(増補版)314E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年8月〜1873年10月)

題:*(増補版)314E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年8月〜1873年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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19世紀後半、朝鮮・韓国の文字であるハングルで書かれた
 最古の小説「洪吉童伝」が、この頃に成立した。
  ハングル。
  ハングルは、朝鮮語を表記するための表音文字であり、
 1446年に、李氏朝鮮・第4代国王の世宗が、「訓民正音
 の名で公布した。
  しかし、この文字は、長い間、朝鮮・韓国の社会から
 消えていた、埋もれていた。
  日本が、朝鮮・韓国の教育を熱心に改善して行ったが、
 その過程の中で、この埋もれていた文字が復活された。
  今・現在、この文字によって、どれほど朝鮮・韓国が
 文化的に、教育的に利便を得ているかは計り知れない。
  朝鮮・韓国で、ハングルが軽視されていた理由は、
  李氏朝鮮の国であった朝鮮・韓国は、清国に従属化さ
 れていて、その状況下にあって、清の文字の漢字が重視
 されるという状況のもとに、朝鮮・韓国の古来のハング
 ルは消え、そして、軽視されていた。
  公文書にも使われず、まったく見向きもされていなか
 った。
  日本との関係が深まって来て、やっと、1886年に、日
 本人が協力し、初のハングルの新聞や官報が発行された。
  朝鮮・韓国の方々は、教育機関がほとんど皆無と言っ
 いい状況の中で、大多数の朝鮮・韓国の方々は、読み
 書きができない状況だった。
  そして、日本との合邦時代になって、日本と同様の教
 育を進めたいという理念のもとに、朝鮮・韓国の学校教
 育にハングルによる朝鮮語が導入された、また、学校数
 も増やして行った。
  朝鮮・韓国の方々に、字の読める人口が、格段に改善
 された。
  1911年に、朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、ハ
 ングルを正式に必須科目とした。
  加耶大学の崔基鎬(チェケイホ)教授は、自著に書く、
  「李朝518年間、政治も経済も国家も、まったく存在し
 ないに等しかった。
  あったのは、ごく少数の支配階級と、大多数の奴隷(
 常民・サンミンと賤民・センミン)だけだった。
  朝鮮で最初のハングル小説「洪吉童伝・ホンキルトン
 ジオン」を著わした作家は、刑死させられたくらいだ。
  そして、その作家の家族は、奴婢・ヌヒの身分に転落
 させられた。
  朝鮮民族は、この様な体質だった。
  李朝は、讒言(ざんげん、事実を曲げたり、ありもし
 ない事柄を作り上げたりして、そのことを目上の人や、
 社会に言いふらし、悪く言うこと)と嘘(うそ)で固め
 られた残酷史の連続だった・・、
  他力本願ながら、そうした李朝の歴史に終止符を打っ
 た日韓併合は、この民族(朝鮮・韓国)にとって千載一
 隅の好機であった。
  これを否定する事は、歴史の歪曲である」と。
  千載一隅の意味は、《袁宏「三国名臣序賛」から》千
 年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会。例:千載
 一隅の好機。
1873年8月24日(7月2日)靴製造販売広告が、初めて新聞
 紙上に現われた。
  (東京築地、伊勢勝の広告、郵便報知紙上に見える)
1873年9月2日、黒田清隆開拓次官が、樺太出兵を建議した。
  1869年12月24日(明治2年11月22日)に、黒田は、
 樺太でのロシアの圧力が増したため、
  1870年6月(明治3年5月)に、樺太専任の開拓次官と
 なった。
  1870年8月(明治3年7月)から樺太に赴き、現地のロ
 シア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京し
 た。
  1870年11月13日(10月20日)に建議して、樺太は3
 年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければ
 ならないと論じていた。
  1871年11月27日(明治4年10月15日)に、開拓使
 官・東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂
 点に立った。
  1873年11月14日(明治6年)に、開拓使官吏の永山武
 四郎、永山盛弘ら4人は、連名で右大臣岩倉具視宛てに
 「屯田兵備設置」の建議を提出した。
  その要旨は・・、
  兵備は国家を守り、国民を保護するものだ。
  徴兵制度が定められ、各地に鎮台(軍隊)が設けられ
 たが、北海道だけはない。
  樺太の情勢は切迫している。
  開拓次官・黒田清隆に兵務も兼ねさせ、開拓使の中か
 ら兵を募り、隊を編成してほしい。
  樺太南部は、日露雑居の地で、ロシア人の犯罪が相次
 いでいた。
  樺太担当次官だった黒田は、出兵を計画したが、現地
 でロシアの圧倒的な軍事力を見て樺太放棄へ傾いた。
  政府は、1870年3月14日(明治3年2月13日)に、樺
 太開拓使を、樺太開拓のための官庁として設けたが、1年
 余りの僅かな年を経て、1871年8月、樺太開拓使を廃止
 し、北海道開拓使に併合していた。
  樺太は、江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約
 で日露混住の地とされ、
  王政復古の後は、箱館裁判所と箱館府の支配を経て、
 開拓使の管轄となった。
  裁判所時代から、現地の行政は岡本監輔(けんすけ)
 が執り、
  1868年(明治1年)と、1869年(明治2年)から移住
 した日本人入植者の約500人を指導していた。
  岡本は、樺太移住者に無税の条件と、当面の食糧供給
 などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
  この間、ロシア側の移住と開発の速度は、日本側を上
 回り、さらに日本人との紛争が頻発した。
  これには、現地の岡本が、日露和親条約の効力を否定
 し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発
 を原則拒否する態度を取っていたことにも原因があった。
  岡本の考えは、日露和親条約は、条約締結権のない徳
 川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改
 めて国境を決定しなければならないというものだった。
  この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識
 に立つ日本政府と異なるものであった。
  岡本は、事態の緊急性を告げるべく上京した。
  政府は、報告に危機感を抱き、1870年3月14日(明治
 3年2月13日)に、樺太の所管を開拓使から分離して樺太
 開拓使を設置した。
  独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所樺太
 開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。
  次いで、1870年6月7日(明治3年5月9日)に、黒田清
 隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命
 し、樺太専務とした。
  黒田は、樺太視察に赴き、1870年9月(明治3年8月)
 に、現地に到着した。
  黒田は、日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局
 と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。
  岡本はこの年・1870年12月(明治3年閏10月)に、辞
 職した。
  東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれ
 ば3年しか持たないという建議を出し、北方開拓を本格化
 する必要を説いた。
  これが、「開拓使十年計画」という予算計画を生むこ
 とになった。
  十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太
 の状況は基本的に変わらなかった。
  樺太には、これ以後、高官が派遣されることも任命さ
 れることもなく、
  樺太開拓使は、1871年9月21日(明治4年8月7日)に、
 廃止された。
  1873年明治6年)には、黒田は、樺太放棄論を建議
 して、千島樺太交換条約締結への路線をつくった。
  1874年8月5日(明治7年6月23日)、陸軍中将となり、
 北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。
  1874年9月12日(明治7年8月2日)、参議兼開拓長官
 となった。
  黒田は、榎本ら箱館で降った旧幕臣開拓使に登用し
 た。
  1888年明治21年)、内閣総理大臣となり、大隈外相
 とともに条約改正にあたった。
1873年9月9日(7月18日)従来混同する「布告」と「布達」
  の区別を初めて整然と定めた。
  1873年明治6年)に、布告・布達の書式・手続を定
 めた規定が相次いで出されたことで、
  国民一般に対して出される太政官の「布告」と、
  各省の「布達」、
  更に、上級官省から下級機関に対して出される「達」
 の区別が定着した。
1873年9月9日(7月18日)仏教への弾圧(廃仏稀釈)
  太政官布告によって、火葬禁止令が出された。
  明治政府が、仏教での葬法としての火葬に反対した神
 道派の主張を受け入れた。
  2年後の1875年5月23日に、この火葬禁止令は解除さ
 れる。
  火葬を禁止したことで仏教徒の反発が強く、
  また、衛生面から、火葬が好ましいとの意見があり、
 都市部での土葬スペース不足という問題もあった。
1873年9月10日(7月19日)鎮台条例改正
  東京、佐倉、新潟、仙台、青森、名古屋、金沢、大阪、
 大津、姫路、広島、丸亀、熊本、小倉の14師管を置き、
  これを6軍管に隷す。
1873年9月11日(7月20日)鉱業制度確立の為、日本坑法(
 にほんこうほう)が布告された。
  1872年の鉱山心得によって、鉱物が定義され、
  鉱業の国家独占主義と、外国人の排斥の原則が確立さ
 れた。
  1873年の日本最初の体系的鉱業法である『日本坑法』
 は、鉱物はすべて政府の所有にして、ひとり政府のみが
 これを採掘する権利を有し、
  私人は、借区によって、15年間の期間で鉱物の採掘を
 なし得ると定め、
  鉱物の国家独占主義を継承した。
  しかし、当時すでに、欧米の各国は、鉱業の国家独占
 主義をとっておらず、これはむしろ鉱業の発展を阻害す
 るとされたため、
  1890年に、新たに主としてプロイセンの制度にならっ
 た鉱業条例が制定され、
  国家独占主義を廃し、鉱業を特許を要する自由主義
 下に置き、借区に代えて永久の権利としての採掘権が設
 けられた。
1873年9月17日(7月26日)東京両国の花火大会が復興す
 る(1868年7月27日の明治1年6月8日説あり)
  両国川開き当夜、横浜在住の遊客の便宜のため、初め
 て汽車の臨時列車運転の旨、外字新聞に広告が出た。
  上下あわせて3本だった。
  江戸時代、享保年間(1730年代)に始められた両国の
 花火大会も、幕末の動乱期には、江戸っ子も花火どころ
 ではなく、両国の花火は、1863年文久3年)以降中断
 されていた。
  幕末の動乱期を経て、新しい時代の到来を告げる祝砲
 の如く、両国花火は再開された。
  久しぶりの花火で、多くの見物人や、涼み船が出た。
  屋形船4隻、屋根船400隻、小舟その他150隻が、川面
 を埋めた。
  この年、東京日本橋の瑞穂屋卯三郎が、横浜の商会を
 介し、初めて西洋花火を輸入したという記録がある。
  両国水神祭夕涼之図(りょうこくすいじんさいゆうす
 ずみのず)がある。
  この当時の花火人気は、今以上であり、1873年(明治
 6年)には、前年・1872年10月(明治5年9月)開通した
 ばかりの鉄道が、横浜〜新橋間に汽車を「別格」運転し
 (臨時列車のこと)、横浜の外国人も花火大会に運ぶと
 いう状況だった。
  明治初年の頃の花火大会を見たE・Sモースは、次の様
 に記す・・、
  「・・広い川は、提灯で照らされた舟で完全におおわ
 れ、川の向こう岸では、橋に近く光輝燦(さん)たる花火
 が打ち上げられていた。
  ・・近くに寄ってみると、10人ばかりの男が、大きな
 舟に乗って羅馬蝋燭(ローマろうそく)を発射したり、
 複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。
  光に輝く男たちの身体には花火が雨と降り注ぎ、ふり
 かえると、花火の光輝に照らされた舟の群れが、水に浮
 かんで上下し、
  新月は徐々に沈み、星は稀に見る光を放って輝き、
  川は、すべての大きさと色彩との、何万という提灯の
 光を反射しながらも、なお暗く、
  舟の動揺によって幾条もの小川に別たれている」と。
  また、同年7月17日付の読売新開の記事は・・、
  「両岸の提灯は、何万という数が知れず、両国橋大橋
 は、勿論、西側は爪も立たないくらい。
  見物にて押倒されるものあり、転ぶものあり、家々に
 は人が充満し・・」と、その盛況振りを報じた。
1873年9月19日(7月28日)新しい地租改正条令が布告さ
 れた(地租改正条例公布)。
  新政府は、幕藩時代にバラバラだった貢租基準を改め
 た。
  そして、中央集権国家を築くために、まず統一された
 税制を確立して、税収の安定を図ろうとした。
  その為に、従来の農民からの年貢に依存する方法では、
 米の保管・輸送・換金、そして、気象など外的要因によ
 って米価の変動や、歳入の不安定が起きた。
  それ故、これを早急に解決しなければならず、1873年
 9月19日(明治6年7月28日)に、新しい地租改正条例を
 布告した。
  これは、従来の貢租(こうそ・年貢)が、収穫高を基準
 とした現物年貢納であったことに対して、
  新地祖は、土地の価格(地価)を課税基準とし、地券を
 発行し、豊凶に関わらず、一定とした。
  そして、土地所有者(地主・自作農)が金納することと
 した。
  そして、5年間の暫定値とし地価の3%、さらに、地方
 税に相当する郡村入費を1%、5年後に見直す・・とした。
  しかし、これは、農民にとって従来の年貢制に比べて、
 大幅増加となった。
  新政府による、新しい世の中を期待した農民にとって、
 期待を裏切るものとなり、
  真壁騒動、伊勢暴動らが、各地での一揆が引き起こさ
 れた。
  (真壁騒動、伊勢暴動など、死者を伴う一揆が、各地で
 起こり、
  政府は、暫定地価の3%を2.5%に減額した。
  これを「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と人々は揶
 揄(やゆ)した。
1873年9月22日(8月1日)官吏に初めて暑中休暇を与えた。
1873年9月24日(8月3日)西郷隆盛を遣韓大使となすの廟
 議が決す(ただし、岩倉具視の帰朝を待てとの御沙汰)
1873年9月30日(8月9日)停車場の雑品販売を許した。
1873年9月(7月)証書の認めに、瓜印花押を禁じ、実印
 を使用する事に。
1873年10月8日(8月17日)朝議が、西郷隆盛を朝鮮派遣
 に内定する。
1873年10月23日(9月3日)木戸孝允が、朝鮮及び台湾征
 討に反対し、内治の急を説く。
1873年10月25日、勝海舟、任参議兼海軍職(氷川清話)
  この年、勝海舟が、明治政府の参議兼海軍卿になった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive