(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月〜1874年5月)

題:(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月〜1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年4月9日(2月23日)江藤新平が、征韓党へ解散命令を
 出す。
  船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦
 は続いて行く。
  寒津川・田手川の戦い
  旧暦2月23日に、政府軍は、第十大隊を前軍とし、第三
 砲隊が続行し、そして、第四大隊を後軍として中原を出
 発した。
  前夜合流した前山隊が、中原の守備に当たった。
  佐賀軍は、寒津村(現:みやき町)に本陣を置き、寒
 津川沿いで迎撃する、
  佐賀軍は、中島鼎蔵の指揮の下、左右から挟撃し、『
 佐賀征討戦記』に「官兵殆ど敗れんとす」と記されるほ
 どまで追い込んだが、
  官軍指揮官の陸軍少将・野津鎮雄が、弾雨の中、抜刀
 して先頭に立ち、兵を励まし戦い、
  また、中原から北山に転戦していた厚東武直少佐の第
 四大隊が反転して背後を突き、佐賀軍は、総崩れとなり
 敗走した。
  しかし、本隊となった第十大隊第二中隊は、中隊長・
 阿部正通大尉が戦死し、代わって指揮を取った児玉源太
 郎大尉も重傷を負うなど被害は大きく、
  中原に到着した第十一大隊は、一個中隊を割いて増援
 として差し出した。
  その頃、朝日山の陥落を聞いて、神埼まで出ていた江
 藤は、寒津でも破れたことを聴くと、馬を田手(現:吉
 野ヶ里町田手)まで走らせ、陣頭指揮を執った。
  江藤は、田手川に防御陣を敷き、一部の精鋭をもって
 背後を突こうとしたが、田手川下流を渡河した青山朗大
 尉率いる第十大隊第四中隊に、逆に背後から攻撃を受け
 敗退した。
  さらに、官軍が追撃したため、佐賀軍は、神埼(現:
 神埼市)を焼き払い、境原(現:神埼市千代田町境原)
 まで退却した。
  この敗退で、勝機を失ったと見た江藤は、征韓党を解
 散し、鹿児島県へ逃れて、下野中の西郷隆盛に、助力を
 求めようと戦場を離脱した。
  なお、この江藤の態度に対し、憂国党の見方は、無断
 で佐賀の戦場を離れており、
  この敵前逃亡ともいえる態度に、副島義高らの憂国
 の面々は激怒した。
  三瀬方面
  三瀬峠では、佐賀軍一の用兵家とされる朝倉尚武(元
 陸軍少佐)が、三個小隊をもって布陣していた。
  博多には、広島鎮台などからの援軍が向かっていたも
 のの、当初は、小笠原義従の一中隊しか残っておらず、
  守備する山田顕義少将は、間道沿いからの攻撃を考慮
 して斥候を出し、飯場村に佐賀軍を発見したため、
  1874年4月8日(2月22日)に一個分隊を進めたが、佐賀
 軍は、既に退却していた。
  翌日の1874年4月9日(2月23日)に、中隊全軍で三瀬峠
 に出撃した。
  1874年4月10日(2月24日)は、福岡士族による貫族隊
 六個小隊が、飯場村に出撃したが、反撃を受け、小隊長・
 幾島徳(安川敬一郎男爵の兄)が戦死するなどし、金武
 まで後退した。
  しかし、1874年4月12日(2月26日)には、小笠原隊が
 背振口で佐賀軍を破り、
  翌・1874年4月13日(2月27日)には、三瀬も取って、
 佐賀軍を四散させた。
  しかし、地形が険阻な上、思わぬ苦戦を強いられた政
 府軍は、博多に着いた井田譲少将、田中春風中佐、高島
 信茂少佐、古川氏潔少佐らが率いる広島鎮台第十五大隊
 の三個中隊を、1874年4月14日(2月28日)、三瀬に進め
 た。
  この広島鎮台部隊は、戦闘を行うことは無かったが、
 朝倉は、正規軍四個中隊と、現地召集の士族兵の六個小
 隊を三瀬方面にひきつけることに成功した。
  また、1874年4月16日(3月1日)に、福岡に着いた谷重
 喜大佐の率いる大坂鎮台第十八大隊と、第七砲隊一個小
 隊も、三瀬方面に向かおうとしたが、既に、佐賀軍はい
 ないと判断した井田少将は、谷大佐に援軍は不要であり
 本道から進むよう指示をしている。
  境原の戦い
  1874年4月9日(2月23日)以降、官軍も休息をとってお
 り、戦闘は散発的であったが、
  1874年4月13日(2月27日)には、総攻撃を開始し、第
 十大隊、および、第三砲隊が、本隊として姉村に、
  第四大隊を右翼として、城原から川久保に、
  第十一大隊と第十九大隊一個小隊を左翼として蓮池に、
 それぞれ進軍した。
  佐賀軍が、神埼以南の諸橋梁を破壊していたため、架
 橋しながら戦う第十大隊は苦戦したが、
  砲隊の榴散弾が佐賀軍の保塁に命中したのをきっかけ
 に猛進し、
  また、第十一大隊が、後方から攻撃したため、挟撃の
 形となり、佐賀軍を敗走させて、境原を奪取した。
  また、この日の夜には、佐賀軍は、1000人規模の夜襲
 を敢行したが、蓮池を占領しに向かった第十一大隊が戻
 り、側面を突いたことで、佐賀軍は壊走した。
  結果的に、戦闘は、一昼夜行われ、佐賀征討記では、
 この日の戦闘を、今役中の第一の激戦と記している。
1874年4月13日(2月27日)江藤らが、この日に、鹿児島に
 入った。
  そして、1874年4月16日(3月1日)に、鹿児島鰻温泉に
 湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが・・
 断られた。
  西郷に決起の意志はなかったため、土佐へ向かった。
  1874年5月10日(3月25日)、高知の林有造・片岡健吉
 のもとを訪ね、武装蜂起を説いた。
  しかし、いずれも容れられなかった。
  そこで、江藤は、岩倉具視への直接の意見陳述を企図
 (きと、くわだて)し、上京をしようとして、その途上、
 既に、手配書が廻っており、
  1874年5月14日(3月29日)高知県東洋町甲浦で捕縛さ
 れた。
  捕吏長の山本守時は、江藤に脱走を勧めたが、江藤は、
 裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかった。
1874年4月14日(2月28日)憂国党が降伏した。
  政府軍、佐賀城入城。
  政府軍が、佐賀県庁を奪回。
  政府軍が、反乱軍から佐賀県庁を奪回し、乱を鎮圧し
 た(1874年4月16日(3月1日)の説がある)
  戦死者は、佐賀・政府側双方とも170〜180。
  負傷者は、双方とも200弱。
  佐賀軍捕虜、6,327人。
  29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
  この日・1874年4月14日(2月28日)政府軍が、佐賀城
 下に迫ると、この頃、東京から戻っていた木原隆忠(島
 義勇の従弟)と副島義高を使者にして、降伏と謝罪を申
 し出た。
  しかし、官軍は、内容が無礼だとして受理せず、木原
 を拘留した。
  島義勇は、佐賀で討ち死にするつもりであったが、実
 弟の副島義高らが、無理矢理、脱出させた。
  憂国党党首・島義勇は、1874年4月16日(3月1日)に、
 島津久光に決起を訴える嘆願書を渡すべく鹿児島へ向か
 った
  しかし、1874年4月22日(3月7日)に捕縛された。
1874年4月16日(3月1日)江藤新平が、宇奈木温泉で、遊猟
 中の西郷隆盛に面会した(4ヶ月ぶりの再会)。
  再挙への協力求めるが、西郷は応じず。
  西郷は、島津久光に会うよう勧めるが、江藤は従わず。
  1874年4月18日(3月3日)、江藤は、宮崎に向かい、日
 向飫肥の小倉処平が用意してくれた船で宇和島に渡った。
  陸路から四万十川を下り、下田港から海路で高知へ潜
 行し、土佐の同志の協力を得て、東京に行き三条・岩倉
 に真意を訴えたいと考えた。
  因みに、鹿児島での江藤新平西郷隆盛は、2日間にわ
 たって2人だけで話し合った。
  宿の女将は、一度、西郷の大声を聞いたという。
  「私の言うようになさらんと、アテがちがいますぞ!」
  江藤は、太政官へ出頭して、正院において弁明したい
 と西郷に助力を頼んだ。
  しかし、西郷隆盛は、島津久光に会うように勧めた。
  島津は、1874年4月6日(2月20日)の帰国後、西郷を呼
 び出し、「江藤新平の挙を非とするならば、陸軍大将た
 るものが兵をひきいて、これを討伐すべきではないか」
 と迫っていた。
  西郷は、「私は静養中の身であるから、もし必要なら
 陸海軍が乗り出して、討伐にあたるでしょう」と島津久
 光に答え、受け流した。
  島津は、西郷らが、江藤に呼応する事を心配していた。
  その経緯から、西郷の口添えあれば、島津は悪いよう
 はしないと、西郷は読んだのだが・・、
  しかし、江藤は、西郷の勧告に従わず土佐に向った。
1874年4月19日(3月4日)太政官が、「佐賀戦争平定」を布
 告し、江藤の人相書き配布した。
1874年4月22日(3月7日)、憂国党幹部らが、鹿児島で逮捕
 され、佐賀へ護送された。
1874年4月23日(3月8日)東京府を11大区103小区に分けた。
1874年4月27日(3月12日)運動会の初め
  初めて競陣遊戯会(陸上競技運動会、競徒遊戯会)が、
 東京・築地の海軍兵学寮で行われた。
  日本で初めての運動会。 (5月6日説あり)
1874年4月29日(3月14日)釜山の草梁和館に在勤の外務省
 権少録・奥義制より、東京の外務省権大録・森山茂と同
 出仕・広津弘信に宛てて、大院君引退の報告書が届く。
  高宗が親政し、全面的な人事刷新観測を知らせる。
  1874年7月(明治7年6月)、三条太政大臣は、三度、森
 山茂を派遣。
  明治政府は、朝鮮国の内紛を知って、開国を強く迫る
 ことに決した。
1874年5月5日(3月20日太政大臣三条実美が、大久保利
 通の全権委任状の「死刑といえども、臨機に処分のこと」
 を取り消し、処刑は内務卿の取り計らいとする旨、大久
 保に電報した。
  この時、内務卿は木戸孝允
  また、1874年4月9日(2月23日)の佐賀征討令により、
 総督東伏見嘉彰親王、参軍山県有朋・伊東祐麿が任命さ
 れており、既に、大久保は非常時大権を持っていなかっ
 た。
1874年5月9日(3月24日)江藤新平が、土佐の林有造に面会
 した。
  林は、自首を勧め、そして、高知県令・岩崎長武に、
 江藤新平と会った事を伝えた(江藤の行動が分かられた)。
  江藤は、徒歩で阿波に向った。  
1874年5月9日(3月24日)安部川に、初めて木橋の安水橋が
 竣工し、盛大な開通式が挙行された。
1874年5月9日(3月24日)明治期の最初の人口調査(太政官
 令に依って、日本全国の人口調査を布令した)
1874年5月11日(3月26日)板垣退助が、土佐へ帰郷した。
  そして、1874年4月に、立志社が創立された。
  当初は、立志学舎と呼ばれ、
  商局、法律研究所などを併設して社員の子弟教育、士
 族授産、相互扶助などを重視していた。
  しかし、1875年2月に、自由民権結社の全国連合組織で
 ある愛国社の結成に指導的役割を果し、
  以後、自由民権運動の盟主的存在となって行った。
1874年5月13日月(3月28日)、秩禄公債証書発行。
  秩禄公債(ちつろくこうさい)とは、明治6年1873年
 12月27日に出された太政官布告第425号に基づき、
  家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して、起業資
 金を与える目的で起こされた公債のことで・・、
  明治政府は、明治4年1871年)に、廃藩置県を断行し
 て、長年続いた封建制度を解体したものの、依然として
 旧武士階層(華族・士族・卒)に、家禄・賞典禄などの
 秩禄を払う義務があった。
  何と、当時の政府予算の4割が、秩禄支給に充てられて
 いた。
  その事から一刻も早い秩禄処分が求められていたが、
  その場合、生活の糧を失った旧武士階層が、士族反乱
 などを起こす可能性があった。
  そこで、士族授産を行って、旧武士が自立した生計を
 立てられるようにして、少しずつ秩禄への依存から脱却
 させる政策をとった。
  そこで、同年暮れに、旧武士階層に対して、現在官職
 にある者以外は、自由に農工商業に従事できるものとし
 て自主的な就業を促した。
  だが、薄禄の者は、起業意欲があっても、そのための
 資金がない例もあったために、
  その対策として、秩禄の返上と引換に、秩禄数年分を
 起業資金として渡すこととした。
  明治6年1873年)、この年に発行された7分利付外国
 公債による収入を元手に、秩禄公債を発行した。
  当初は、家禄・賞典禄を合わせて100石未満の者を対象
 として、秩禄を打ち切る代わりに、永世禄は禄高6年分、
 終身禄は禄高4年分、
  そして、年限禄は、その年限に応じて1年〜4年分の禄
 高に換算されて、半分を現金、残りを秩禄公債で支給し
 た。
  なお、禄高の金額換算は、明治6年の所属府県における
 貢納石代相場に基づいて決定された。
  翌年のこの日・1874年5月13日(明治7年3月28日)に、
 秩禄公債の詳細を定めた家禄引換公債証書発行条例が制
 定され、
  これによって、秩禄公債は、額面500円・300円・100円・
 50円・25円の5種類が発行(ただし、500円公債は、実際
 には発行されなかった)されて、
  年利8分、利払いは年1回、2年の据え置き後、7ヵ年で
 償還されるということとなった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive