(増補版)420E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月〜1886年1月)

題:(増補版)420E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1885年12月〜1886年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1886年、出来事:
内閣総理大臣伊藤博文、在任:1885年(明治18年)12
 月22日〜1888年明治21年)4月30日
  伊藤 博文(いとう ひろぶみ/ひろふみ、天保12年9月
 2日(1841年10月16日)〜明治42年(1909年)10月26日)
 は、日本の武士(長州藩士)、政治家。
  初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣
  および、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国
 統監を歴任した。
  位階勲等爵位は、従一位大勲位公爵。
北海道庁に統一された(北海道庁設置)。
  1869年7月8日、開拓使を設置した。
  1869年8月15日、それまで和人地、及び、蝦夷地と呼称
   されていた地域名を、北海道と改め、
   域内に11箇国86郡を設置した。
  1870年2月13日、樺太開拓使の設置に伴い、北海道開拓
   使と改称した。
  1871年8月7日、樺太開拓使を統合し、再び、開拓使
   復した。
  1882年2月8日、北海道開拓使を廃止し、函館県・札幌
   県・根室県の3県を置いた(廃使置県)
  1886年1月26日、3県を廃止し、北海道庁を設置した。
   札幌に本庁が、函館と根室に支庁(後年のものとは
   別組織)が置かれた(廃県置庁)
鎮守府、軍港を置く。
  この年の海軍条例制定に伴って、日本の海岸・海面を
 五海軍区に分かち、
  それぞれに、軍港と鎮守府を設置する方針が出された。
  その結果、1889年7月、呉(くれ)(第二海軍区)、佐世
 保(させぼ)(第三海軍区)に、鎮守府が開庁された。
・標準時が始まる。
  標準時の制定は、1884年アメリカのワシントンで開
 催された「本初子午線并(ならびに)計時法万国公会」で
 決議された。
  その結果、日本においては、1886年明治19年)7月12
 日勅令第51号をもって、「本初子午線経度計算方及標準
 時」が公布された。
1886年、データ
・人口 38,151,217人
・世帯数 7,727,610戸
  1871年明治4年)、戸籍法が公布され、
  各地より提出された戸籍(壬申戸籍)に基づき、内務
 省により、明治5年1月29日(太陽暦では1872年3月8日)
 付で『日本全国戸籍表』が編纂された。
  翌年・1873年明治6年)〜1886年明治19年)までは、
 毎年1月1日現在、
  1886年〜1897年(明治30年)までは、12月31日現在で
 の戸籍上現存する人口によって作成した戸籍表を提出さ
 せ、
  これを集計して、毎年の全国の『日本全国戸籍表』(明
 治6年1月1日〜明治9年1月1日調)、
  『日本全国戸口表』(明治10年1月1日〜明治11年1月1日
 調)、
  『日本全国郡区分人口表』(明治12年1月1日調)、
  『日本人口統計表』(明治13年1月1日、明治14年1月1日
 調)、
  『日本全国戸口表』(明治15年1月1日〜明治18年1月1日
 調)、
  『日本全国民籍戸口表』(明治19年1月1日調)、
  『日本帝国民籍戸口表』(明治19年12月31日調〜明治31
 年12月31日調)が編纂された。
  (明治19年は1月1日調と12月31日調の二種類作成された)
・紡績工場の数:20、
1886年、物価
・氷1貫目・6銭〜7銭、
1886年、経済・金融・貿易:
・初めて、アメリカ綿を輸入した。
  アメリカ綿の最初の出会いは、1862年、日本からアメ
 リカへの綿花輸出だった。
  アメリカは、当時、世界最大の綿花生産国だったが、
 南北戦争によって、綿花生産がストップした。
  その為、日本から、日本綿16.4トンがアメリカへ送ら
 れた。
  そして、アメリカ綿が、日本に輸入され始めたのは、
 その輸出から24年後の1886年明治19年)だった。
  試験的に、1俵のアメリカ綿が輸入された。
  これが輸入の皮切りだった。
  以後、徐々に増えて行き、1932年(昭和7年)には、
 229万俵を記録した。
  (参考:日本綿業振興会ホームページ)
1886年、産業:
1886年頃、この頃から、日本に、鉄道や紡績などの様々
 な分野で会社設立のブームが起こった。
  機械技術を本格的に導入する産業革命が始まった。
・神戸に曳船廻漕会社設立
1886年、衣:
帝国大学が、制服・制帽を定めた。
  この年に定められた帝国大学令の制定によって、1877
 年に創立の東京大学が改められて帝国大学となった。
  そして、制服と制帽が定められた。
  因みに、1897年に、京都帝大(京都大学)が設立され、
 後、1939年までに、東北(東北大学)、九州(九州大学)、
 北海道(北海道大学)、京城台北、大阪(大阪大学)、
 名古屋(名古屋大学)の各帝大が設立された。
  ここで注目なのが、朝鮮と台湾も、なんら差別するこ
 となく日本と平等に、日本は教育を行なった。
  逆に、朝鮮や台湾の学校の方の施設を立派に作る日本
 だった。
  何ら、韓国が言うような酷(ひど)いことは日本はし
 ていない。
  日本は教育に熱心な国だった。
  それを、差別なく行った。
  プロイセン・ドイツやオーストリアの国法学者たちから
 『大学の国家経営が重要である』ことを学んできた伊藤
 は、1885年に、内閣を組織するとともに、
  初代文相・森有礼とはかって、帝国を代表する政府直
 轄の大学の設立に入り、
  翌年・1886年帝国大学令を制定した(差別なくこの
 令に朝鮮・台湾も入れた)。
  そして、この様に優秀な政治家の伊藤博文を、優秀で
 あるからこそ初代の韓国総督府の総監に赴かせた。
  その伊藤博文を韓国は暗殺をする、そして、暗殺行為
 者を英雄扱いしている。
  「恩を仇で返す」ことをしている。
・時計の輸入37,000余個
  外国商館が、服部時計店に優先的に新しいモデルを卸
 してくれるようになり、
  服部時計店は、比較的短い期間にめざましい躍進をと
 げた。
  そして、1886年明治19年)の好景気時から、創業者・
 服部金太郎は、舶来時計の卸・販売に集中していくこと
 になった。
  (参考:セイコーミュージアムホームページ)
・「フロックコート
  フロックコートは、男子用の昼間の礼服で、
  上着丈はひざまであり、ダブルで、襟には黒絹をかぶ
 せ、縞のズボンと組み合わせて着る。
  現在は、モーニングコートが主に用いられている。
  また、フロックコート風の衣装を「タキシード」と呼
 ぶが、
  因みに、この年の1886年に、ニューヨークのタキシー
 ド・パーク倶楽部の正装舞踏会で、
  全員が燕尾服を着ている中で、グリスウォルド・ロリ
 ラードという人物が、
  燕尾服に着替えるのを忘れ、真っ赤なスモーキングジ
 ャケットを着用したままパーティーに参加したことが、
 アメリカにおける始まりと言われている。
・「吾妻下駄」
  吾妻下駄(あずまげた)は、台に畳表を張った樫 (か
 し) の薄歯の女性用の下駄で、
  江戸初期に吾妻という遊女が履いたので名づけられた
 と言われている。
  江戸末期に流行したという記事もある。
1886年、食:
・瓶詰めの酒が発売された。
・アイスクリームが発売開始された。
・三田育種場『舶来穀菜要覧』を刊行、農家で栽培法を会
 得するものあり。
コレラ流行に際し、ラムネの宣伝功を奏し東京市民一般
 ラムネの存在をしる。
1886年、住:
・ドイツ建築技師ビョクマンの好意により、日本の建築技
 師、及び、職人20名がドイツに建築を学ぶため出発する。
・東京電燈会社が、電球の製造に着手した。
1886年、報道:
・不便な地方では、官報のとどくのがおそくて、法令の成
 立日とずれが生じる(東京日日新聞
1886年、論・文学・本:
・「龍門雑誌」 創刊
・ 「信濃教育雑誌」 創刊
・ 「包丁塩梅」(料理雑誌) 創刊
大槻文彦が『日本辞書言海』の再訂を終えて提出(3月
 23日)
徳富蘇峰 「将来之日本」
・山田美妙著『新体詩選』刊(8月)
・君論(著:マキャヴェリ/訳:永井修平)
・矢野文雄 「日本文体文学新論」
福澤諭吉 「男女交際論」
・鈴木金次郎 「新編明治毒婦論」
・山川一声 「英船ノルマントン号沈没事件審判始末」
高田早苗 「当世処世気質の批評」
二葉亭四迷) 「小説総論
・末廣鐡腸 「二十三年未来記」
・末廣鐡腸 「雪中梅
ジキル博士とハイド氏(スティーブンソン)[英]
1886年、教育:
建築学が始まる。
・小学校制度が変更された。
 尋常小学4年、高等小学4年の計8年。
・共立女子職業学校が設立された。
・共立病院内に、看護婦教育所が設立された。
1886年、歌・流行・世相:
・世相 「こっくりさん
・民権数え歌などが流行した。
1886年、演劇:
・演劇改良會が設立された。
・黙阿弥 「月白刃梵字彫物」が初演された。
1886年、発明:
・カール・ベンツが、ガソリン自動車を発明した。
  ドイツのマンハイム通りを走る。
1886年、医・衛生:
・薬局方が公布された。
コレラ、腸チフス天然痘が猛威を振るう。
 コレラの死者:10万8405人
 天然痘の死者:1万8678人
 腸チフスの死者:1万3807人
1886年、事件:
ノルマントン号事件が起こった。
・(氷川清話)明治19年には静岡事件(箱根離宮襲撃計画)
  自由民権運動関係の静岡事件。
・(氷川清話)長崎事件(清国水兵の殺傷事件)
・吉松寿太郎ら、天皇陛下の暗殺を計画する。
1886年、その他:
・大阪で18歳未満の人力車夫を禁じ車夫服装を定める規則
 を公布。
・若松港に筑豊?業組合設立
甲府の製糸工場で日本初のストライキ
.
  (今日の言葉)
.
  題:この事によって、何人の方々が、愛する方々のもとから、
   帰らぬところへと、旅たって行ったことだろうか・・、 
.
1917年11月2日、石井・ランシング協定が締結された。
  石井・ランシング協定(いしい・ランシングきょうて
 い)は、1917年11月2日、アメリカ合衆国ワシントンD.C.
 で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国
 務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国
 での特殊権益に関する協定である。

  権力を持つ者が、権力を持つが故に・・、
  その権力を持つ者に許された「権力の行使手段」を
  「行使する権利」が与えられる。
  途方もなく巨大な権利を、自由に使える状況に置かれ
 る。
  権力を持つ者は、その超巨大な権力を行使する手段を
 持っていることを・・常に・・意識して・・日常を送る。
  彼の頭に・・何とかしなければならない存在が居ると
 感じた時・・思った時・・、
  その様な・・何とかしなければならない様な『存在』
 が居た場合・・、
  常に・・その存在を何とかしなければならないと・・、
  その立場ゆえに・・常に考えている。
  ある時は、「取り込もう」と考える。
  (アメリカのルーズベルトは、一時は、日本を『取り
 込もう』と考えた)
  そして、だから、その時は、その「取り込みの条約」
 を締結する様にと、部下たちに命じた。
  取り込みの条約は、締結された・・
  立派に・・国際的にも遜色(そんしょく、見劣りする)
 するところの無い、立派な条約となって締結された(石
 井・ランシング協定)
  問題は解決したと思えた・・平和が訪れたと思えた。
  そして、この後に、彼=権力を持った者の頭に浮かん
 で来たことが、取り込んで握手はしたが・・、
  世界に平穏をもたらしたと・・思った一方・・、
  取り込みんでうまくいったと思った一方・・別の一面
 が頭を一杯にして来た。
  取り込んで妥協した点が気になった・・、
  妥協したという点が、その大きさが、だんだんと大き
 くなって来る。
  取り込んで握手をしたのが・・「ある意味の敗北だ」
 の様に見えて来る。
  この考えが・・浮かんだところが分岐点だった。
  また、この権力を持つ者は、非常に強い、熱心なキリ
 スト教を信じる人だった。
  そして、妥協した相手の者が有色人種だった。
  この権力を持った者は、この有色人種と妥協した点が
 引っ掛かった。
  キリスト教の「有色人種蔑視」の意識が、頭に湧き出
 して来てしまった。
  その時、その権力を持った者の地も、キリスト教の「
 有色人種蔑視」の行為が盛んに行なわれている地だった。
  また、この様な考え方は、世界中のキリスト教の白人
 社会は持っていた。
  悲しい点はここだった。
  初めて有色人種が、白人社会の大国を戦争で破った時
 は、有色人種の社会は、皆、喜んだ。
  世界中の有色人種の方々は喜んだ。
  白人社会のキリスト教の「有色人種蔑視の教義・観念」
 は、その行為がなされている側・・行われている有色人
 種側にも、逆の意味で・・その観念の逆の、反対の状態
 で生まれてしまっていた。
  キリスト教の逆の観念が、悲しいかな世界中に、また、
 伝播してしまっていた。
  白人社会と有色人種社会が、二つの社会に二分されて
 しまって居た。
  悲しい事である。
  白人のキリスト教のアクションの反動によって、さら
 に、世界は分断されてしまって居た。
  この強いキリスト教観念を持った権力を持った者=ル
 ーズベルトは、ここで手のひらを返した。
  悲しいかな、平和のために取り込んで妥協した事が、
 敗北のように思えて来てしまうい、有色人種と妥協した
 点が引っ掛かってしまい、その点が気になり、大きくな
 って来てしまって、手のひらは返された。
  次の会議で手のひらが返され、「ワシントン体制」へ
 持って行かれた・・ワシントン体制へのスタートが切ら
 れた。
  その権力を持った者は、世界最大の大国・アメリカで
 あるが故に、他の白人のキリスト教国は同調し、ワシン
 トン体制は、着々と築き上げられ、
  逆の体制である・・包囲網の体制が築かれて行った。
  中国では色々と策謀がなされ、入植していた人々が殺
 されたり、
  その有色人種国の軍人が、スパイをしたと捕まり、秘
 密裏に殺され、
  その抗議にも誠実に答えず、逆に、その国へ言い返す
 始末で、事が収まるどころか、火に油を注ぐがごとくだ
 った。
  そして、第二次世界大戦へ続く行為が起きてしまう。
  大国に支援された中国は強気だった。
  アメリカは、自分の目的が達せられる代理戦争の形で
 あるので、都合はよかった。
  金と武器は、ふんだんに、どんどんと供給された。
  そのうち、アメリカ大統領に命令された正規の部隊ま
 でが派遣された。
  卑怯な事にこの事も秘密にされた。
  アメリカの国民の方々は、まったく知らない事だった。
  戦後、何年も経って、この事がばれると、卑怯な事に、
 「ボランティアだ」と嘘の屋上屋を重ねた。
  卑怯の極みであった。
  アメリカ国民の方々が知らされたのは、何と!!70年
 も後の事だった。
  卑劣である。
  何も知らされない状態に、この様な長い間、置かされ
 た。
  卑劣極まりない状態に置かれた。
  この事によって、何人の方々が、尊い命を、愛する方々
 のもとから去って行ったことだろう。
  そのあまりにも多い命の数に言葉も詰まる。
 (アメリカは、日本の権益・満州と東部内蒙古を、一旦は
  認めていたが、この様な事態となってしまった)
  (参考)旅立つ:たびたつ、旅に出かける、また、死
    ぬことを婉曲(えんきょく)に言う。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive