(増補版)356E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年1月〜1879年6月)

題:(増補版)356E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年1月〜1879年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1879年1月1日、広島測候所が創設された。
  政府に、国営で整備する余裕がなく、広島県が、広島
 測候所を創設した。
  そして、気象観測を開始した。
  1939年(昭和14年)11月1日に、国営へ移管され、中央
 気象台広島測候所となった。
1879年1月8日、済世館、開院式
   山形県立病院・済世館の開院式が行われた。
  太政大臣三条実美(さねとみ)が命名して揮毫した
 「濟世館」の額が披露された。
  県令の三島通庸の「山形の近代化を図りたい」と、
  また、「東北地方で最も早く西洋医学を取り入れ、診
 療の他に医学校も併設したい」との意欲で行われた。
  オーストリア人医師・ローレツを金沢医学校から招聘
 し、経営された。
  建物は、東北地方の大規模な洋風化の歴史を示す資料
 として、国の重要文化財となった。
1879年1月15日、大阪商法會議所 開所式
  1878年7月に、設立願書が、府に提出され、
  1878年8月に、大阪商法会議所が設立された。
  設立の儀願書を提出した有志15名は・・、
  中井由兵衛、白木保三、斉藤慶則、磯野小右衛門、
  芝川又平、藤田伝三郎、井藤儀兵衛、妹尾平次郎、
  山本忠、高田伝蔵、金沢卯右衛門、沢田世範、
  広瀬宰平、中野梧一、五代友厚
1879年1月21日、五島列島住民のイギリス艦の援助
  夕方、英国の帆船「スター・クイーン号」が石炭を積
 み上海へ向けて長崎港を出港した。
  乗員乗客は女性2人、子供2人を含む33人(マレーシ
 ア人、中国人の乗組員の他、数人の欧州人の客)
  船長は、英人アンガス・F・マッキントッシュ
  ジャーディン・マセソン商会がチャーターした。
  午後8時頃、伊王島灯台を通過し、五島列島南方に差し
 かった頃、折からの強い南東の風にあおられ船は操舵不
 能になった。
  みぞれ混じりの豪雨の中、五島列島南端の黄島沖で座
 礁した。
  最初の衝撃で、トップマストが折れ、海中に落下した。
  救命ボートは、荒波に持っていかれた。
  海水が船内になだれ込む、
  マッキントッシュ船長は、落下していたマストに当た
 り即死しており、夜明けまでに死者は22人になった。
  五島住民は、遭難した乗員乗客を自宅に向かえ援助し
 た。
  そして、生存者は、1週間後に長崎へ戻れた。
  マッキントッシュ船長の遺体は、大浦国際墓地54番の
 2に埋葬され、葬られた。
1879年1月25日、大阪朝日新聞の創刊
  朝日新聞社が大阪江戸堀南通に創立された。
  そして、「朝日新聞」創刊第1号を発行した。
  総ふりがな、さし絵入り小型4ページ、
  定価:1部1銭、1か月18銭、
  1日平均部数:約1千部
  創始者:村山龍平、従業員約20人、
  1〜4号は3千部印刷した。
  「朝日」の由来は「旭日昇天 万象惟明」をもとに、編
 集主幹の津田貞の「毎朝、早く配達され、何よりも早く
 人が手にするもの」から由来、
  1888年7月10日、東京の「めさまし新聞」を買収して、
 改題し「東京朝日新聞」を創刊した。
  社屋は、京橋区元数寄屋町。
  号数は、自由燈・燈新聞・めさまし新聞を引き継いで
 1076号からスタートした。
  1889年、大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改
 題した。
  1940年9月1日、大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を
 「朝日新聞」に統一した。
  創刊当時は、小説と通俗記事を中心として大衆向けの
 絵入り「小新聞(こしんぶん)」だった。
1879年1月29日、万国電信条約に加盟した。
  外国電信業務を開始した。
1879年2月、医療文化の開化
  内務省が、医師開業試験規則を布告した。
  医師に資格試験を導入した。
  内務省は「医師試験規則」を各県に達し、全国統一の
 試験を実施した。
  大学卒業者等に対しては、無試験で開業免許授与した。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまで、医師といえば、医師は漢方医が主流であっ
 た。がしかし、この医術開業試験の導入により、新規に
 開業する医師は西洋医学の知識が必須となった。
  これは、近代日本での医師の西洋化において、画期的
 な出来事であった。
1879年3月3日、東京・上野に、貧民救療のため同愛社が開
 かれた。
  高松凌雲(たかまつりょううん、医師)が、1879年に、
 医師仲間と「同愛社」を設立し、貧民施療に努めた。
  同愛社は90万人余を救済したと言われている。
  後に同愛病院となる。
  発起人の初代社長の高松凌雲は、戊辰の箱館戦争で戦
 傷病者の救療に当たった。
  賛同する医師14人を社員として結成した。
  毎月10日に会合をもち、運営等を協議し、上野桜木町
 の鶯渓病院を本社に、社員の自宅を分社として施療した。
  施療券は、郡役所や地主・差配人を通じて配布した。
  財政難のため、独自の病院建設は実現しなかった。
  1911年、済生会の設立後解散説もでたが、何とか存続
 した。
  薬代は、社員の出金・寄附・補助金でまかなわれた。
1879年3月3日:高岡で大火。焼失家屋2000戸。
1879年3月12日、最初の内閣書記官長に中村弘毅を任命した。
  (内閣書紀官設立は3月10日)
1879年3月14日、松山にコレラ発生し、全国に広がった。
1879年3月20日東京府会、開会。
  東京府府議会が開会。
  府県会規則による府県会の最初。
1879年3月27日、愛国社、第二回大会開催。
  大坂の江戸堀で、愛國社の再興後の第2回大會が開催さ
 れた。
1879年3月28日、初めての日本での蓄音機の吹込み
  エジソンの蓄音機は、1878年、当時のお雇い外国人で
 東京大学教授・J.A.ユーイング(イギリス人)によって
 実験されていた。
  福地桜痴は、これを「蘇音器」とよんだ。
  そして、1879年3月には、東京商法会議所で、ユーイン
 グが、自ら制作し、持参し公開した、このエジソン蓄音
 機によって吹き込み実験が行われた。
  蓄音機には、1857年に、フランス人レオン・スコット
 (1817年〜1879年)が発明した装置のフォノトグラフが
 あり、
  蓄音機が世に出るまでには、多くの人の考案、実験の
 業績があった。
  しかし、実際に音を録音し、再生することのできる蓄
 音機で、世に出たのは、アメリカのトーマス・エジソン
 の発明によるものであった。
1879年3月29日、梁川紅蘭(やながわこうらん、女流漢詩人)
 が没した(76歳)
  画家。梁川星巌(せいがん)の妻。美濃の人。
  14歳のとき、江戸遊学から帰郷した詩人・梁川星巌
 ついて詩文を学び、17歳で星巌と結婚した。
  聡明にして詩文をよくし、中林竹洞に画を学んで山水
 花弁をよくしたと伝えられるが、確証はない。
  結婚後すぐに、星巌は、「留守中に裁縫をすること、
 三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。
  帰ってきたのはそれから3年後であり、
  紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばか
 りでなく、一首の詩を詠んでいる。
  常に星巌に随って、諸国の山川の勝を探り、一対の好
 夫婦と賛えられた。
  その作品の多くに夫の賛がある。
  頼三樹三郎等の志士が出入したため、幕吏の疑うとこ
 ろとなり、安政の大獄には、星巌はコレラにて歿してい
 たものの、
  紅蘭は捕らえられ、投獄されたが(夫の身代わりに投
 獄)、遂に、正義をつらぬき許された。
  一説では、捕らえられる前に星巌と交流のあった人物
 (吉田松陰橋本左内など)との手紙などの書類を焼却
 していたという。
  出牢後は、星巌の遺稿を出版、
  晩年は、京都に出て、私塾を開き、余生を送った。
  生涯で400以上の漢詩を示した他、絵画も残した。
  出身地の岐阜県大垣市曽根には、梁川星巌記念館があ
 り、近くの曽根城公園には、星巌と紅蘭の銅像がある。
1879年4月4日、琉球藩を廃止、沖縄県とする。
  琉球処分(沖縄縣 設置)
  (氷川清話)沖縄県を併合。
  県庁は首里
1879年4月、集治監(しゅうじかん)が設置された。
  東京・小菅に東京集治監(現在の東京拘置所の敷地)
 が、宮城の宮城集治監とともに設置された。
1879年5月9日、官吏の公開の場での政談演説を禁止する。
1879年5月13日、陸軍幕僚参謀条例が定められた。
1879年5月15日、山林局を内務省に改称し、設置。
  江戸時代以前の山林は、幕府所有と藩所有で、御林山・
 御山・御立山(おたてやま)などと呼ばれた。
  この内、領主に預けて利用させた御預山(おあずけや
 ま)と言われる山林もあり、
  また、村所有の地下山(じげやま)、
  そして、私有林の入会山もあった。
  しかし、「所有」という概念は明確にないまま管理・
 利用されて来た。
  明治政府は、これらをとりあげて、官民有の区分を、
 1874年に開始した。
  政府直轄の国有林である「官林」と、県庁所管の「官
 有地」を定め、
  また、一部は、慣行の入会権を認めて、地元の共有林
 や私有林として払い下げた。
  特に、北海道の官林は巨大な規模となった。
  所管は、民部省と大蔵省をへて、内務省地理局山林課
 があたった。
  1879年に、内務省山林局になった。
  1881年に、農商務省が発足し、林野行政は境界査定の
 測量を含め、同省山林局に移管された。
  1886年には、林区署官制により大林区署、小林区署が
 設置され、境界調査などが行なわれた。
  北海道の官林だけは、1886年北海道庁開設にともな
 い、内務省直轄の同庁へ移管され、第二次大戦終了時ま
 で継続した。
  また、1885年には、宮内省に御料局が置かれた。
  1889年、1890年に、官林から御料林に移管されたもの
 が多くあった。
1879年5月20日、清が、日本政府に琉球処分について抗議
  日清間において、琉球問題はくすぶり続けたが、
  最終的に、日清戦争(1894〜95)で、日本が勝利する
 ことにより終止符が打たれた。
1879年5月21日、政府の支持を得て、長崎造船所に東洋一の
 立神船渠(たてがみせんきょ、現:第1ドック)が完成し
 た。
  総長140メートル、幅:入口部37.17メートル、内部31
 メートル、深さ10.40メートル、
  費用総計40万2600余円
  後に、500瓲クラスの船舶までは、小菅修船場(通称:
 ソロバンドック)で引き受けた。
  それ以上の内外国船は、立神ドックを使用した。
1879年6月4日、靖国神社と改称
  九段坂上の東京招魂社を別格官幣社に列せられ、社号
 が靖国神社と改称された。
  内務・陸軍・海軍3省の共同管理とした。
  招魂社建立(1869年)
  戊辰戦争終戦後の1868年(慶応4年)旧暦6月2日に、東
 征大総督・有栖川宮熾仁親王が、戦没した官軍(朝廷方)
 将校の招魂祭を、江戸城西丸広間において斎行した。
  また、同年・1868年、旧暦5月10日に、太政官布告で京
 都東山(現:京都市東山区)に、戦死者を祀ることが命
 ぜられたり(現:京都霊山護国神社)、
  同・1868年、旧暦7月10・11の両日には、京都の河東操
 錬場において、神祇官による1853年(嘉永6年)以降の殉
 国者を慰霊する祭典が行われる等、
  幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発にな
 った。
  その為の施設である招魂社創立の動きも各地で起きた。
  それらを背景に、大村益次郎が、東京に招魂社を創建
 することを献策した。
  そして、明治天皇陛下の勅許を受け、
  1869年(明治2年)旧暦6月12日に、現社地での招魂社
 創建が決定された。
  同・1869年、旧暦6月29日(新暦8月6日)に、五辻安仲
 が勅使として差遣され、時の軍務官知事・仁和寺宮嘉彰
 親王を祭主に、戊辰の戦没者3,588柱を合祀鎮祭し、「東
 京招魂社」として創建された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive