(増補版)321E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月〜1874年5月)

題:(増補版)321E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月〜1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年5月14日(明治7年3月29日)佐賀の乱の主謀者・江
 藤新平が、捕らえられる。
  江藤新平が、部下8人と共に土佐・阿波国境の安芸郡
 の浦で逮捕される。
  1874年5月18日(4月3日)護送の軍艦「猶竜」に乗せ
 られる。
1874年5月15日(3月30日)この日の閣議で、木戸は、「台
 湾一条・・着手の密にして蹉跌(さてつ、つまづく)な
 きことをるる陳諭す」と慎重論を述べる(「木戸日記」)。
1874年5月17日(4月2日)明六雑誌の発行(3月説あり)
  森有礼西周福沢諭吉らが、明六社機関誌『明六雑
 誌』を創刊する。
  前年(明治6年)7月、アメリカより帰国した森有礼が、
 「万国史略」の著者・西村茂樹を訪ね、
  「我国ノ教育ヲ進メンガ為ニ、有志ノ徒、会同シテ、
 其手段ヲ商議スル」と結社結成を持ちかけた。
  賛同した西村が、福沢諭吉西周中村正直、加藤弘
 之、津田真道、神田孝平、箕作麟祥杉亨二ら8名を誘い、
  明治6年秋、「明六社」を結成。
  「明六雑誌」第1号に西周は、「洋学ヲ以テ国語ヲ書
 スルノ論」を掲載した。
  洋字使用論でローマ字論争が起こる。
  加藤弘之佐久間象山に学び、幕臣となって幕府の洋
 学教育機関、開成所の教授職竝(なみ)となる。
  維新後、新政府に参加し、天皇陛下の侍講として洋書
 講義をおこなう。明治4年以降、文部大丞。
  幕末の『鄰草(となりぐさ)』(文久元年(1861年)、
 『立憲政体略』(慶応2(1866年)、『真政大意』(明治
 3年)によって、日本に初めて立憲政体、憲法、議事院の
 原理を紹介した。
  「億兆ノ為メニ一君ヲ置キ奉ラセ玉フ訳デ、決シテ一
 君ノ為メニ億兆ガアルト云フ訳デハナイデゴサル。」(
 「真政大意」)
  津田真道陸軍省加藤弘之西村茂樹は文部省、
  森有礼:外務省、神田孝平:兵庫県令、箕作麟祥:司
 法省、中村正直は大蔵省に在職する官吏(中村、箕作、
 西村は翻訳官や編書官)。
  薩摩の森有礼以外は、出身の違いはあるものの、幕末
 の最終局面では、幕府の蕃書調所から開成所にいたる洋
 学教育の中心に身をおき、『尊王攘夷や復古の風潮に染
 まったことのない思想家』。
  雑誌の名は、明治6年に作られた「明六社」の名をとる。
  和紙で20ページ弱。
  各号3千部は売れたと言われ、再版号も多い。
  社員のうち、「議院設立が尚早」との意見を持つのは
 ドイツ系統の思想を持つ加藤弘之で、森有礼西周は、
 それに加担した。
  西村茂樹津田真道等は、議院設立の即行論者。
  津田真道(幕末にオランダ、フランス等に学ぶ)は、
 雑誌に3ヶ月連載した「政論」において、代議員選出の範
 囲と手続きについての自説を述べた。
  「士族ハ従来文字アルモノ稍(ヤヤ)多ク、
  平民ハ豪富ニアラザレバ、書ヲ読ム者希ナリ。
  故ニ、今代議士司選ノ人ヲ定メテ悉皆華士族トシ、並
 ニ平民ノ多ク租税ヲ納ムルモノトシ、
  其平民、都会ニ於テハ譬(タト)へバ二百円乃至千円以
 上ノ地券ヲ有スルモノニ限リ、
  村落ニ於テハ五十円乃至百円以上ノ地券ヲ有スルモノ
 ニ限ルベシ。・
 ・・右ノ如ク定メタル選者ヲ初選者卜名ヅク。
  初選者百人ニシテ相当ノ鑑識ヲ具スル一人ヲ選挙シ、
 之ヲ本選者卜名ヅケテ、此本選者ノ更ニ選挙スル所ノ人
 ヲ代議士トシテ議院ニ会集シテ、国民ニ代リテ国事ヲ審
 議スル人トス」
  そして、日本の人口3,000万の中から60名乃至120名を
 代議士として選出すべきと述べる。
  その他、森有礼西周加藤弘之、阪谷素(シロシ)、神
 田孝平等が殆ど毎号、議会政治について論じた。
  第1号巻頭の西周、「洋字を以て国語を書するの論」:
 明六社結成を「時宜ヲ制シテ漸次開明ノ域」に入るため
 に「学術文章ノ社ヲ結パント欲」したと位置づけ、
  そのためには、国語国字改良が必要とし、今まで中国
 の漢字をつかってきたならば、今、ヨーロッパをモデル
 にして進もうとするとき、「洋学」を採用して何の不思
 議があろうかという。
  ローマ字採用論。utukusiki hanaと書いて文章として
 は「ウツクシキ花」と読ませ、口語としては「ウツクシ
 イ花」とkをサイレントにすればいいと述べる。
  福澤諭吉 「学問ノススメ」
  福沢諭吉は、前年明治6年の小冊子「文字の教」で、今
 後は漢字をなるべく使わない文章を書くべきと述べる。
  文章の改革思想が、西や福沢によって次第に識者の注
 意を引くようになる。
  第2号は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」4篇(明治7年1
 月刊)の主張する「私立」の精神への反論。
  福沢は、「日本には唯政府ありで、未だ国民あらずと
 云ふも可なり。
  我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の
 能する所に非ず、又、今の洋学者流も依頼するに足らず。
  既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在
 り、・・私立の地位を占め、……政府の頂門に一釘〔針)
 を加へ、旧弊を除で民権を恢復せんこと方今至急の要務
 なる可し」と云う。
  津田、森、加藤、西は、「私立」に、こだわるだけで
 開化は進展できるかと疑問を呈出。
  「学問のすゝめ」4篇は「此社」(明六社)のために執
 筆されたものなので、理念は理解できる。
  だが、「在官」の人間を排除して、どこに開化の推進
 者を見出せるか、「在官私立ニ拘ラズ」開化の問題をた
 てるべきではないか、と質問する。
  この頃には、慶応義塾出身者も大量に政府内部に進出
 しており、また大久保政権は、イギリスを規範とする殖
 産興業を進めている。
  その大久保政府は、反対派を排除することで、福沢の
 指摘どおり、強大化しすぎており、「未だ国民あらずと
 云ふも可な」る状態である。
  明六社同人の大部分は、この政府に様々な形で参加し
 つつ、各方面でジレンマに直面している。
  津田真道中村正直は、政府改革、自由・自主の主張
 に力点をおいている。
  第6号で、津田は、「出板自由ナランコトヲ望ム論」で、
 「文明」と「野蛮」の別は、「唯其民ノ言行自由ヲ得ル
 ト得ザルトニ於テ」はっきりする、政府が治安を保とう
 として言論を抑圧するのは、かえって政府「顚覆(てん
 ぷく)ノ原(ミナモト)」だという。
  「民撰議院設立建白」への評価も分かれている。
  もっとも徹底した賛成論は福沢諭吉
  民撰議院が早いというなら、廃藩置県も早すぎたのか、
 明治4年廃藩置県の「好時節」だったように、
  明治8年は「即、民会創立ノ好時節也」((明治8年
 「五月一日明六社談話筆記」)。
  津田、西村は、議院に賛成だが、
  加藤弘之森有礼らは時期尚早論。
  西周「百一新論」(上下)出版。
  日本の道徳思想の基幹となっていた儒教思想と対比さ
 せ、近代ヨーロッパの哲学思想を紹介。
  西洋思想の本質はフィロソフィア即ち「哲学」とでも
 訳すべきものである、と彼は言う。
  以前から、ヨーロッパのフィロソフィアなるものがそ
 の文明の中核であると紹介していたが、それを性理学ま
 たは理学と訳していた。
  しかし、哲学と訳すのがよいとこの書で述べている。
  理学は物理化学をも意味しており、この混同はしばら
 く続き、次第に哲学という言葉に落ち着いてゆく。
  西は、主にコントの実証思想の影響を受け、西洋の学
 問の根本を学ぶには、西のこの書を読むことが是非必要
 だと知識階級人に看倣(みな)される。
  しかし、西の論は、福沢に較べると難解で、読者は知
 識階級の中の一部に限られた。
  津田真道西周は、共に、幕末の洋学の秀才で、蕃書
 調所(幕府の洋学研究所)の教授手伝であった。
  西周石見国津和野の代々の藩医西時義の子として、
 文政12年(1829年)に生れる。
  20歳の時、藩命により儒学を学ぶため大阪、岡山等に
 遊学。
  25歳の時、藩の学塾塾頭となる。
  翌年、江戸詰となってから洋学に志し、オランダ語
 学ぶ。
  その後、英語を学び、29歳の時、蕃書調所教授手伝並、
 次に教授手伝となる。
  そこで津田真道と同僚となる。
  34歳の時、西は、津田・榎本武揚兵学)・赤松則良
 (造艦)らとオランダ遊学を命ぜられる。
  これら幕府留学生は、3年間学んで、慶応元年末に帰国。
  西と津田は、蕃書調所の後身である洋学の大学(開成
 所)教授に任命される。
  西は、幕府のためにオランダ政治学を訳述し、また万
 国公法を訳す。
  この頃の門弟は500人という。
  慶応2年頃、彼は、慶喜にフランス語を教え、幕府の外
 交文書を訳して重く用いられる。
  鳥羽伏見の戦後、慶喜が江戸に逃れると、西も江戸に
 戻る。
  慶応4年、西・津田は、幕府命により立憲政体の調査研
 究を命ぜられる。
  明治3年3月、山県有朋は、徳川家に従って駿河に退き
 沼津の兵学校教授をしている西を兵部省顧問とし、ヨー
 ロッパ式の軍制制定にあたらせた。
  西と山県は、極めて親密で、西は、長く陸軍に関係を
 持つことになる。
  西は、兵部省に勤める傍ら、侍読(明治天皇陛下の教
 師)をも兼ねる。
  また、兵部省に出仕する傍ら、浅草鳥越の自宅で育英
 合という私塾を開き、漢学、英語、数学等の諸学課を統
 一した学問として教えることを始める。
  彼は、明治3年〜6年、近代ヨーロッパの文明全体の本
 質を包括的に教育しようとして、18世紀のフランスのア
 ンシクロペジストと同じやり方で「百学連環」という特
 別講義を行い、それを「百一新論」として纏めて出版。
  日本において、最初のこの体系的な近代文化の講義(
 歴史学、地理学、文章学、数学等の基本学課の外、特殊
 学として、神学、哲学、法学、経済学、統計学、物理学、
 化学等に及ぶ)は、次々と刊行されることになった。
  この頃、西周は、神田小川町に住み森林太郎(13)を
 預かっている。
  林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静
 男という蘭医の息子。
  森静男は西の勧めで、維新後、東京に一家を移し、向
 島曳舟通で病院を開いていた。
  長男林太郎を、東京医学校に入学させる積りで、ドイ
 ツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進
 文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離
 があるので、小川町の西家に預けた。
  この春、15歳と願書に書き、東京医学校を受験し合格、
 下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通った。
1874年5月(明治7年3月)華族会議、結成。
  総代:中山忠能(ただやす)。
  岩倉使節団で「貴族」の存在を認識した木戸と三条の
 腹心尾崎三良の工作で「通款社」(明治6年12月設立、
  若手華族の学術研究団体)と「麝香間祗候(じゃこう
 のましこう)会議」(保守的華族長老団体)が合同。
  6月、華族会館に発展。「協同勉励学術を研精」する機
 関と位置づける。
  華族の中には、その地位を返上しようとする人物もい
 た。
  明治7年2月、旧福本藩(播磨)知事・池田徳潤(ノリマス)
 は、「報恩の寸功も之なく、多罪之仕合と存じ奉り侯得
 共、此上歳々時日を過ぎ侯ては猶更恐入候」と、
  位記の返上と家令・家扶の廃止を願い出た。
  明治9年2月、元広島藩主・浅野長勲(ナガコト)は、「身
 を民籍に帰し祖先墳墓の地に拠り、力を開墾に用ひ、聊
 か物産を富殖し、万一も国家に稗益あらんことを冀望(
 キボウ)」すると出願した。
  しかし、政府はこれらの出願を却下。
  華族は、次第に宮内省の強力な管理におかれ、「戸位
 素餐」の振る舞いも市民的自由も制約された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive