この朝鮮の不満兵士の反乱・事変において、
  日本の公使館が襲われ、日本人の死傷者十数名を出し
 た事変について、首謀者の処罰、賠償、公使館の修理費
 と護衛の為の駐留、開市・開港などが締結された。
  朝鮮駐在公使・花房義質(はなぶさよしただ)は、朝鮮
 政府代表・李裕元(りゆうげん)、金宏集(きんこうしゅ
 う)と、済物浦(現:仁川(じんせん))で、善後約定を結
 んだ。
  加害者処罰、損害賠償、および、公使館護衛のための
 兵員駐在、国書による謝罪が決められた。
  これは、若干名とはいえ、日本が海外に駐兵権を得た
 最初の条約だった。
  この日本の駐兵に対抗して、清(しん)側は軍駐在、お
 よび、宗主権の一層の強化を図った。
  そして、親日派の独立党と、親清派の事大党との相克
 が激化した。
  甲申(こうしん)政変の遠因が醸成された。
  しかし、この済物浦条約がすんなり締結されたわけで
 はなかった。
  そこには、清国の影響から、交渉の進展を渋った朝鮮
 があり、
  この日本・朝鮮間の交渉の停滞に、いち早く反応した
 のが、仁川に軍隊を展開していた馬建忠が率いる清国軍
 だった。
  清国軍は、日本の交渉団が漢城を去るのと入れ違いに
 入京した。
  そして、日本側へ、「李氏朝鮮の大院君を排斥し、交
 渉を調停する用意がある」と言った。
  日本はその話を拒否した。
  しかし、清国軍の陣営に誘(おび)き出された大院君(
 日本と朝鮮の条約締結の要(かなめ)に居た)は、身柄
 を拘束され、清国へと連れ去られた。
  そして、漢城市内に、「大院君が清国皇帝の怒りに触
 れて処罰された」とする掲示文が貼り出された。
  大院君が、清国に拉致された期間は3年間という長期に
 渡った。
  この様なアクシデントの中、朝鮮政府から謝罪文が日
 本側へ送られて来た。
  これを契機に、交渉再開が約され、そして、交渉は続
 けられた。
  条約内容は、日本公使館の襲撃において、多くの職員
 が被害を受け、
  また、朝鮮国から招聘を受けて、日本側が送り出した
 軍事教官までもが惨殺された経緯において・・、
  しかし、和好を重んじ、両国関係を修復しようと表明
 され、話し合いによって条約は約された。
  軍乱に巻き込まれて死亡した日本官吏は、礼を尽くし
 て埋葬し、厚く弔うとされた。
  また、日本公使館は、兵員若干名を置いて警護するこ
 とも約された。
  そして、国書をもって日本へ謝罪する事も約され、
  また、同時に、日朝修好条規続約(追加条項)が決め
 られ、
  居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴
 が認められた。
1882年8月、会津自由党員の宇田成一らが、福島県新道路建
 設反対の抵抗運動を開始した。
1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院した。
  日本初の私立医科大学で、東京慈恵会医科大学附属病
 院の前身。
  尚、高木兼寛(たかきかねひろ)は、「ビタミン研究
 の開拓者」として、日本、および、欧米においても高い
 評価を受けていて、
  1959年(昭和34年)には、イギリスの南極地名委員会
 によって、南極大陸に「高木岬」という地名がつけられ
 た。
  その説明には、「日本帝国海軍の軍医総監・高木兼寛
 男爵は、1882年、食事の改善によって脚気の予防に初め
 て成功した」と述べられている。
1882年9月9日、板垣退助の外遊資金疑惑
  立憲改進党系の東京横浜毎日新聞が・・、
  板垣退助の外遊資金の出所疑惑について非難した。
  この攻撃を受けた自由党は、大混乱に陥(おちい)っ
 たが、立憲改進党と三菱との関係を攻撃した。
  しかし、この年・1882年、欧州の憲政事情研究の名目
 で、板垣は、後藤象二郎とふたりで外遊した。
  因みに、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)は、土佐
 藩政の最高責任者だった、そして、参政を務め、
  1867(慶応3)年1月、脱藩者の坂本龍馬と長崎の清風亭
 で会談し、
  土佐藩大政奉還に向けて動き出す契機となった。
  龍馬は、姉の乙女らへの手紙で後藤について・・、
  「実ニ同志ニて人のたましいも志も、土佐国中で外ニ
 ハあるまいと存候(ぞんじそうろう)」と評した。
1882年9月22日、陸軍裁判所の廃止
  陸軍裁判所が廃止され、東京鎮台に軍法会議を設置し
 た。
1882年10月1日、 第1回 内國絵画共進會 開催
  東京の上野公園で、農商務省主催の第1回・内国絵画
 共進会が開催された。
  洋風画の出品は拒否された。
  内國絵画共進會(ないこくかいがきょうしんかい)は、
 1882年と1884年に開催された官営の展覧会で、
  維新と、それに続く文明開化の風潮(アメリカ・ヨー
 ロッパ讃美にマインド・コントロールされた風潮)は、
 日本固有の美術を衰微させたが・・、
  やがて反省が起こり・・伝統保存の機運が高まった。
  (フェノロサのお蔭・功績、
  しかし、廃仏毀釈の愚行で、多くの国宝級の伝統の美
 術・工芸の品々が逸失した。まったく惜しい限り)。
  端緒になったのは、1877年に開催された内国勧業博覧
 会の成功と、1879年に創立した竜池会(古美術の鑑賞と
 調査のため、佐野常民らによって組織された)の運動で
 あった。
  東京大学に招聘(しようへい)されたフェノロサが竜
 池会で講演し、洋画を排して日本画を尊重すべきことを
 説いたことが、この機運をいちじるしく助長した。
1882年10月2日、浅草〜上野〜日本橋間の全線が開業した。
1882年10月4日、馬車鉄道が出現したことにより、失業対策
 として人力車夫懇親会が結成された。
1882年10月10日、日本銀行条例により成立した日本銀行
 開業した(10月6日説あり)
  東京の永代橋のたもと(現在の日本橋箱崎町)にあっ
 た旧北海道開拓使出張所の建物を本店とし、中央銀行
 して開業し、業務を開始した。
  政府が発行した札を回収し、また、札の発行を1ヶ所で
 行なうことを目的として設立された。
  預金取引し、貸出等を開始。
  明治維新以来、明治政府は、混乱した貨幣制度を建て
 直すため、新貨条例や国立銀行条例を 制定するなど貨幣
 制度の近代化に努めて来ていた。
  沿革:
  1872年、国立銀行条例が制定され、
  1876年、国立銀行条例全面改正された。
    不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、イ
   ンフレーションが進行した。
  1881年三井銀行の為替方を廃止し、大蔵卿・松方正
   義により日本銀行の創設へ。
  1882年6月、日本銀行条例が公布され、
  1882年10月10日、日本銀行が開業した。
  日本銀行券発行は(1885年)、本館完成(1896年)
1882年10月10日、曹洞宗、大学林専門学本校を開校した。
 後の駒沢大学
1882年10月19日、朝鮮全権大臣兼修信使・朴泳孝らが、天
 皇陛下と会見し、国書を提出した。
  朴泳孝(ぼくえいこう)は、朝鮮における貴族で、ま
 た、実業家でもあり、福沢諭吉と交遊があり、支援を受
 けていた。
  そして、この時、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のため
 に派遣された。
  朴泳孝は、この時、8月9日に仁川を出航して、この日
 本に向かう船上で、現在の大韓民国国旗である太極旗の
 デザインを考案した。
  この時、イギリス領事が立ち会っている。
  このいきさつが、彼の記述の『使和記略』に詳しく書
 かれている。
  そして、神戸に到着した8月14日には、すでに宿泊先に
 このデザインした太極旗を掲げた。
  そして、8月22日に、国旗制定を本国に報告した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive