(増補版)325E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月〜1874年7月)

題:(増補版)325E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月〜1874年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年6月19日(明治7年5月6日)台湾出兵の「有功丸」が、
 台湾の琅橋湾に到着し、陣営を作った。
  翌日・1874年6月20日に、陸軍少佐・樺山資紀は、台湾
 出兵の「日進」艦と合流した。
  以下続々と艦船が到着した。
  1874年7月5日に、「高砂丸」で西郷従道が到着した(
 7月1日、出航)。
  政府は、台湾出兵に踏み切ったのだが、肝心の輸送船
 の備えがなかった。
  一時、アメリカやイギリスの船会社による兵員輸送を
 想定したが、日本船による輸送とした。
  政府は、保護していた日本国郵便蒸汽船会社に、運航
 委託をして、大型船を購入しようとするが、計画は進ま
 なかった。
  そこで、やむなく長崎に設置された台湾蕃地事務局の
 大隈重信長官は、まだ新興だった三菱を起用することに
 した。
  三菱の岩崎彌太郎は、これを受諾した。
  政府は、計10隻の外国船を購入し、運航を三菱に委託
 した。
  そして、兵員・武器・食糧等の輸送に全力を投入した。
  後に、政府は、更に、三菱に3隻の大型船を委託し、
 合計13隻の大型船が、運航されることになった。
  これにより、三菱は大きく力をつけ、沿岸航路の競争
 に復帰した。
  また、三菱は、この台湾出兵の全面協力で、政府の絶
 大な信頼を得ることとなった。
1874年6月24日(5月11日)台湾日本軍が、牡丹社の酋長を
 招致(しょうち、招く)し、漂民殺害犯引渡しを求める
 が、酋長はこれを拒否した。
  1874年6月25日(5月12日)以降、数度衝突す。
  1874年6月30日(5月17日)偵察中の遠征軍1人、殺害さ
 れる。
  1874年7月5日(5月22日)佐久間参謀長の部隊200が激
 戦となる。
1874年6月24日(5月11日)大阪〜神戸間の鉄道が竣工し、
 仮開通した。
  この日、大阪〜神戸間が仮開業。
  1日8往復で、所要時間は1時間10分。
  全通は、1877年。
1874年6月25日(5月12日)地価5年間の据置。
  地租改正条例第8章を追加した。
  (耕地の地租は、改正後の5年間は時価の高低にかかわ
 らず新定価額によって徴収する)を追加した。
1874年6月25日(5月12日)立志社が、一般大衆を加えた最
 初の集会を開催した。
1874年6月28日(5月15日)大久保が、帰京した。
  三条太政大臣・岩倉右大臣、島津左大臣(旧暦4月27日
 任命)に辞表を提出した。
  台湾出兵不手際(外国の干渉による中止騒ぎ)、大久
 保の強引さへの批判。
  島津は、2人の辞表を執奏(しっそう、取り次いで奏上
 すること)せず、握りつぶした。
1874年6月28日(5月15日)土佐の帯屋町の立志社で、初め
 ての演説討論会。
  帰郷中植木枝盛(17歳)が参加した。
  これ以降の植木枝盛の行動・・、
  「自から国会論と称する一文章を作り、之を己れの同
 村各戸に回達して、懇ろ(ねんごろ、心がこもっている
 さま)に其意を示し、
  更に又同区の区長と其の区内の人々とに謀りて(たば
 かり、思いめぐらすこと)一小区の民会を興し、
  或る時は其の議長に選挙せらるることもありて、之が
 為めに尽力せしこと一ならず」(「自伝」)とある。
  そして、「日記」には・・、
  「五月十八月 民会に過る。」「二十二日 民会に過
 る。」「二十八日 民会に過る。会長を撰ぶ。」「六月
 五日 民会に過る。学校取締等の議を発す。」「十六日
 民会に過る。」「二十五日 民会へ過る。」「七月二日
 十二区衆会に過。」「五日 民会に行。林氏会長となる。」
「六日 小民会創立に就て十二区集議所に過。」「十四日
 区会に行く。組合の事を議定す。」「十五日 民会に行
 く。堕胎圧死の事を議す。」「十六日 小民会に行く。」
「二十一日小民会へ過。」「二十六日小民会へ行。」「八
 月十一日小民会へ行 。」「十三日夜十区民会に過る。」
「十四日区会に過る。」「十五日民会に行。」「十六日
 小民会へ行。」「十九日民会へ行。」「二十二日民会へ
 行。」「二十六日小民会流会。」「九月一日民会小へ行。」
「二日民会大へ行。」「十日集議所に過。」「十四日区会
 へ行。」「十五日区会へ行。」「二十一日小民会へ行。」
「十月一日中民会へ行。」「三日集急所へ行。印を押す。」
「十一月一日中民会流れ。」「五日区会流れ。」とある。
  枝盛は、大民会・小民会等自分の居住する12区会ばか
 りでなく10区会にまで出かけて、熱心に地域的自治組織
 を作るのに奔走した。
  民会:「集議所」と呼ばれる。
  「戸長・副戸長以下各町村用係・世話係・肝煎(きも
 いり)」によって構成された(「高知県史」)。
  枝盛は、民会を「代議政体を促」すものと位置づけ、
 「国会論」と題する文章を書いて各戸に配った。
  枝盛の稿本(こうほん、下書き)「国会ノ説」による
 と、国会開設は政体を変革するのではなく、それを確固
 たらしめるものであり、
  「皇統一系」のわが政体を「永久安泰」たらしめるに
 は、「上下同治ノ政治ヲナスニ如クハナシ」と主張した。
  天皇制の擁護の見地から国会の必要を説いた。    
  新知識を標榜する地方官が競って地方民会を開き、
  ことに、明治6年11月に、兵庫県令・神田孝平が制定し
 た民会議事章程略の影響を著しく受けた。
  明治初年の地方民会は、概して開明官僚の上からの開
 化政策に基き、地方行政の「安全弁」として奨励された
 諮問機関に過ぎなかった。
  明治7年の高知では、町村会は設けられていないので、
 大小民会が、他県の町村会の機能を代行した。
  この年、枝盛が読んだ書物は37部に達する。
  「閲読書日記」には・・、
  福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、
 加藤弘之「真政大意」、津田真道「泰西国法論」、中村
 敬宇「西国立志編」など。
  9月7日には「明六雑誌」を購読した。
  民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲
 太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ
 「民選議院集説」を借読した。
  翌年以降の東京再遊学期における枝盛の思想動向が大
 体この年にすでに形づくられていた。
1874年6月30日(5月17日)西郷従道が、台湾征討軍の残兵
 600を率いて、長崎を出港した。
  1874年7月2日(5月19日)柳原前光駐清公使が、赴任の
 ため横浜を発つ。
1874年7月2日(5月19日)政府が、ようやく台湾出兵を国内
 に布達した。。
  明治4年11月、琉球藩の人民が台湾の「蕃地」に漂着し
 たところ、54名が先住民に殺害された。
  明治6年3月、小田県の人民4名が漂着して、また、先住
 民から暴行略奪をうけた。
  そこで、加害先住民を懲罰し、かつ、今後のわが人民
 の航海上の安全を確保する措置を講じるために出兵した。
1874年7月5日(5月22日)日本軍が、琉球島民殺害の罪を問
 うために台湾に上陸した[1874年6月19日(明治7年5月6日)
 と食い違いの説あり]。
  台湾征討軍、台湾に上陸(二番十八社を降す)
  征台ノ役(台湾出兵)
  西郷都督、台湾南部上陸。
1874年7月、靜寛院宮、東京に御帰り(氷川清話)
  靜寛院宮(せいかんいんのみや)は、和宮親子内親王
 (かずのみやちかこないしんのう)のこと。
1874年7月6日(5月23日)左大臣島津久光が、「反動的内
 容」の意見書を、三条実美(さんじょうさねとみ)に提
 出した。
  新政府が進める改革は、急進的改革だと・・、
  礼服・租税制度・兵制を旧に服すべき・・と。
  併せて、大隈免職要求、大久保も反対なら免職、と迫
 った。
  大久保は、島津の復古論に同意できず免職してほしい
 と申し出て、居直って出仕を拒否した。
  1874年7月19日(6月6日)久光が、三条・岩倉の説得に
 よって意見書を撤回した。
  大久保も2週間ぶりに出仕を始める。
1874年7月10日(5月27日)東京の銀座尾張町、甲子屋・池
 谷権兵衛店が、紅茶を売りだす広告を出した。
  「紅茶は、泰西(たいせい、西洋のこと)ではブラキ
 テイ(ブラックティ)と称すること、コーヒーに代用す
 ること、
  棒砂糖を入れ、牛乳を加えて飲むのであるが、牛乳を
 欲せざる人は糖霜だけでもよろしい・・」と。
  因みに、ブラックティは、ダージリン、アッサム、セ
 イロン、ルワンダケニアタンザニアなどで摘採した
 茶葉をそのまま楽しむもののこと。
  また、それらをブレンドした紅茶もブラックティー
 言う。
  そして、ブラックティーは、茶葉本来の味や香りが楽
 しめるとのこと。
1874年7月(明治7年6月)鹿児島に私学校が創設された。
  篠原国幹(しのはらくにもと、薩摩藩士、陸軍軍人)
 の銃隊学校と、村田新八の砲隊学校附属など。
  236の分校があり、県政が全て指導した。
  明治六年の政変で下野した西郷隆盛は、1874年に、鹿
 児島県全域に私学校とその分校を創設した。
  その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率
 することと、
  県内の若者を教育することであったが、
  外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊
 学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、
  外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指し
 ていた。
  やがて、この私学校は、その与党も含め、鹿児島県令・
 大山綱良の協力のもとで、県政の大部分を握る大勢力へ
 と成長して行った。
  一方、近代化を進める中央政府は、1876年(明治9年
 3月8日に廃刀令
  同年・1876年8月5日に、金禄公債証書発行条例を発布
 した。
  この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を
 奪うものであった。
  これは、士族に精神的、かつ、経済的なダメージを負
 わせた。
  そして、これが契機となり、同年・1876年10月24日に、
 熊本県で「神風連の乱」、
  1876年10月27日に、福岡県で「秋月の乱」、
  1876年10月28日に、山口県で「萩の乱」が起こった。
  鰻温泉にいた西郷は、これらの乱の報告を聞き、11月
 に、桂久武に対し書簡を出した。
  この書簡には、士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の
 外に、
  「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれ
 ていた。
  ただ、書簡中では若殿原(わかとのばら、若い武士た
 ち)が逸(はや、はやる)らないように、この鰻温泉を
 動かないとも記しているので、
  この「立つと決する」は、内乱よりは、当時、西郷が
 最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味し
 ていた可能性がある。
  その一方で・・、
  1871年明治4年)に、中央政府に復帰して下野するま
 での2年間、上京当初、抱いていた士族を中心とする「強
 兵」重視路線が、
  四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大
 隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた事に対
 する不満や反発が、西郷の心中に全く無かった訳でもな
 かったと考えられる。
  しかし、西郷の真意は不明。
  一方、私学校設立以来、政府は、彼らの威を恐れ、早
 期の対策は行ってこなかったが、
  私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に
 対する曲解も本格化してきた。
  この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を
 養成する機関だとする見解であった。
  そしてついに、1876年(明治9年)内務卿・大久保利通
 は、内閣顧問・木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提
 案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。
  この時、大久保は、外に私学校、内に長州派という非
 常に苦しい立場に立たされていた。
  この改革案は、鹿児島県令・大山綱良の反対と地方の
 乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。
  しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。
  その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察
 と離間工作のために、警視庁大警視・川路利良が、中原
 尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと
 派遣したことであった。
  これに対し、私学校徒達は、中原尚雄等の大量帰郷を
 不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。
  そして、これ等の疑惑などから・・乱が生まれて行く。
  元薩摩藩士で陸軍軍人の篠原国幹から見た状況を記す
 と・・、
  篠原国幹は、1873年に、征韓論が敗れ、西郷が下野す
 ると、天皇の引き留めの命にも従わなかった。
  そして、近衛長官の職をなげうって、鹿児島へ帰った。
  「陸軍士官、相去るもの此の如きに於ては、慮なき能
 はず。但だ篠原少将の在るあり、桐野等去るも、猶未だ
 憂ふるに足らず」と。
  存在自体が高く評価されていたので、この篠原の帰国
 は、政府、及び、軍関係者に大きな衝撃を与えた。
  そして、1874年に、篠原国幹は、桐野利秋村田新八
 らとともに鹿児島に私学校を設立し、その監督となり、
 青年子弟を養成した。
  1875年(明治8年)に、大山綱良の依頼により、西郷が
 主にして、私学校党から区長・副区長を推薦したときは、
 池上四郎らとともにその人選に関与した。
  そして、1877年(明治10年)、弾薬庫襲撃事件と中原
 尚雄による西郷刺殺計画を聞いた篠原は、政府問罪の師
 もやむなしとし、2月6日に私学校本校で行われた大評議
 では出兵に賛成した。
  (問罪:罪を問いただすこと)。
  篠原の気持ちは、政府の罪を問いただす師とならん・・
  出兵に際しては、池上四郎が募兵、篠原が部隊編制、
 桐野利秋が各種軍備品の収集調達、村田新八が兵器の調
 達整理、永山弥一郎が新兵教練を担当した。
  2月13日の大隊編制では、桐野が総司令兼四番大隊指揮
 長、篠原が副司令格の一番大隊指揮長となった。
  1877年4月5日(明治10年2月22日)から始まった熊本
 攻城戦では、背面軍を村田新八別府晋介らとともに指
 揮し、
  夜の本営軍議では損害を顧みず、一挙強襲によって熊
 本城を攻めるべきと主張したが、異議多く、策は入れら
 れなかった。
  政府軍部隊の南下が始まり、木葉・植木・田原の戦い
 が激化し、
  2月24日に高瀬方面に向かう第一旅団・第二旅団が南関
 に着くと、これに対抗するために、熊本城攻囲を池上四
 郎に任せ、海岸線の抑えに永山弥一郎を遣わし、
  桐野利秋は山鹿、
  村田新八別府晋介は木留へ進出し、
  篠原は六箇小隊を率いて、田原に出張本営を設けた。
  この後、優勢な人員と進んだ武器を有する政府軍に徐
 々に押されたが、篠原の部隊はよく防ぎ、撃退した。
  菊池川の戦いでは、中央隊を請け負っていたが、弾丸
 が欠乏したという理由から勝手に戦線を離脱してしまう
 などという粗雑な面を見せた。
  西南戦争の切っ掛けは・・、
  1877年(明治10年)1月29日に、大久保利通川路利良
 らが、陰謀を企てたとして激高した私学校生徒が、鹿児
 島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり、
 西南戦争が起こった。
  この私学校は、西南戦争終結後に廃止された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive