(増補版)357E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年6月〜1879年8月)

題:(増補版)357E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年6月〜1879年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1879年6月27日、コレラ予防法を定める。
  1879年(明治12年)と1886年明治19年)には、死者
 が10万人の大台を超えた。
  コレラは、コレラ菌(Vibrio cholerae)を病原体とす
 る経口感染症の一つで、コレラ毒素を産生するコレラ菌
 によって発症する。
  強い感染力があり、特に、アジア型は、高い死亡率を
 示し、ペストに匹敵する危険な感染症
  最も重要な感染源は、患者の糞便や、吐瀉物に汚染さ
 れた水や食物で、
  消化管内に入ったコレラ菌は、胃の中で多くが胃液の
 ため死滅するが、
  少数は、小腸に到達し、ここで爆発的に増殖する、
  そして、コレラ毒素を産生する。
  コレラ毒素は、上皮細胞を冒し、その作用で細胞内の
 水と電解質が大量に流出する。
  そして、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔
 吐を起こす。
  潜伏期間は5日以内、普通は2〜3日だが、早ければ数時
 間。
  症状が非常に軽く、1日数回の下痢で数日で回復する場
 合もあるが、
  通常、突然腹がごろごろ鳴り、水のような下痢が、1日
 20〜30回も起こる。
  腹痛・発熱はなく、むしろ低体温となり、34度台にも
 下がる。
  急速に脱水症状が進み、血行障害、血圧低下、頻脈、
 筋肉の痙攣、虚脱を起こし、死亡する。
  極度の脱水によって皮膚は乾燥、しわが寄り「洗濯婦
 の手(指先のしわ)」、「コレラ顔貌(がんぼう、かお
 かたち)」と呼ばれる特有の老人様の顔になる。
  治療を行わなかった場合の死亡率は、アジア型では75
 〜80パーセントに及ぶが、エルトール型では10パーセン
 ト以下、
  現在は、適切な対処を行なえば死亡率は1〜2パーセン
 ト。
  治療方法は、失われた水と電解質を補給することでコ
 レラによる死亡はきわめて効果的に抑制できる。
  しかし、経口補液のORS治療は、先進国ではまったく
 おこなわれない。
  コレラ罹患時には脱水のみならず消化管を休めること
 が大切なので、先進国医療では絶食・水分経口摂取禁が
 基本。
  患者が意識を失う重症例では、点滴による輸液で水分
 と電解質の補給を行う。
  治療薬:抗生物質による治療は、脱水症状の改善とは
 無関係で、菌体数を減らし、毒素産生を減らす。
  点滴治療と組み合わせてつかう。
1879年6月、東京の遊技場統計調べ
  煙草卸人 382、  同小売人 2,548、
  飲食店 1,262、  玉突き場 53、
  楊弓場 227、  室内射的場 17、
  投扇競場 3、  吹き矢場 6、
  待合茶屋 247、  遊船宿 70、
  理髪店 2,397、  浴場 1,051、
  人寄せ場 190、 (東京府統計表)
1879年6月、勝海舟、西郷南州自筆の詩を石に刻み、南葛飾
 郡大木村上木川浄光寺内に小池を買い、これを建て記念
 とす(氷川清話)
1879年7月3日、アメリカ前大統領のグラント将軍夫妻が来
 日。
  (氷川清話)米国前大統領グラント将軍来る
  グラント将軍は、南北戦争の英雄。
  この人気で、アメリカ合衆国の大統領を1869年〜1877
 年までの2期、8年にわたって務めた。
  グラント大統領時代、1871年明治4年)秋に、サンフ
 ランシスコに到着し、翌年・1872年1月、ワシントンを訪
 れた、日本からの特命全権大使岩倉具視に率いられた
 視察団が大歓迎を受けている。
  日本の国書を受け取ったグラント大統領は、岩倉具視
 に、
  「閣下が奉命する、公法に基づく条約改正の交渉は、
 我輩の喜びであり、
  両国間の貿易方法の修正は重要で、望むところでもあ
 り、
  国交の増進は決して怠ってはならず、真実この美事に
 賛成するところである」
  ・・と言ったほどに、日本の条約改正を支持し歓迎し
 た人だった。
  しかし、この後、条約改正の事は、順調には進まなか
 った。
  4年半後の、1876年(明治9年)6月に、当時の外務卿・
 寺島宗則からの指示で、
  駐米特命全権公使吉田清成が、フィッシュ国務長官と、
 日本が、関税自主権を回復する改税条約交渉を開始した。
  そして、次の大統領のヘイズ大統領の時、1878年7月25
 日に、「吉田・エヴァーツ条約」と呼ばれる新改税条約
 の調印がなされた。
1879年7月4日、来日中のアメリカ前大統領グラント将軍(
 第18代大統領)来朝参内する。
  グラント将軍は、グラント将軍の後に大統領となった
 ラザフォード・ヘイズの大統領が就任した後、
  1877年5月17日に、フィラデルフィアを出航し、世界周
 遊の旅に出発していた。
  フィラデルフィアから船でデラウェア川を下り、大西
 洋を渡り、リヴァプールからロンドンに向かった。
  出発に際し、当時のエヴァーツ国務長官が、各国駐在
 アメリカ公使宛てに出した、その年の公式書翰を見ると、
  前大統領であり、かつ、南北戦争終結させ、国家再
 統一への勝利に導いたグラント将軍への特別な対応であ
 った(北軍の政権が続いているから・・)。
  日本へは、グラント将軍を乗せた軍艦・リッチモンド
 号(2600トン)は、1879年6月21日に、長崎に入港した。
  日本初の元首クラス国賓としての夫妻の来日だった。
  6月22日には、丸馬場で開催中の博覧会を視察し、記念
 に夫妻でアコウの木を植樹した。
  そして、福済寺において、大歓迎会が開かれた。
  町芸者30人が音曲歌舞を演じた。
  揃いの衣装は、特別に京都に注文し新調した紫縮緬
 ぼかしの模様だった。
  また、グランド将軍へ、西洋料理店「福屋」にて西洋
 料理が準備された。
  そして、長崎での、6月23日の公式歓迎夕食会の席上、
 長崎県令・内海忠勝が、グラント将軍の歓迎の意を表し、
 健康を祝す乾杯の後、
  グラントは、日本や東洋諸国に対するアメリカの基本
 姿勢について短い演説をした。
  内容は、グラント大統領の第1期目の就任演説でも明
 らかだったが・・、
  アメリカは、日本も含めた諸外国と、公正な関係を築
 くというものであった。
  そして、日本とも常に公正な友好関係を築く努力をし
 てきたし、
  近年の素晴らしい日本の発展もあり、こんな関係の永
 続を願う・・という主旨だった。
1879年7月10日、東京大学卒業生に初めての学位(学士号)
 授与した。
  医学本科18名、製薬本科19名の計37名
1879年7月14日、検疫制度を開始した。
  虎列刺(コレラ)病伝染予防規則が公布された。
  日本の本格的検疫制度が始まった。
  伝染病予防の法令「海港虎列刺(コレラ)病伝染予防
 規則」が公布さる。
  日本最初の統一された国内予防規則
  1879年7月21日、「検疫停船規則」(太政官布告29)に
 改正し公布。
  規則に基いて設立された長崎及び神奈川の両地方検疫
 局が業務を実施。
  わが国における来航船舶に対する海港検疫が初められ
 た。
1879年7月16日、日本最初の考古学研究書完成(モースの
 「大森貝塚研究報告」)。
   報告書が出版された。
  このモースの他に、大森貝塚の発掘には、フィリップ・
 フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリヒ・
 フォン・シーボルトが関わっている。
  ハインリヒは、考古学に精通していたが、学者ではな
 く外交官(通訳官)だった。
  モースとハインリヒは、第一発見者の功を争った。
  ハインリヒは、大森貝塚の発見を彼の師であるコペン
 ハーゲン国立博物館館長・J.A.ウォルソーに、1878年
 (明治11年)7月20日に報告しており、
  この報告によれば、ハインリヒの大森貝塚発掘は、そ
 の前年の1877年秋、モースの発掘の前に行われた可能性
 がある。
  モースも、後に『日本その日その日』として翻訳され
 た、モース自身の日本滞在の回想記『Japan Day By Day』
 において、
  「発掘調査開始にあたって誰かに先を越されることが
 心配だった」と言っている。
  ハインリヒは、1878年1月31日号に、自身が大森貝塚
 発見したとの記事を寄せ、モースを激怒させている。
  ハインリヒは、本業である外交官業務が多忙を極め、
 考古学研究から遠ざかったことが決定的となった。
  因みに、「考古学」という日本における言葉は、ハイ
 ンリヒによって出版された「考古説略」から使われ始め
 ている。
1879年7月、東京・上野公園の中に、東京府癲狂(てんきょ
 う)院が設立された。
  後の、巣鴨病院・松沢病院
1879年8月1日、日本最初の損害保険会社が開業した(東京
 海上火災保険会社)
  東京・南茅場町海上保険会社が営業を開始。
  日本で最初の保険会社。
1879年8月10日、明治天皇陛下、濱離宮に臨幸(アメリカ前
 大統領グラント将軍を引見し給う)
  天皇陛下浜離宮で会談。
  8月25日、上野公園で歓迎大会を開催。
1879年8月15日、東京府が本所にコレラ患者隔離のための
 避病院を開設した。
1879年8月25日、車駕上野公園に臨幸し、犬追物天覧(アメ
 リカ前大統領グラント将軍陪観する)
  (参考)犬追物(いぬおうもの):鎌倉時代から始ま
    ったとされる日本の弓術の作法の一つ。
     流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)と共に
    騎射三物の一つに数えられる。
1879年8月31日、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇陛下)御
 降誕。
  (氷川清話)皇太子御降誕
  明治天皇陛下の第3皇子。
  名は嘉仁(よしひと)、称号は明宮(はるのみや)。
1879年8月31日、坂本乙女(さかもとおとめ、坂本龍馬の姉)
 が、壊血病に罹り、没した(48歳・満47歳)
  身長5尺8寸(約174cm)・体重30貫(約112kg)の文武
 両道の女性だった。
  1846年に、母・幸が死去すると、龍馬の母親代わりを
 務め、書道・和歌・剣術などを教えた。
  1856年に、典医・岡上樹庵と結婚し、一男一女(赦太
 郎・菊栄)をもうけるが、家風の相違や夫の暴力・浮気
 などが原因で、1867年に離婚し、実家に戻る。
  龍馬のよき理解者。
  近年の史料では、乙女は、お龍(龍馬の妻)に対し親
 身に接していたことが明らかにされている。
  壊血病に罹った原因として、当時、死の病でもあった
 コレラの感染を恐れ、野菜を食べなかったことが原因と
 言われている。
.
  (今日の言葉)
  沖ノ鳥島について・・、
  沖ノ鳥島(おきのとりしま)は、太平洋上に位置する
 サンゴ礁の島であり、東京都小笠原村に属する。
  小笠原諸島の中では最南端の島である。
  日本の領土として最も南にある島である。
  東京から1,740km、硫黄島から720km、
  フィリピン海プレートのほぼ中央、九州・パラオ海嶺
 上に位置する。
  太平洋の絶海に孤立して形成された南北約1.7km、東西
 約4.5km、周囲約11kmほどのコメ粒形をしたサンゴ礁の島
 である。
  北回帰線の南に位置するため熱帯に属する。
  干潮時には、環礁の大部分が海面上に姿を現している
 が、
  満潮時には、礁池内の東小島(旧称・東露岩)と北小
 島(旧称・北露岩)を除いて海面下となる、
  ・・と説明されているが・・、
  中国がやっているように、更なる埋め立てを進めるべ
 きである。
  東京都が、しっかりした形にはしてくれているが・・、
  国として、もっとしっかりした形に埋め立てを、さら
 に、進めて行くべきだ。
  島を失った時に、その価値の大きさに気づくだろう。
  また、実効支配をしっかりし続けるべきだ。
  気象観測をする目的などで、気象観測員の駐在をする
 べきだ。
  また、国防業務の一端であり、作戦上の重要拠点にな
 り得る。
  自衛隊員の駐在意義がある。
  ヘリポートなど必要施設も設置すべきだ。
  日本固有の領土は大切にして行くべきだ。
  「遠く離れているからおろそかにする」というのは
 逆である(ニュース報道でその傾向にあると感じる)。
  島周辺の警備も取り止めると報じていたが・・、
  台湾が「岩だと言った」、
  それで、沖ノ鳥島の海域の利用について、台湾と協議
 に入るという。
  これは、おかしいのではないか?
  「台湾(若しくは中国)に何らかの権利を与えるとい
 う事にする」ということになる。
  台湾が中国にはっきりと帰属する、もしくは、民族自
 決権で独立をする・・という・・過渡期にある今、
  今日のニュースの内容であるなら、政府の方針は間違
 っている。
  周辺海域に貴重な海底資源があると確認されている今、
 もっと日本の固有の領土として大切にして行くべきだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive