(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月〜1882年12月)

題:(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月〜1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年10月21日、東京専門学校が創立した(後の、早稲田
 大学)
  大隈重信、および、小野梓らが、東京専門学校を創立
 (設立)し、開校式を挙行し開校した。
  因みに、大学令による私立大学は、慶應義塾大学と早
 稲田大学が、1920年2月2日に、私立大学で初めて(旧制)
 大学として認可された。
  そして、この年、次いで、公立2校と私立6校が大学と
 して設立された。
1882年10月27日、売薬印紙税規則が制定され、布告された。
  売薬業者が減少した
  施行は、1883年1月1日。
  因みに、1886年になると、売薬印紙交換規則が制定さ
 れ、未使用の売薬印紙が交換できるようになった。
  また、この年、 藤井論三が、ハワイに売薬を輸出し、
 富山売薬の海外進出が始まった。
  この売薬税は、一種の消費税で、下層ともされる階層
 の人たちが頼りにする薬に税を課すことは悪税とされ、
  1926年(大正15年)に廃止とされた。
1882年10月30日、日朝修好条規続約の批准書が交換された
 (10月31日説あり)
  件名: 朝鮮国修好条規続約訂定交換(ちょうせんこく
 しゅうこうじょうきぞくやくていていこうかん)
  調印: 1882年(明治15年)8月30日(陰暦7月17日)
  場所: 仁川府(済物浦)
  日本側全権: 花房義質
  朝鮮側全権: 李裕元、金宏集
  批准: 1882年(明治15年)10月30日
  布告: 1882年(明治15年)11月22日
  法令番号: 明治15年太政官布告第54号
  内容:
  日本國ト朝鮮國ト嗣後益々親好ヲ表シ貿易ヲ便ニスル
 爲メ茲ニ續約二款ヲ訂定スルコト左ノ如シ
  第一 元山釜山仁川各港ノ間行里程今後擴メテ四方各
 五十里ト爲シ(朝鮮里法)二年ノ後ヲ期シ(條約批准ノ
 日ヨリ周歳ヲ算シテ一年ト爲ス)更ニ各百里ト爲ス事
  今ヨリ二年ノ後ヲ期シ楊花鎭ヲ以テ開市場ト爲ス事(
 間行里程取極約書ノ部ヲ參照スヘシ)
  第二 日本國公使領事及ヒ其隨員眷從ノ朝鮮内地各處
 ニ遊歷スルヲ任聽スル事
  遊歷地方ヲ指定シ禮曹ヨリ證書ヲ給シ地方官證書ヲ驗
 メ護送ス
  右兩國全權大臣各々
  諭旨ニ據リ約ヲ立テ印ヲ盖シ更ニ批准ヲ請ヒ二ケ月ノ
 内(日本明治十五年十月 朝鮮開國四百九十一年九月)
 日本東京ニ於テ交換スヘシ
  大日本國 明治十五年八月三十日
   日本國辨理公使 花房義質(印)
  大朝鮮國 開國四百九十一年七月十七日
   朝鮮國全權大臣 李裕元(印)
   朝鮮國全權副官 金宏集(印)
1882年10月31日、海軍兵学校条令が制定された。
  海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、1876年に設
 立され、
  大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教
 育機関だった。
  海軍兵学校と言えば江田島だった。
  この海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とと
 もに生徒三校と呼ばれた。
  その規模は、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカの
 合衆国海軍兵学校とともに、世界でも最大の兵学校の一
 つであった。
  この海軍兵学校から、全78期、総計1万2433名の卒業生
 が輩出した。
  英語教育が重視され、また、徹底した教養教育もなさ
 れた。
  坂元正一東京大学名誉教授や、建築家・池田武邦(日
 本の高層建築のパイオニア)など、近年まで、各界でリ
 ーダーとして活躍している卒業生も多い。
  その創立は、勝海舟が関係した海軍操練所に辿れる。
  東京・築地の元芸州屋敷内に、1869年に、創立開設さ
 れた。
  1870年(明治3年)、海軍兵学寮と改称し、
  1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校した。
  築地時代に、明治天皇陛下が、皇居から海軍兵学校
 で行幸され、その道が、現在のみゆき通り。
1882年11月1日、東京電灯會社が設立され・・、
  初の電気街灯が点灯された。
  東京・銀座大倉組前で、4000燭光のアーク灯が点灯し
 た。
  これが、日本で初めての電気街灯だった。
  これは、東京電灯会社設立事務所が、会社設立の宣伝
 を兼ね、銀座大倉組前でアーク灯を点灯したもので、
 大評判となった。
1882年11月1日、東京職工学校が開校した。
  この学校は、1881年4月、東京府浅草区(現在の東京都
 台東区)に設立された旧制の中等教育、もしくは、高等
 教育相当の官立学校で、
  明治初期の日本では、産業技術の近代化を推進する人
 材を育成するべく、
  欧米の科学技術を取り入れた工業技術教育の整備が進
 められた。
  まず初め、1873年に、工部省の工学寮工学校が、日本
 最初の国立工業学校として設立され、
  そして、1877年には、工部大学校に改組された。
  御雇外国人G・ワグネルの建議を受けて、1874年に、東
 京開成学校内に「製作学教場」が設置された。
  しかし、3年後の1877年に廃止された。
  先行の工部大学校も、1886年東京大学に合併されて
 (東京)帝国大学工科大学に改組された後は、実務的な
 工業教育よりも学理研究へと傾斜していた。
  この様な状況の中、ワグネルや手島精一(文部省・教
 育博物館長補)は、中等技術教育の必要性を主張し、文
 部省内の理解者(九鬼隆一・浜尾新などの同調者)が現
 れたことから、
  1881年4月26日、文部省は、官立の東京職工学校を設立
 した。
  職工学校は「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ
 必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校として位置づけ
 られ、教員となったのは東京大学理学部を卒業した日本
 人の教員で、
  先行の開成学校・工部大学校・東京大学の教官の大半
 が、御雇外国人で占められていたのとは大きく違った。
1882年11月4日、皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)が
 開設された(国学院大学の前身)。
  皇典講究所は、国典を研究し、国体の意義を明らかに
 して、日本的徳性を有する人材を育成することを目的と
 し、
  「凡ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ」(初代
 総裁有栖川宮幟仁(たかひと)親王の告諭)ということか
 ら、
  国体を講明し、徳性を涵養し、皇典を講究して祭祀・
 旧儀古式を明らかにし、かつ、これに必要な教育を施し
 て国家有用の人物を養成するにあった。
  山田顕義、岩下方平らにより この時、東京に設立され
 た財団法人で、
   1890年には、国史国学を研究するための國學院を設
 立し、神職の養成も行なった。
  1946年には、GHQ占領政策により解体させられた。
1882年11月13日、幌内鉄道が、幌内まで全通した(11月10
 日説あり)
  明治政府の資源開発の為の鉄道で、
  建設工事は、1880年1月、小樽市内の若竹第3隧道から
 着工されていた。
  1880年10月24日には、手宮桟橋〜熊碓第4隧道間で蒸気
 機関車「弁慶号」による試運転を行い、
  1880年11月28日には、手宮〜札幌間の22マイル25チェ
 ーン(約35.9km)が開通していた。
  また、1882年2月8日を以って開拓使は廃止されたが、
 鉄道と炭鉱は、工部省の所管となり、
  1882年6月25日には、札幌〜江別間が仮開業し、
  1882年11月13日には、手宮〜幌内間が全通した。
1882年11月11日、板垣退助後藤象二郎が、横浜を出発し
 渡欧した。
  しかし、何故、渡欧したのかの理由は、よく分からな
 い状況にある。
  板垣退助後藤象二郎は、随員二人(今村和郎、栗原
 亮一)を連れ、この時、横浜を出港し、
  翌年・1883年6月に、帰国するまで、ヨーロッパの国会
 や政治などを視察するため渡欧したとされる。
  板垣の渡欧については、自由党内部でも、旅行反対論
 が沸き起こっていた。
  しかし、ふたりは渡欧を強行した。
  板垣と後藤のパリ滞在中の行動は、当時、パリに滞在
 していた西園寺公望がお目付け役として監視していて、
 伊東博文に手紙で報告している。
  そして、このことは、伊藤博文西園寺公望書簡(伊
 藤博文関係文書5)で読むことができる。
  その書簡によると、板垣は、西園寺に滞在資金の援助
 を求めている。
  板垣は、滞在費の工面に困窮していたのでホテル住ま
 いができず、安アパートで生活をし、外出もあまりしな
 かった。
  しかし、一方の後藤は、ホテル住まいで、羽振りがよ
 かった様だ。
  しかし、この渡欧中の後藤の行動は、よく分かってな
 い。
  この渡欧の資金は、何と政敵側から捻出されていると
 いう疑惑も持たれている。
  この「板垣退助の洋行問題」は、国内の政局問題とし
 て語られている。
  そして、この様な、政局のリスクを無視してまで押し
 切った渡欧・・、
  なのに、何をしたかったかがよく分かってない。
  特に、後藤の行動が謎・・?
  ただの物見遊山で渡欧したとは考えにくい。
  この頃の東アジア情勢に関わっているという説がある。
  この頃、後藤象二郎は、福沢諭吉を介して、朝鮮の開
 明派の金玉均と会っている。
  この頃の朝鮮は、中国(清朝)への旧態依然とした属
 国のようだった。
  金玉均は、日本に倣(なら)って開国をとげて、
  日本がヨーロッパのイギリスなら、朝鮮はフランスに
 ならなければならないと考えていた。
  この様な金玉均に、後藤は、当時、中国と交戦状態に
 あったフランスと利害が一致する朝鮮独立運動で、フラ
 ンスに活動資金となる借款を出させるよう、後藤は、仲
 介をしている。
  こうした背景と、この渡欧は無縁とは言えない。
  因みに、後藤は、1881年に、自由党の結成に際し、板
 垣に次ぐ副党首格で参加し、大同団結運動を推進する。
1882年11月13日、陸軍大学校条例を定めた。
  陸軍の将校のなかから優秀な者を選抜し、高等用兵、
 および、軍事研究に必要な学術を修得させ、
  また、高等用兵に関する研究を行う学校。
  アメリカ、イギリス、フランスをはじめとして、各国
 とも高級指揮官、幕僚教育、軍事研究のための陸軍大学
 校が設立されている。
1882年11月19日、右大臣・岩倉具視が、海軍拡張を建議し
 た(9月説あり)
  明治維新以来、日本は対外的危機の中に居た。
  その西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に、海防
 は重要な政治課題の一つであった。
  しかし、財政の制約、血税一揆士族反乱を鎮圧する
 ため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警
 備軍)の建設が優先されていた。
  ただし、1877年の西南戦争後、陸軍の実力者・山縣有
 朋が、「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年・
 1877年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、たえ
 ず軍拡が追求されたわけではなかった。
  それが、軍拡路線へ転換が計られたのは、1882年に、
 朝鮮で勃発した壬午事変であった。
  事変直後の同年・1882年8月、山縣は、煙草税増税によ
 る軍拡を、
  1882年9月に、岩倉具視が、清を仮想敵国とする海軍増
 強とそのための増税を建議した。
1882年11月24日、松方大蔵卿が「軍備拡張ノ議」を上程し
 た。
  清国の軍事脅威から国防増強の必要性が迫られ、軍備
 拡張策がとられた。
  そして、軍拡についての詔勅が下された。
  この年の壬午軍乱を契機とする軍備と、その時の清国
 の圧力の脅威を目の当たりにしたことに、その対処を目
 的とした財源確保のための大増税政策が実施された。
  朝鮮の軍乱以後、東洋、特に、清国の軍備と、その圧
 迫に脅され、自衛上、海軍拡張の急を迫られ、
  この国防政策遂行には、巨額の経費を必要とし、
  かつ、多額の国債償還を始め、他の一般経費の増加が
 見込まれていたため、
  財源となる租税収入は、北海道物産税軽減の閣議決定
 もあり、税収減が見込まれ、
  この税収減を補填し、かつ経費増加に対応するとして
 も、社会経済の発展変化に対応出来ないきわめて非弾力
 的な現行税制では困難であった。
  そこで、新税を起こして、これに対応する必要があり、
 この政策・増税策が採られた。
  わが国所得税創設は、世界で初めて所得税を創設した
 イギリスと同様に、軍事費の財源調達に起因した。
1882年11月28日、福島事件、(11月20日説あり)
  県令の三島通庸の圧政に対し、福島県民が立ち上がり、
 警官隊と衝突した。
  福島県道路建設に反対していた農民らの所有地が、
 公売処分されることになり、
  この運動を支援していた会津自由党の宇田成一らが抗
 議を行い、逮捕された。
  また、喜多方警察署に抗議した2人が逮捕されたのを
 きっかけに農民の怒りは爆発した。
  数千人の農民が、釈放を求め、喜多方警察署を包囲し、
 また、工事中止と弾圧抗議のため警察署へ押し掛けた。
  警察は、この事件を口実に、自由党員と農民あわせて
 約2000人を検挙した。
  自由民権運動を警察力で弾圧した最初の事件となった。
1882年11月、山川捨松と津田梅子が、アメリカより帰国し
 た。
  津田仙(旧幕臣東京府士族)と初子夫妻の次女とし
 て生まれた津田梅子。
  1871年、仙は、明治政府の事業である北海道開拓使
 嘱託となり、津田家は麻布へ移った。
  開拓使次官の黒田清隆は、女子教育にも関心を持って
 いた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応
 募させ、同年・1871年岩倉使節団随行して渡米した。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  1871年11月に、横浜を出港し、サンフランシスコを経
 て、同年・1871年12月に、ワシントンへ到着した。
  この時の留学生の山川捨松と津田梅子が、この年・1882
 年に帰国した。
  津田梅子は18歳だった。
  梅子は、アメリカでは一般家庭に預けられ、英語とピ
 アノを学び、学校へ通った。
  梅子は、帰国の18年後の1900年の36歳の時、父の津田
 仙らの支援を得て、「女子英学塾」(後の、津田塾大学
 を設立した。
  因みに、山川捨松は女性で、日本軍人の元帥陸軍大将
 の大山巌(おおやまいわお)の妻となり、大山捨松とな
 った。
  鹿鳴館時代は、明治政府の高官方たちと、諸外国の外
 交官の接待に、宴に加わり、涙ぐましい努力・活躍をさ
 れた。
  しかし、慣れない日本を、諸外国は揶揄し嘲弄した。
1882年11月、御雇外国人のドイツ人フェスカが来日した。
  フエスカは、ドイツの農学者で、
  1882年〜1894年の間、農商務省嘱託、駒場農学校(東
 京大学農学部の前身)教師、地質調査所土性掛長を兼任
 した。
  1886年に、北海道を実地調査し、「日本農業及北海道
 殖民論」(1888年)を発表した。
  その後、日本各地を歩き「農業改良」(1888年)、「地
 産要覧図」(1889年)をとりまとめた。
  この様に、わが国最初の全国的土性調査を指導し、本
 格的記録を完成した。
  そして、日本農業に関して多くの提言・・、
  科学的農学に基づき在来・零細農法を批判し(大農方
 式の導入を主張)、日本の土性調査事業を創始し、「日
 本農業及北海道殖民論」「日本地産論」などで農業改良
 策を立案、近代農学の育成に貢献した。(1845年〜1917年)
1882年12月1日、 福嶋事件 (11月28日説あり)
  福島県自由党幹部の河野広中らが、政府転覆の盟約を
 作成したという容疑で逮捕された。
  道路工事の反対運動での福島事件の首謀者として、河
 野広中ら逮捕のほか、自由党員などが一斉検挙された。
1882年12月1日、農商務省の官立学校の東京山林学校が開校
 した。
  世界的に例のない林学の高等教育機関だった。
  修業年限は3年で、前期・後期に分け、
  前期を2段階、 後期を4段階にして講した。
  教養課程にあたる前期で、主に、自然科学系の基礎科
 目を取得し、段階を上げるにしたがい、その他の学系科
 目が占める形式にしていた。
1882年12月2日、東京の馬車鉄道を更に延長して、京橋〜
 上野間に布設し、開業された。
  馬車鉄道は、南は沖縄から、北は北海道までの全国に
 広まって行った。
  しかし、電気で動く電車が登場すると、糞尿や餌の問
 題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道
 は衰退した。
  東京馬車鉄道も、1903年明治36年)には電化され、
 「東京電車鉄道」となった。
  因みに、電車ではなく、蒸気鉄道に生まれ変わったも
 のや、馬車鉄道のまま廃止になったものもある。
  日本で、最後まで営業していた民営の馬車鉄道は、1949
 年(昭和24年)に廃止された宮崎県の銀鏡軌道である。
  また、北海道の殖民軌道などでは、昭和30年代まで存
 続した。
  現在、北海道にある野幌森林公園内で、「北海道開拓
 の村」にて、馬車鉄道が夏季に限って、再現という形で
 運行されている。
  また、岩手県の「小岩井農場」内にある「まきば園」
 でも、同様に、観光向けで馬車鉄道が運行されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive