(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月〜1874年4月)

題:(増補版)319E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年3月〜1874年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年3月23日(明治7年2月6日)大久保利通大隈重信が、
 台湾出兵を決定した。
  台湾征討を閣議で決定。  
  原因となった台湾事件(1871年):開国後最初の海外
 派兵。
  1871年に、日本の宮古島八重山島の漁民が、嵐で漂
 流し、台湾に漂着した。
  その乗組員の多数は殺されてしまった(原住民に殺害
 された)。
  さらに、1873年には、岡山県の船員が略奪されるとい
 う事件が重なって起こった。
  国の使命。
  「北朝鮮の拉致」。
  アメリカ合衆国の某高官に、「北朝鮮アメリカ国民
 が拉致されたらどうしますか?」と問うた・・
  即座に・・、
  「その時は、アメリカ合衆国海兵隊が行ってますよ」
 と答えた。
  即座に、「救出にアメリカ合衆国海兵隊が行ってい
 る」と答えたこの高官。
  国とはそういうものだ。
  この様な意味からも、他国の人は尊重しなければなら
 ない。
  国・・国家・・国家とは、そのようなものだ・・、
  「自国の国民を守る」「自国の国民の幸せを守る」
  それが第一の、また、唯一の・・国の使命・・、
  「大切な国民の生命を守る」「自国の国民の生命と財
 産を守る」・・それが第一の、また、唯一の、崇高な国
 の使命、国家の使命。
  これ無くして国家の存在意義は無い。
  『国民を守る』という『崇高な使命』が国家には存在
 する。
1874年3月26日(2月9日)江藤新平が、長崎にて土佐の林有
 造と会談した。
  林は、西郷に民撰議院設立への同意を取り付ける為に
 鹿児島に行った帰途。
  肥前が決起しても、薩摩は呼応しないとの観測を示し
 た。
1874年3月27日(2月10日)危機感は深刻・・各地の士族が、
 呼応して決起する事を恐れた新政府。
  太政大臣三条実美は、参議兼内務卿・大久保利通に、
 佐賀鎮定、軍事・裁判、全権委任させた。
  1874年3月31日(2月14日)、三条が、参議文部卿・木
 戸孝允に内務卿を兼任させる。
  政府軍の出動が遅れれば、熊本や鹿児島の士族も呼応
 し、九州全体の騒乱となり、
  更に、高知、岡山、鳥取、鶴岡などに飛び火する可能
 性もある。
  警察機構は、十分に整備されていないうえ、軍隊にも
 征韓論政変の余燼がくすぶっていたので、政府側の危機
 感は深刻だった。
  大久保内務卿は、ただちに、軍事と裁判の権限を随時
 に委任されて九州に向かった。
  江藤らが、鹿児島など他県の士族が加勢するのを待っ
 ている間に、
  政府側は、電信線で情報を正確に把握し、蒸気船で鎮
 圧部隊を送り込んだ。
  さらに、佐賀の中立派士族を味方につけ、熊本など近
 隣への波及を抑えた。
  この日に、即座に、1874年3月27日(2月10日)、熊本・
 広島・大阪の鎮台兵が、出兵した。
1874年3月28日(2月11日)島義勇が、長崎で憂国党幹部と
 会談した。
  この後、深堀に江藤新平と会談。
  岩村高俊の暴挙(鎮台兵を率いて佐賀県庁に赴任、鎮
 圧)阻止で意見が一致した。
  翌・旧暦2月12日、江藤新平は、佐賀に戻り正式に征韓
 党党首となる。
  旧暦2月13日、征韓党幹部が、旧藩校の弘道館に集合。
  江藤の「決戦之議」を配布する。
  本部を佐賀城北方にある実相院に移す。  
  決戦之議:
  「夫れ国権行はるれば、則ち、民権随(シタガツ)て全し。
  之を以て交戦講和の事を定め、通商航海の約を立つ、
 一日も権利を失へば、国、其の国に非ず。
  今茲に人あり。
  之を唾して而して憤らず、之を撻て而して怒らずんば、
 爾後、婦人小児とと雖も、之を軽侮するや必せり。
  是れ、人にして其権利を失ふものなり。
  嚮に朝鮮、我国書を擯け、我国使を辱むる、其の暴慢
 無礼、実に言ふに忍びず。
  上は聖上を初め、下は億兆に至るまで、無前の大恥を
 受く。
  因て客歳十月、廟議尽く征韓に決す。
  天下之を聞て、奮起せざるものなし。
  已にして而して二三の大臣、偸安の説を主張し、聖明
 を壅閉し奉り、遂に其議を沮息せり。
  鳴呼国権を失ふこと、実に此極に至る。
  是れ所謂、之を唾撻して、而して憤怒せざるものと相
 等し。
  苟くも国として斯の如く失体を極めば、是れよりして、
 海外各国の軽侮を招く、其の底止する所を知らず。
  必ず、交際、裁判、通商、凡そ百事、皆な彼が限制す
 る所と為り、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪、
 遂に貧困流離の極に至る、鏡に掛けて見るが如し。
  是れ有志の士の以て切歯扼腕する所なり。
  是れを以て同志に謀り、上は聖上の為め、下は億兆の
 為め、敢て万死を顧みず、誓て此の大辱を雪(ソソ)がん
 と欲す。
  是れ蓋し人民の義務にして、国家の大義、而して人々
 自ら以て奮起する所なり。
  然るに、大臣、其の己れに便ならざるを以て、我に兵
 を加ふ。
  其の勢状、此に至る。
  依て止むを得ず、先年長州大義を挙ぐるの例に依り、
 其の処置を為すなり(幕長戦争に依拠して自衛行動に立
 ちあがる、という意)。
  古人日く、精神一到何事か成らざらん。
  我輩の一念、遂に此の雲霧を披き、以て錦旗を奉じ、
 朝鮮の無礼を問んとす。
  是れ誠に区々の微衷、死を以て国に報ゆる所以なり」
 (「江藤南白」)
1874年3月30日(2月13日)島津久光(内閣顧問、佐賀憂国
 党は盟主として担ぐ)、東京発。旧暦2月20日、鹿児島
 到着。
  元藩士に佐賀に呼応しないよう睨みをきかせる。
  また、西郷を呼出し自重を命じる。
1874年3月31日(2月14日)熊本鎮台より1個大隊650、出動。
 県権令・岩村高俊と共に有明海北上。
1874年3月31日(2月14日)大久保内務卿が、天皇陛下から
 「佐賀鎮定」を委任され、九州へ出発。
  途中、大阪で陸海軍首脳と軍議。
  旧暦2月17日、大阪より黒田清隆に宛てて台湾「要略」
 について念押し。
  旧暦3月17日付け大久保の黒田清隆宛て手紙・・、
  「台湾のこと既に決定せり・・いずくまでも御貫徹、
 実効お挙げこれなく候てほ天下の信義もあい立たず」と
 念押し。
  「この事は廟議決定の事にて懸念はこれなくと信用つ
 かまつり候えども、憂情のあまりに候」と、「要略」の
 閣議決定が引っくり返るかも知れないとの憂情(不安)
 を拭いきれない心情を語る。
  尚・・、
  政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台だが、兵の中に
 も佐賀出身が多く動揺が広がっていた。
  司令官・谷干城も援軍を待っての進軍を主張していた
 が、新県令・岩村高俊の命もあり、
  1874年3月31日(2月14日)には、駐屯する1個半大隊の
 中から、第十一大隊(大隊長:中村重遠中佐は出張中で
 不在)を二分し、
  左半大隊は、参謀・山川浩少佐と隊長・和田勇馬大尉
 が率い、海路から、
  右半大隊は、参謀・佐久間左馬太少佐と隊長・山代清
 三大尉が率いて、陸路から佐賀に向かった。
  翌・1874年4月1日(2月15日)に、海路軍に護衛された
 岩村高俊らが、佐賀に入城すると、
  江藤らは、政府の真意を確かめるため山中一郎を代表
 として派遣した。
  しかし、岩村の「答える必要はない」との返答を受け、
 同日夜、県庁が置かれた佐賀城(佐賀県佐賀市)に籠も
 る鎮台部隊と交戦して、大損害(3分の1が死亡)を与え、
 敗走させた。
  佐賀の乱における政府軍の死者は、大部分がこの戦闘
 におけるもので、
  佐賀県大属・小出光照、中隊長・大池蠖二大尉(佐賀
 の乱での官軍戦死者で最高位)、沢田正武中尉が戦死、
 敗走中に包囲された津井城郷吉中尉が自刃したほか、山
 川浩少佐、奥保鞏大尉が重傷、西島助義少尉が捕虜とな
 った。
  また、この時、憂国党の副島義高は、捕虜を殺害しな
 いよう通達を出したが、
  佐賀城からの脱出時に、岩村の命で公金2,000円を携行
 していた佐賀県権中属の中島脩平に対しては、これを公
 金横領と看做して処刑を行っている。
  なお、この敗走中、後の西南戦争薩軍に包囲された
 熊本城から脱出に成功し援軍要請を果たした谷村計介が、
  単身先行し渡船を調達して、部隊を窮地から救う功を
 あげている。
1874年4月1日(2月15日)国産石鹸の販売広告、初めて新聞
 に表れる(東京木挽町の某商店)
1874年4月1日(2月15日)佐賀ノ乱
  江藤新平、佐賀に乱す(氷川清話)(2月16日説あり)
  この日・1874年4月1日(2月15日)、佐賀県権令・岩村
 高俊と熊本鎮台兵半隊650、筑後川河口より佐賀城(県庁)
 入城した。
  佐賀県庁に征韓党、憂国党あわせて2500人が包囲(佐
 賀の乱)
  新政府の施策にあきたらず、公然と藩制復帰をとなえ
 る保守派の憂国党、首領は、元秋田県令の島義勇(しま
 よしたけ、佐賀藩士だった)。
  江藤新平は、爆発寸前の不平士族や農民の騒ぎを鎮め
 ることができず、逆に、征韓党党首にかつがれる。
  旧武士階級に与えた影響は大きく、禄を失って生活に
 苦しんだ士族たちの不平不満が政府への反抗となった結
 果のこと。
  後に・・唐津、小城、蓮池の士族たちも続々と反乱軍
 に身を投じる
  1874年4月4日(2月18日)、佐賀県庁を占領
  征討軍を迎え撃つべく兵力を強化するため反乱軍は、
 各地に同志の参加を呼びかける密使を飛ばす。
  この日・旧暦2月28日、新式装備を誇る官軍の総攻撃に
 より反乱軍はくずれる。
  多くの降伏者をだし鎮定。
  反乱軍の幹部は処刑。
  江藤新平島義勇は姿を消す。
  後に・・長崎深堀に逃げていた後藤新平は、民船で西
 郷隆盛をたより、鹿児島へ向かうが保護を断られる。
  日向から伊予に渡り土佐に入る。
  頼(たよ)る林有造に保護を拒まれ阿波へ逃れる途中
  1874年5月14日(3月29日)、土佐の甲の浦で、江藤新
 平は逮捕される。
  1874年5月28日(4月13日)、鹿児島で捕らえられた島
 義勇とともに、江藤新平は死刑となる。
1874年4月2日(2月16日)征韓党2000、憂国党4000連合軍、
 佐賀城の熊本鎮台兵と交戦。
1874年4月2日(2月16日)小島為政の断髪の強制を批判した
 投書「断髪苦情一家言」、「横浜毎日新聞」に載る。
1874年4月4日(2月18日)江藤新平ら、佐賀県庁(佐賀城)
 を占領。
  早朝、県庁側、多数の犠牲を出して包囲を突破、岩村
 権令は県外へ避難。
  佐賀県庁(佐賀城)攻略・占拠。
1874年4月5日(2月19日)佐賀県賊徒征討仰出
  佐賀の乱の勃発により、長崎市中がハチの巣をつつい
 たような騒ぎに
  「神代の士族の男子は、ひとり残らず船を立てて、佐
 賀に出発したそうな」
  「深堀士族も賊軍に加わるそうだ」
  「佐賀兵が諫早に上陸した。諫早市民はたきだしをし
 て歓迎をしているそうだ」
  「佐賀軍が長崎に来襲すれば市街は兵火に焼かれるぞ
  流言が乱れ飛び市民は戦々恐々、仕事は手につかず、
 身のまわりのものを持ち市外に避難するものが続出。
1874年4月5日(2月19日)大久保内務卿乗船のアメリカ船、
 東京・大阪鎮台兵船団、博多上陸。
  ここに本営を置く。
  同日、政府、佐賀県下の暴徒征討の太政官布告
1874年4月6日(2月20日)陸軍少将・野津鎮雄、政府軍率い
 佐賀城下に進撃。
1874年4月6日(2月20日)元薩摩藩主の島津久光は、1874年
 3月30日(2月13日)に東京を発って、1874年4月6日(2月
 20日)に鹿児島に戻り、佐賀に呼応することのないよう
 元藩士に睨みをきかせていた。
  憂国党の幹部は、鎮台兵が佐賀を蹂躙し、士族のブラ
 イドを傷つけられたことを訴え、島津久光に謝罪・帰順
 しようとした。
  久光は、これに理解を示し、佐賀の大久保に使者を送
 るが、大久保は一切取り合わず。
1874年4月8日(2月22日)陸軍省第6局を廃し、参謀局を置
 く。
  参謀局設置。局長は山県有朋
1874年4月8日(2月22日)佐賀軍が、福岡県境の朝日山で迎
 撃準備。
  政府軍(野津少将)と本格的戦闘。
  政府軍が、佐賀軍の防衛線突破。
  一時的に佐賀城を失った政府軍だが、すでに東京鎮台
 などを率いて福岡入りしていた大久保利通は、
  本隊として第四大隊(厚東武直少佐)・第十大隊(茨
 木惟昭少佐)、及び、第三砲隊(山崎成高大尉)を
  福岡との県境にある要衝「朝日山」(現:鳥栖市)に
 進撃させると共に、
  佐賀軍の別働隊を「三瀬峠」、椎原口などに認めたこ
 とから、
  第十大隊第三中隊(小笠原義従大尉)を、本陣警護と
 して博多に残した。
  また、「府中」(久留米市御井町)まで退却した第十
 一大隊は、
  筑後川から「千栗」「豆津」(現・みやき町)周辺の
 佐賀軍を撃ち、朝日山で本隊と合流することにした。
  さらに、これ以外にも、長崎に上陸した外務少輔・山
 口尚芳が、
  遠武秀行海軍秘書官ほか、現地海兵隊を護衛に、大村
 から武雄に向かい、
  乱への参加に消極的だった佐賀藩・武雄領の説得を行
 わせている。
  これに対し、佐賀軍は、長崎街道沿いを征韓党が、
  筑後川沿いを憂国党が、
  それぞれ受け持つことに決め、
  征韓党は、朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長
 と、井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、
  この日・1874年4月8日(2月22日)には、この政府軍部
 隊を迎撃した。
  憂国党の指揮は、村山長栄が取り、本隊との合流を目
 指す熊本鎮台部隊を迎撃した。
  朝日山の戦い
  二日市から原田を経て、田代に入った本隊は、
  この日・旧暦2月22日、朝日山に向かい、
  第四大隊と第三砲隊は、轟木道から正面へ、
  第十大隊の半数が、山浦から側面に、
  残る半数が、宿村から背後に出て、包囲攻撃を行った。
  佐賀軍も、猛烈に反撃したが、すぐに弾薬が枯渇した
 ため支えることが出来ず、中原に敗走し、
  ここでも敗れて、隘路である切通で反撃に出た。
  この時、追撃を担当した第四大隊は、分散しており、
 1中隊のみで相対したため苦戦したが、
  最後には、これも退け、苔野まで前進したのち、中原
 まで退き、笛吹山から原古賀の佐賀兵を掃討した第十大
 隊と合流して宿営した。
  また、夜半には、佐賀兵の夜襲も撃退した。
  これに対し、第十一大隊は、朝日山の本隊に合流しよ
 うと筑後川を渡り、千栗・豆津・江見などで佐賀軍を破
 ったものの、
  六田で奇襲を受け、永山貞応中尉が戦死するなど、大
 損害を出し、筑後川を渡り、住吉(久留米市安武町)ま
 で退却した。
  その後、夜間、再度、渡河して、千栗に宿営したため、
 この日の戦力の結集には失敗した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive