(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月〜1879年1月)

題:(増補版)355E1/3:気になった事柄を集めた年表(1878年12月〜1879年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
明治10年代(1877年〜1887年)、この頃の日本の風潮は、
  何でも、西洋は優れているという『明治の思い込み』
 だった。
  それは、西洋の宗教・キリスト教においても起きてい
 た。
  日本人のキリスト教の殉教のイメージは、キリスト教
 の宣教師のイエズス会士・ジャン・クラッセが書いた本
 によって大きく影響された。
  クラッセの本が、西洋の素晴らしさを持っているのだ
 と勘違いしてしまった。
  ジャン・クラッセは、日本の本当の事情を知らずに、
 西洋の頭の思い込みで、この本を書いてしまった。
  その様な『間違い本』によって、日本は影響されてし
 まった。
  ここに、明治初頭の『西洋は何でも優れている』とい
 う『明治初頭の思い込みの頭』の日本の劣等感が作用し
 た。
  彼の著書を、明治初頭の10年代に、太政官(だじょう
 かん)本局の翻訳官が翻訳した。
  本『日本西教史(せいきょうし)』という名で出版さ
 れた。
  ここで、この本の間違ったイメージが、強烈に日本に
 定着してしまう。
  この事は、日本の教科書にも記載されてしまう。
  また、解説書にも記載されるという、このキリスト教
 イエズス会士の間違い見解一色となってしまった。
  徳川幕府は、西洋がしたのと同様に、大弾圧をしてい
 たのだ・・と、なってしまった。
  事実は、『まったく逆である』。
  これによって、現代の日本人の殉教のイメージが決定
 づけられてしまった。
  事実は、まったく、本当にまったく、違っていた。
  徳川幕府の基本的な姿勢は・・
  「キリシタンの捕縛は、極力少なく収めたい」であっ
 た。
  今までの間違った情報に洗脳された頭で聞くと驚かれ
 ると思います。
  それだけ、キリスト教によるプロパガンダ(嘘宣伝)
 がなされて来ていた。
  幕府は、例え、キリシタンだと分かられてしまっても、
 知人・友人や親せきでも良いから、
  「キリスト教を棄教した」と、仮にでも言えば、捕縛
 には向かわなかった。
  誰でも、容易に捕縛から逃れられる様にと、『逃れの
 道』が作られていた。
  刑場でも、『矢来の一部を取り外した形にして、逃れ
 られる様に』していた。
  取り締まりを厳しくして、少しでも見過ごさなく捕縛
 するという姿勢では・・全くなかった。
  西洋での厳しい状況が、この様な状況が、イメージが、
 日本に持ち込まれ、その様にプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れていた。
  また、キリスト教は、殉教することが神の信仰にこた
 える道だと、美しく殉教をすることを勧めていた。
  親子連れで、わざわざ名乗り出たという事例が記録さ
 れている。
  卑劣な殉教の洗脳であった。
  また、今、キリスト教会が必死に宣伝している、子供
 向けの本「フランダースの犬」は、この殉教死の洗脳本
 で、
  殉教死をすることに「マインド・コントロール」して
 いる。
  また、「フランダースの犬」の本は、自殺奨励的にな
 っている。
  先日も、女学生二人が、手をつないで電車に飛び込む
 という痛ましい事故があったが、
  キリスト教は、大いに反省すべきだ。
  この様な事故を誘因している。
1878年1月28日、世界最初の電話機が、米国コネチカット州
 ニューヘイブンに架設された。
1878年2月19日、エジソンの発明の蓄音機が、ニューヨーク
 にて世界最初の特許権を獲得する。
1878年、イギリスが、キプロス島をトルコから奪った。
  そして、1925年に、イギリスの直轄統治領になる。
  第二次世界大戦後は・・反英テロが活発化する。
  イギリス本国と対立を深めて行く。
1878年3月3日、サン=ステファノ条約
  この年の、露土戦争講和条約で、ロシア帝国とオス
 マン帝国の間で結ばれた。
  オスマン帝国は多額の賠償金とともに、
 (1)アルメニア、ドブロジャ、ベッサラビア、および
   アナトリア東部バトゥミ、カルス、アルダハン、バ
   ヤジト地方(トルコ語版)のロシアへの割譲
 (2)ルーマニアセルビアモンテネグロの独立の承認
 (3)ブルガリアへの自治権の付与(マケドニアを含む大
   ブルガリア公国が成立)
 (4)ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与
 ・・などを課せられた。
  しかし、ヨーロッパ南東部におけるロシアの影響力の
 拡大、
  特に、ブルガリアの領土がエーゲ海に接していること
 によりロシア海軍エーゲ海北部に拠点を置くことを恐
 れたイギリス、オーストリアの干渉により、
  1878年6月のベルリン会議によって、ブルガリア国境が
 縮小されて、マケドニアオスマン帝国に復し、ロシア
 は、バヤジト地方などの放棄を余儀なくされた。
1878年4月29日、ニューヨークに初めて高架鉄道が開通した。
  高架鉄道は、全部、鉄で作られた。
  車道の上方へ高さ3メートルから9メートルくらい(窪
 地は高くなる)に線路を敷設した。
  その車道に、太い鉄の柱がにょきにょきと立った。
  その鉄柱に支えられた鉄橋の上を汽車が走った。
  枕木は木であるが、すべてが鉄で、汽車が疾走して走
 ると、ゴーゴーと凄まじい音を出して走った。
  また、高架鉄道と言ったって、今の日本の高架鉄道
 イメージとまったく違って、ハシゴを上って行って、汽
 車に乗った(乗車するまでの危険性があった)。
  汽車の燃料は、無煙炭にして、極力、煙が出ないよう
 にした。
  通勤のために利用する人が多く、朝晩は、満員状態が
 多かった。
  高架鉄道の下の道路にも、路面電車が走っていて電車
 の花盛り状態だった。
  町の景観は、今の日本の高速道路の様に、町が暗くな
 り、景観は悪くなり、また、苦情を抑えるため鉄道会社
 が周辺を買った。
1878年6月13日、ベルリン会議開催 (〜1878年7月13日)
  露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイ
 ツのビスマルクが主催した国際会議。
  イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガ
 リー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が
 参加し、
  バルカン半島の新独立国の領域が決定された。
  バルカン問題:いわゆるバルカン諸国は、現在、旧ユ
 ーゴスラビア、アルバニア、ブルがニア、ルーマニア
 ギリシャ、トルコ(欧州領)であるが、
  1878年ベルリン会議後、第一次世界大戦に至る時期
 の、この地をめぐる国際紛争は多発した。
  オスマン・トルコ治下の、スラブ系民族の独立運動
 これに乗じたロシアの南下政策、ドイツの中近東3B政
 策、
  イギリスの東地中海政策など列強の帝国主義政策、
  また、オーストリアセルビアの民族対立などを含む
 厳しい緊張が続いた。
  それ故、この地域は、「ヨーロッパの火薬庫」と言わ
 れた。
  バルカン戦争)1次=1912年、2次=1913年)を経て、
 サライェボ事件(1914年)が第一次世界大戦の遠因とな
 った。
  この地の民族問題は、今日の複雑なバルカン情勢の歴
 史的背景となっている。
1878年10月21日、ドイツの宰相ビスマルクが、「社会主義
 者鎮圧法(しゃかいしゅぎしゃちんあつほう)」を制定
 した。
  (1890年に廃止されたが、この制定によって逆に、社
 会主義者たちを団結させた)。
  これは、社会主義労働者党(後のドイツ社会民主党)の
 勢力の伸長が目覚ましかったため、
  その発展を恐れ 、弾圧するために発布した法律だった。
  この法律によって・・、
  社会主義的傾向をもつすべての結社、集会、出版を禁
 止した。
  また、特定地域の部分的戒厳令の施行、違反者の居住
 地制限などを既定した。
  社会主義者運動は・・大きな打撃を受けた。
  しかし、地下活動によって・・党勢は拡大して行った。
  ビスマルクは、この年・1878年に、皇帝狙撃(そげき)
 事件が起きると、この時がチャンスだと、これを口実に
 し、議会の協力を得て、この法律を制定していた。
  しかし、ビスマルクは、その後、同法のさらなる強化
 を図ろうとした。
  また、有効期限の延長をしようとした・・が、1890年
 1月、議会は否決した。
  そのため、1890年9月に失効し、ビスマルク退陣の一因
 となった。
1879年、出来事:
・演説会が盛んに行われた(自由民権運動)。
  多くの人へ・・国会開設の必要性を訴えるための方策
 は、演説会と新聞だった。
  そして、翌年・1880年に、演説会ブームが起きる。
  1880年の1年間で、東京の民権家が関東でおこなった演
 説会の回数は・・259回だった。
  また、植木枝盛が、1ヶ所の演説会に3日間、5回出演
 し、客は500〜800人集まったという事例がある。
  板垣が、大阪夷座で演説をしたときは、5000人分のチ
 ケットが売り切れた。
・長崎造船所に、東洋一の立神船渠(たてがみせんきょ、
 現:第1ドック)が完成した。
  幕末に、幕府が力を入れていた造船も、花開いて来た。
  日本の柱になって行く・・その後に、三菱長崎造船所
 の主力工場となった。
1879年、論文・哲学:
・「民権自由論」(植木枝盛)
・ 「大森介墟古物編」(エドワード=モース)→大森貝塚の調
 査報告書。
 モースの日本初の発掘報告書 "Shell Mounds of Omori"
 が出版された。  大森貝塚発見(1877年)
・ 「天路歴程」(漢訳からの重訳・初めての口語体翻訳小説)
 (作・バンヤン、訳・佐藤喜峰)
1879年、流行:
・大八車が流行した。
コレラが、松山から発生し、全国に蔓延・・そして、
  →迷信、まじないの類が・・流行した。
・撃剣会が、再度、流行し、道場が増加した。
・ウサギ飼育と、売買が流行した。
・官吏に・・髭を生やすことが流行した。
1879年、マスコミ:
・ 「朝日新聞」 が、大阪で創刊された。
・ 「山陽新報」 岡山で創刊。
・ 「福嶋新聞」 創刊。
・写真新聞 「歌舞伎新報」 創刊。
・東京絵入新聞が「毒婦お伝のはなし」を挿し絵入りで15
 回の連載をした。
1879年、娯楽・囲碁
・灯火による講談 「磁石指北針」
  後に、機械の運動を映写して説明する会となる。
・村瀬秀甫〔しゅうほ〕(後の、本因坊)が、中川亀三郎、
 小林鉄次郎らと囲碁結社「方円社」を設立した。
1879年、衣:
・千住製絨所が成り、毛糸の生産も始まった。
印刷局抄紙部でカセイソーダの製造がはじまり、洗濯石
 鹸もつくった(明治14年に廃止)
・唐チリメン(メリンス)の輸入が盛ん。
1879年、食:
・北海道紋別に製糖所が設置された。
・東京小石川興農社で、各種の缶詰をつくり利益をあげた。
・広島の博進社が、缶詰製造をはじめ、日清戦争以来、牛
 肉缶詰が盛んになる基となった。
1879年、その他:
・梟首刑(きょうしゅけい、さらし首)が廃止された。
・府県会が開始された。
印刷局が、懐中日記を発行する。
  大蔵省印刷局が、フランスの日記簿を参考にして「懐
 中日記」を発行した。
国立銀行150行に達する。
  新しく出来た銀行の信用度が低く、金兌換券(国立銀
 行券)を発行すると、即座に、金に兌換されてしまうた
 め、
  1876年6月末の国立銀行券残高は、わずか6万円になっ
 た。
  この様な状況では、十分な産業資金を供給できないた
 め、
  政府は、1876年4月に、国立銀行条例を改正した。
  国立銀行の設立要件を緩和し、金貨兌換性を停止した。
  この改正国立銀行条例によって、国立銀行の設立、お
 よび、経営が容易となり、また、有利でもあったので、
  国立銀行が、各地で、続々と設立された。
  その結果、紙幣は、増発されて、
 物価が騰貴して行く。
  国立銀行の行数の推移は・・、
  1873年: 2行、1874年: 4行、1875年: 4行、
  1876年: 5行、1877年: 26行、1878年: 95行、
  1879年:151行、1880年:151行、1881年:148行、
  1882年:143行、
・大阪に、硫酸製造会社が設立された。
  政府は、当初、大阪を首都しようとした。
  そこで、重要な造幣工場を大阪市に設置する方針をと
 った。
  1869年(明治2年)に、外国人技師を高給で迎え、最新
 技術を導入し、大阪市に造幣寮を設立した。
  造幣寮は、地金・地銀の分析のために硫酸を必要とし
 た。
  この硫酸製造のため、大阪アルカリ社の設立となった。
  初め、硫酸は、ドイツから輸入した。
  しかし、1872年(明治5年)に、イギリス人御雇外国人
 ローランド・フィンチを招いて、国内で硫酸を製造する
 ようにした。
  1875年(明治8年)のフィンチの帰国後、豊原百太郎と
 山口武が、硫酸製造を引き継いだ・・、
  その後、硫酸製造が、収益性の高い産業だと認識され、
  また、清に硫酸を輸出するようになり、
  1879年(明治12年)に、大阪アルカリ会社の前身であ
 る硫酸製造会社が創設された。
・姫路の私塾で、ルソーの「民約論」の講義をしたところ、
 警察官に中止させられた。
  『この本は、一昨年に、政府の許可で翻訳が出版され
 たのだ』と抗弁した。
  読むのはいいが、教えるのはいかんとの命令が出た(
 朝野新聞)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive