(増補版)332E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年10月〜1875年12月)

題:(増補版)332E1/3:気になった事柄を集めた年表(1875年10月〜1875年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1875年10月31日(明治8年10月3日)明治天皇陛下、朝鮮処
 分意見を奏聞(そうもん、天子に申し上げること)。
1875年11月1日(10月4日)明治政府が、国税として煙草税
 を創設した。
  この年に雑税整理を行なった。
  雑税整理は、幕府の時代から続く各地の約1500種類の
 雑税を全国的に整理し、国税地方税の区別に先鞭をつ
 けた税制改革だった。
  この雑税整理に伴って煙草税則が公布され、翌年に施
 行された。
  これまでは、煙草は各地で独自に課税されていた。
  これまで税が地租に偏り過ぎていたために煙草税が創
 設された(租税収入の8割が地租だった)
1875年11月1日、仮名垣魯文(編集)の『仮名読新聞(かな
 よみしんぶん)』が横浜で創刊された。
  明治時代初期の代表的小新聞で横浜毎日新聞会社(現
 :毎日新聞社)の創刊。
  魯文の「猫々(みょうみょう)奇聞」など、軽妙洒脱(し
 ゃだつ)な筆で人気を集めた。
  1877年3月から東京に進出した。
1875年11月14日、明六雑誌が停刊した。全43号。
  福沢諭吉らが、出版への圧力に抗議して、『明六雑誌
 を自主廃刊した。
  定価:3銭〜5銭(頁数により異なる)
  月に平均2回ないし3回刊行、
  使用紙:和紙(雁皮紙)
  発行部数:毎号平均3205冊余発行(2840冊説あり)
  サイズ:17センチ×12センチ(B6版相当)または、21
 センチ×14.5センチ(A5版相当)、12頁〜24頁。
  因みに、「演説」は福沢の作った言葉、
  変な和製英語カタカナ語の多い現在であるが、福沢
 のこれらの功績は大きい。
  「個人」という訳語の定着もこの頃。
  明六雑誌は、「人々」「各個」「奴隷根情」などの訳
 語を多く、世に送り出した。
  この様な英傑が、今は居ないことを憂える。
  特に、ラジオの株の放送は、意味不明の和製英語のカ
 タカナ語の連続で、株主への説明だと称して、説明にな
 っていない状況となっている。
1875年11月22日(10月25日)征韓論で、板垣退助・後藤象
 二郎らが参議を辞職 した。
  板垣退助は、1875年に参議に復帰し大阪会議に参加し
 たが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。
  後藤象二郎は、1873年に、征韓論争に敗れて板垣退助
 西郷隆盛らと共に下野した(明治六年政変)。
  その後、板垣や江藤新平副島種臣らと共に愛国公党
 を結成し、
  1874年、民撰議院設立建白書署名の1人となった。
  そして、1874年に、実業界に転身して商社「蓬莱社」
 を設立した。
  約55万円で、政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経
 営に乗り出したが、
  1881年に、放漫経営のため破綻し、福澤諭吉の要請で
 三菱の岩崎弥太郎に売却したりした。
1875年11月24日、阿部信行(あべのぶゆき、陸軍大将、内閣
 総理大臣)が金沢で生まれた。
  第二次世界大戦終戦間際の最後の朝鮮総督であり、
 日本統治終了以後の朝鮮半島が、無政府状態に陥るのを
 恐れ、民衆保護のために第17方面軍司令官・上月良夫と
 ともに朝鮮へ自治権を与え、朝鮮人民共和国を成立させ
 た。
1875年11月28日、勝海舟、願いにより本官免ず。
  勝海舟が、元老院議官になったが、ほどなく止め、著
 述に専念した。
  氷川清話には・・
  この頃より、氷川の小室に起臥(きが、起きる事と寝
 ること。また、生活すること)し、
  内は、旧主家の家政に注意し、
  外は、窮生(きゅう、貧しい、困窮した)を救い過激
 を鎮撫し、余暇著述に心を寄せ20余年を送る。
  その間、流行の転地旅行もせず、又、官民貴賤を分か
 たず来客と会い、中外(ちゅうがい、うちとそと)の事
 情を詳にし、貢献(こうけん、ある事や人のために、自
 分の持っている力をできる限り出して、力になること)
 する所少なからず(氷川清話)
1875年11月29日、最初の女子師範学校、東京で1874年に開
 校し、1885年に、東京師範学校への統合された。
  東京女子師範学校 :1874年に設立された官立師範学校
  1885年の東京師範学校への統合を経て、
  1890年に「女子高等師範学校」として分離・改組、
  1908年、東京女子高等師範学校に改称された。
  現在のお茶の水女子大学の旧制前身校。
  お茶の水女子大学のホームページには、1875年11月29
 日に、「東京女子師範学校」として設立と記されている。
1875年11月29日、新島襄が、京都に同志社を開校した。
  新島襄が、京都寺町に官許同志社英学校を開校する。
  京都府知事槇村正直、府顧問 山本覚馬の賛同を得た。
  上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地高松保実邸
 の半分を借りた校舎。
  教員は新島襄とJ.D.デイヴィスの2名。生徒8人であっ
 た。
  新島襄初代社長に就任。
1875年12月2日(11月5日)イギリス公使が、小笠原諸島
 日本領と認めた。
  1861年12月17日(文久元年11月16日)、幕府は、列国
 公使に小笠原の開拓を通告した。
  1862年1月(文久元年12月)、外国奉行・水野忠徳の
 一行が咸臨丸で小笠原に派遣された。
  1862年1月18日、咸臨丸は二見湾に投錨した。
  1875年12月21日(明治8年明治丸が父島へ行く。
  1876年の明治政府による領有宣言。
  内務省所轄とし、日本の統治を各国に通告した。
  1882年(明治15年)居住していた20戸72人全員が、帰
 化し日本人となる。
1875年12月7日(11月10日)千島樺太交換条約が成立し、公
 布された。
1875年12月14日(11月17日)東京米倉の浅草文庫が公開さ
 れた。
1875年12月24日(11月27日)最初の鉄道用鉄橋を六郷川
 架設竣工、この日、開通式(工費34万円、英国セルヴィ
 ントル監督)
1875年2月、フランス 「第三共和国憲法」 が制定された。
  第三共和政下で、議会の多数派が多くの政党・政派の
 離合集散によって不安定であった。
  そのため、内閣の変動は著しく、この共和政の存続70
 年間に合計108回もの内閣の改造・更迭があった。
  政治の実権は、官僚が握り、さらに、政治を基本的に
 動かすものは政治家・官僚と結び付く大金融資本であっ
 た。
  第三共和政は、ブルジョアジーの優位性をまず保障し
 た。
  そして、社会的不平等を存在するままにした。
  しかし、下級市民層の青年にも昇進の可能性を与え、
  1882年の非宗教的無料初等義務教育法の制定以来、広
 くフランス民衆の中に共和主義的意識を定着させた。
1875年3月3日、歌劇「カルメン」が、パリで初演された。
  カルメンは、フランスか激の代表作として世界的に人
 気があるが・・、
  この時、パリのオペラ=コミック座で初演された時は、
 不評であった。
  作曲家のジョルジュ・ビゼーは、初演から間もなくに
 死去した。
  初演後、エルネスト・ギローにより台詞をレチタティ
 ーヴォに改作されて上演され、人気を博すようになった。
1875年5月1日(3月26日)李承晩が生誕(黄海道京城
 方の農村)。
  家は両班(りょうはん・やんばん・りゃんばん) だっ
 た。
  両班は、民衆搾取の身分と言われている。
1875年8月25日ドーバー海峡初横断。
  記録に残っている中で最初にドーバー海峡を泳いで渡
 ったのは1875年8月25日、イギリスのドーバーを出発し21
 時間45分掛かって8月25日フランスのカレーに到着した
 イギリス人男性マシュー・ウェッブである。
1875年12月(11月)イギリスが、スエズ運河の実権を握る。
  イギリスは、スエズ運河を奪ったも同然な価格でエジ
 プトから手に入れた。
  スエズ運河の株は4000万円にした。
  フランス人が作っているときには、イギリスは、悪辣
 な方法で妨害し、出来ると自分のものにした。
..
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