(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月〜1874年3月)

題:*(増補版)317E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年1月〜1874年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1874年1月26日(明治6年12月9日)東京小網町の大火(約
 5000戸焼失)
1874年1月(12月)自動織機・ジャカード織機
  佐倉常七 ・井上伊兵衛 ・吉田忠七らが仏、リヨンよ
 り、ジャカード織機などを携えて帰国した。
  ジャカード織機は、1801年に、フランス人のジョゼフ・
 マリー・ジャカールが発明した自動織機のこと。
  1872年(明治5年)に、京都府が、西陣機業関係者3名
 をリヨンに送って学ばせ、帰国時に機械を持ち帰った。
1874年2月11日(12月25日)島津久光を、内閣顧問(ない
 かくこもん、内閣総理大臣の諮問機関)に任命した(
 1873年説あり)
  1871年11月14日に、都城県(みやこのじょうけん、
 日向国南部と大隅国東部を管轄する県、現在の宮崎県南
 部と鹿児島県東部)が設置され、
  旧藩領が、鹿児島県と都城県とに大きく分断されると、
 島津久光は、「薩隅分県」は長州の陰謀だと疑い、また、
 自身の鹿児島県令への就任を希望した。
  1872年7月27日(明治5年6月22日)〜8月5日(7月2
 日)にかけて、明治天皇陛下が、西国巡幸の一環として
 鹿児島に滞在されたことを受けて、
  1872年8月2日(6月28日)に、政府の改革方針に反す
 る守旧的内容を含んだ14カ条の意見書を、久光は奉呈し
 た。
  1873年4月(明治6年3月)に、勅使・勝安芳(海舟)、
 および、西四辻公業(にしよつつじきみなり、公家、政
 治家)が鹿児島に下向、・・その要請に応じて、
 久光は上京する(4月17日鹿児島発、23日東京着)。
  そして、この日・1874年2月11日(明治6年12月25日)
 に、内閣顧問に任じられた。
  1874年2月1日〜1874年3月1日の佐賀の乱の勃発を受
 けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、
 久光は、鹿児島に帰郷する(1874年3月31日・明治7年
 2月14日東京発、1874年4月6日・明治7年2月20日鹿児
 島着)。
  1874年5月(明治7年4月)に、勅使・万里小路博房
 までのこうじひろふさ)、および、山岡鉄太郎(鉄舟)
 が鹿児島に派遣され、
  その命に従って帰京する(1874年5月30日・明治7年
 4月15日鹿児島発、1874年6月5日・明治7年4月21日東
 京着)。
  1874年6月11日(明治7年4月27日)に、久光は左大臣
 となり、
  1874年7月6日(明治7年5月23日)には、旧習復帰の
 建白を行うが、
  政府の意思決定からは実質的に排除されていた。
1874年、屯田兵(とんでんへい)の設置許可
  屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年か
 ら様々な方面に生まれていた。
  政府内の提案としては、明治3年11月(1870年12月
 〜1871年1月)に開拓使が行なったのが初めて。
  ついで、西郷隆盛が、1871年明治4年)〜1873年
 (明治6年)にかけて、士族による北方警備と開拓を主唱
 した。
  西郷は、計画の実現をみることなく下野したが、彼の
 影響で開拓次官の黒田清隆が、1873年11月に太政官に屯
 田制を建議した。
  樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、
 「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且
 守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」
 というものであった。
  黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合、
 旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。
  太政官は、黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)
 に、屯田兵例則を定めた。
  1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地
 で、屯田が開始された。
1874年2月16日(12月31日)徳川慶喜が、大臣を辞す(
 1873年説あり)
1874年2月17日(明治7年1月1日)慶應義塾内に、私立小
 学校和田塾(のちの慶應義塾幼稚舎)が開塾した。
1874年2月20日(明治7年1月4日)榎本武揚が、最初の海
 軍中将に任命された。
  (榎本武揚→海軍中将兼駐露特命全権公使
  (最初の海軍大将は、明治27年西郷従道
1874年2月25日(1月9日)西郷の考え
  旧庄内藩士・酒井玄蕃(さかいげんば、戊辰戦争で活
 躍)の西郷との談話筆記。
  ロシアとの対決は必死だが、北海道防衛だけでは不備。
  朝鮮問題を解決し、沿海州に進出し「北辺」を防備す
 る必要がある。
  イギリス・ロシア対立を利用し、イギリスと提携して
 ロシアにあたれば、「魯国恐るに足らず」との世界戦略
 を示す。
  「今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべ
 き事もこれなく、畢竟は魯と戦争に相成り候外これなく、
 既に戦争と御決着に相成り候日には、直ちに軍略にて取
 り運び申さずば相成らず、只今北海道を保護し、夫にて
 魯国に対峙相成るべきか、左すれば弥以て朝鮮の事御取
 り運びに相成り、ホッセットの方よりニコライ迄も張り
 出し、此方より屹度一歩彼の地に踏み込んで北地は護衛
 し、
  ・・兼ねて掎角の勢いにて、英、魯の際に近く事起こ
 り申すべきと
  ・・能々英国と申し合わせ事を挙げ候日には、魯国恐
 るに足らずと存じ奉り候」
  ロシアとの対決は必至であるが、北海道防衛だけでは
 ロシアと対抗できない。
  朝鮮問題を解決して、日本が積極的に沿海州方面に進
 出し、「北地」を防衛するのが上策であり、
  さらに、英魯対立を念頭において、英と連携してロシ
 アに当たれば「魯国恐るに足らず」という。
  朝鮮と事を構えるよりは、ロシアを警戒すべしという
 のが当時の西郷の考え。
1874年2月25日(1月9日)司法省・警保寮を、内務省に移
 管した。
  1等寮となり官員4000が転属。
  14日、内務卿・大久保利通が、幹部に訓示。
  「警保寮奏任官一同」の訴えにより、前年12月23日に
 臨時裁判所が無罪とした槇村正直(まきむらまさなお、
 官僚、政治家、小野組転籍事件を起こした)を、
  同31日に、参座を解散させた上で槇村を逆転有罪にし、
 長州派・木戸らに煮え湯を飲ませた蔭に、大久保がいる
 事は知れ渡っていた。
  警保寮とは:明治5年8月、司法卿・江藤新平が、軍事
 と警察を分離することにして、約4000人の東京府邏卒を、
 司法省管轄下に入れ、政府警察として機能させたもの。
  近衛兵(約5千500人)に括坑する勢力で、これを背景
 に、司法省は、軍部の綱紀粛正、藩閥の腐敗摘発ができ
 た。
1874年2月26日(1月10日)参議司法卿・大木喬任(元佐
 賀藩士、江藤の2歳上)が、江藤新平を呼出し、佐賀への
 帰郷を止めるよう勧告した。
1874年2月26日(1月10日)閣議が、開拓中判官・榎本武
 揚を海軍中将とし、特命全権大使で、ロシア派遣を決定
 した。
1874年2月(1月)内務省に勧業寮を設置し、殖産興業を推
  進した。
  それまでの勧業課の業務は、内務省所管となり、内務
 省勧業寮(一等寮)として復活する。
  勧業寮には、農務・工務・商務・編纂の4課を置いた。
  「国家富強の根本を奨励し、不急の費を省くべき意見
 書」、
  日本は、今まで、農業に力を入れて来たので、農業に
 は地力を尽くさしめる事に務め、
  工業をして精巧を極めさせ、
  商業で財貨の流通を促進させなければならない。
  希少資源を有効に活用して無駄を省き、
  政府の誘導奨励により、物産を増殖する事の急務があ
 る。
  養蚕農業、山林畜産が重要である。
1874年3月1日(1月13日)江藤新平が、新橋発、横浜港よ
 り佐賀に戻る。後藤は横浜まで見送る。
  3月3日(1月15日)、神戸に寄港。
  前日の1月14日に、岩倉襲撃が起きたことを知る。
  同船に乗り合わせた林有造(はやしゆうぞう、武士、
 政治家、自由民権運動家)は、誤解を避けるため神戸で
 下船した。
  林有造は、元土佐藩士で、前外務省6等出仕、愛国公党
 に参加した。岩村通俊の弟・高俊の兄。
  副島の指示により、西郷から民撰議院設立建白書への
 賛意を得る為に、鹿児島に行く途上であった。
1874年3月2日(1月14日)岩倉具視が、凶漢に襲われ負傷。
  喰違門事變(右大臣:岩倉具視襲撃事件)
  岩倉具視襲撃は・・、
  東京・赤坂の仮皇居(現=迎賓館)から表霞が関の自
 宅まで、馬車で帰ろうとした右大臣・岩倉具視が、
  喰違見附で、旧土佐藩士の一党に襲われ、軽症を負っ
 たが、濠に滑り落ちたため、刺客に発見されず、危地を
 脱した。
  喰違の変(くいちがいのへん):午後8時、武市熊吉
 (高知県士族、前近衛局陸軍少佐)ら土佐征韓派士族・
 元近衛将校下士官らが、右大臣・岩倉具視を襲撃。
  1874年3月5日(1月17日)に、東京警視庁が、首謀者・
 武市熊吉を逮捕した。
  共犯者(元土佐藩士、陸軍少尉・曹長など)8人も逮捕。
 翌・3月6日(1月18日)より司法省臨時裁判所で裁判。
  1874年8月20日(7月9日)に、9名すべて斬罪。
1874年3月4日(1月16日)高島炭坑が官営(工部省所管)
 化した。
  19世紀後半以降、欧米列強のアジア進出による浸食の
 中で、
  日本は、早期に富国強兵し、独立を確保するために、
 その道を、資本主義の確立に求めた。
  明治政府が、国家主導の「上から」の資本主義化を図
 るために進めた殖産興業政策。
  それは、旧幕府や諸藩が進めた洋式工場や鉱山を接収
 し、官営事業とすることから着手された。
  1870年(明治3年)に、発足した工部省は、初期の官
 営事業を統括した。
  そして、「御雇外国人」を招聘(しょうへい)し、多
 くの日本の技術者の指導・育成に当たらせた。
  特に、幕末にフランスの支援で、創設された横須賀造
 船所は、当時、国内最大の総合工場だった。
  そして、機械製作や技術者養成の面で、他産業の発達
 にも貢献した。
  これらの官営工場において、日本人の職工・工女らに
 よる技術の習得が図られた。
  そして、技術習得をした彼らの流動によって、民間へ
 の技術移転が図られた。
  また、官営事業自体の払下げによって、日本における
 産業資本主義の発展の基礎がなされた。
1874年3月7日(1月19日)オランダ人医師・ボードウィン
 に償却金40万ドルを支払う。
  1869年2月(明治2年1月)大阪に、ボードウィンが、
 上海から着任した。
  1869年11月30日(明治2年10月27日)ボードイン執
 刀で、大村益次郎の右大腿部切断手術が行われた。
  しかし、益次郎は、1869年12月7日(11月5日)没。
  1870年3月(明治3年2月)軍事病院・陸軍軍医学校
 正式発足 ボードインは雇用契約を延長して、診察と軍
 医教育を行う。
  1870年3月(明治3年2月)ボードインの設計による大
 阪軍事病院が大阪城内に出来た(ボードウィンが帰国延
 期)。
  1870年7月(明治3年6月)大坂軍事病院を辞し、帰国
 のため、横浜に滞在。
  その後、7月頃〜10月頃まで、大学東校(現:東京大学
 医学部)で、講義を行い、帰国。 
  1870年12月7日(明治3年閏10月15日)是より先「十
 月」前大坂軍事病院附蘭医ボードウイン、大学東校に雇
 庸さる。是日、満期帰国せんとするを以て、 之に謁を賜
 ひ、勅して其功績を褒ず。尋で「二十八日」金三千両を
 賜ひ、功碑に代へ、賞典文を授く。
1874年3月5日(1月17日)「民選議員設立建白書」を提出
 した。
  板垣・江藤・副島・後藤・由利公正(前東京府知事)・
 岡本健三郎(前大蔵大丞、海援隊士)・古沢滋・小室信
 夫らが、民撰議院設立建白書を、左院に提出した。
  1874年2月28日(明治7年1月12日)に古沢滋(27歳、
 旧土佐藩士)が起草し、副島が筆をいれて完成した。
  1874年3月6日(明治7年1月18日)付の「日新新事誌」
 に掲載され、全国的に反響を呼び、民選議院論争が起こ
 った。
  「・・政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、
 下人民に在らず、しかも独り有司に帰す」。
  民選議院を設立して、「天下の公議」を政治に反映さ
 せ、有司専制を制限した。
  岩倉太政大臣代理の「違法かつ専断越権な行為」によ
 って、適法かつ正当な手続きによってなされた閣議決定
 が、一方的に覆され、
  それが、既成事実となって罷り通っている現実に対す
 る、下野した参議の痛切な批判が込められていた。
  有司専制批判・租税共議権主張・微温的立憲制の要求
 を盛ったこの建白書は、
  民選議院論争で国政参加権を、さしあたり「維新の功
 臣」を出した「士族および豪家の農商」に限定し、本質
 的には政府部内反対派の要求であった。
  しかし、この行動は、愛国公党の組織的行為であり、
 「日新真事誌」への掲載により、広くアピールしたとい
 う点で従来のものとは異なり、
  当事者の主観的意図を越えて、国民に迎えられ、民主
 主義を求める国民的運動が形成される政治的契機になっ
 た。
  「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上(カミ)
 帝室に在らず、下(シモ)人民に在らず、而独有司(而も
 独り官吏)に帰す。
  夫(ソレ)有司、上帝室を尊ぶと曰(イ)はざるには非ず。
  而(シカモ)帝室漸く其尊栄を失ふ。
  下人民を保つと云はざるには非ず。
  而政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出
 ず、言路壅弊(ヨウヘイ)困苦告るなし。
  夫如是にして天下の治安ならん事を欲す、三尺の童子
 も猶其不可なるを知る。
  因循改めずば、恐くは国家土崩の勢を致さん。
  臣等愛国の情自ら已む能はず。
  即ち、之を賑救(シンキフ)するの道を講求するに、唯天
 下の公議を張るに在る而已(ノミ)。
  天下の公議を張るは、民撰議院を立るに在る而已。
  則有司の権限る所あって、而して上下其安全幸福を受
 くる者あらん。
  請遂に之を陳ぜん。
  夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃
 (スナワチ)其政府の事を与知可否(ヨチカヒ)するの権利を有
 す。
  是れ天下の通論にして復喋々臣等の之を贅言するを待
 たざる者なり。
  故に、臣等窃に願ふ、有司亦是大理に抵抗せざらん事
 を。
  今、民撰議院を立るの議を拒む者日く、我民不学無知
 未だ開明の域に進まず。
  故に、今日、民撰議院を立る尚応に早かる可しと。
  臣等以為らく、若し果して真に其謂ふ所の如き歟、則
 之をして学且智、而急に開明の域に進ましむるの道、即
 民撰議院を立るに在り。
  何となれば、則ち、今日我人民をして学且智に開明
 域に進ましめんとす、先ず其通義権理を保護せしめ、之
 をして自重自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さし
 めんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り」
 (「日新真事誌」18日付)
  ブラックが主宰する「日新真事誌」が、建白書全文を
 スクープ。
  ブラックは、英字新聞「ジャパン・ヘラルド」「ジャ
 パン・ガゼット」の主筆兼経営者として、客観的報道の
 意義と影響力を理解している。
  建白書は、事前に板垣から参議・木戸に渡されること
 になっていたが、木戸への使者である自由民権運動家(
 愛国公党員、小室信介の養父)小室信夫が、「日新真事
 誌」に建白書を持ち込み、全文を公表する。
  木戸は、すこぶる感情を害したと云われる。
  「日新真事誌」は、民撰議院開設賛否両論に公平に紙
 面を提供、キャンペーンを展開し、国会開設の世論が、
 全国各地に湧き起った。  
  前年12月、この草案が出来ると、板垣・後藤等は、土
 佐人の林有造を使者として、佐賀の江藤新平と鹿児島の
 西郷隆盛に、これを送り賛成の署名を求める。
  江藤は、賛成して署名するが、西郷は反対して「御建
 白の趣は、至極当然の儀と存候、然れども天下の事は独
 り議論のみにては行はるべからざるものと存候へば、
  僕等は、先づ腕力を用ゐて然る後此事成るべしと存候」
 という返書を寄こす。  
  「建白書」及び愛国公党の意義:
  ①、日本近代化に関する体系的理念、構想、ノウハウ
   を独占していた政府に対抗できる国政理念を提示。
    これまで政府の攻勢に追われ受動的抵抗をするだ
   けであった反政府派に権威と理論が付与され、運動
   の全国的結集の核が生まれる。
  ②、政治組織(「党」)の考え方を生み出す。
    のちの運動の中で定着してゆく。
  ③、「天賦人権論」を公然と主張。  
  政府(大久保の独裁)の対応:
  翌1875年5月(明治8年4月)、漸次に立憲制を施くべ
 しとの詔(ミコトノリ)を出し、木戸・板垣らを入閣させる。
  同1875年6月、民選議院に代わる地方官会議を開いて
 不平士族や豪農を宥(なだ)める。
  政府の約束は、讒謗律、新聞紙条例などの言論弾圧
 また、江藤らの相次ぐ士族反乱で棚上げにする。
 (注)讒謗律(ざんぼうりつ、明治8年6月28太政官布告
   第110号)とは、明治初期の日本における、名誉毀
   損に対する処罰を定めた太政官布告
   主な内容:著作物を通じての名誉毀損に対する処罰 。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive