(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月〜1873年12月)

題:*(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月〜1873年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年11月2日(明治6年9月13日)特命全権大使・岩倉
 具視の一行が、欧州より帰朝する(翌日参内復命)
  岩倉具視を全権大使とする使節団が、全12か国をまわ
 り帰国した(横浜に帰港)。
1873年11月2日(9月13日)ストーブの広告が出る。
  因みに、ストーブは・・、幕末以後は、石炭ストーブ
 が輸入されるようになり、
  この年・1873年(明治6年)に、東京神田の増田という
 人が、国産ストーブを発売した。
  明治30年(1897年)代に入るとガスストーブも国産
 され、
  1914年には、京都電灯が電気ストーブを製造発売した。
  石油ストーブも、明治時代から使われ、国内でも生産
 されたが、ぜいたく品だった。
1873年11月4日(9月15日)新橋〜横浜間の鉄道に、初め
 て、貨車が運転開始された(従来は客車のみであった)
1873年11月4日(9月15日)、三条実美岩倉具視が、大
 久保参議の起用を協議する。
  さかのぼること5ヶ月前、1873年6月20日明治6年5
 月26日)に、特命全権副使・大久保利通は帰国していた
 が、大久保は、岩倉使節団の外交上の失敗の責任を痛感
 していた。
  また、中途で早めに帰国させられたが、既に、国内の
 改革はすんでしまっていて、何もすることがないと感じ
 ていた。
  大きな外国の壁に悩んいた大久保は、この時、朝鮮問
 題にも無関心の様子で、政務に復帰していなかった。
  使節団は、対米条約改正交渉に乗り出し、努力してい
 たが失敗し、また、度重なる誤算もあった。
  当初は、10ヶ月半の予定だったが、20ヶ月半を要する
 結果となった。
  しかし、長期間とはなったが成果は目に見えず、使節
 団の威信は大いに低下した。
  世間には、下記の様な歌が流行った・・、
  「条約は結び損ない、金は捨て、世間へ大使(対し)
 なんと岩倉」
  そして、木戸孝允(きどたかよし)が、大久保に遅れ
 て約3ヶ月後の1873年9月14日(明治6年7月23日)に、
 帰国した。
  木戸は、帰国早々、同じ長州閥井上馨槇村正直
 の不始末(尾去沢銅山事件、小野組転籍事件)の処理に
 奔走し、また奔走せざるを得なかった。
  木戸は、朝鮮問題に相当の関心を寄せ、征台征韓の正
 当性を原則的に認めた。
  しかしながら、木戸は、財政上の見地から征台征韓を、
 「時期尚早だ」として反対した。
  しかし、外遊中の複雑な事情もあって、消極的となり、
 三条実美に参議辞任を申し出た。
  三条実美は、岩倉の帰国まで待つようにと慰留した。
  そして、岩倉具視伊藤博文らの使節団が、1873年11
 月2日(明治6年9月13日)に帰国する・・、
  三条と岩倉の直近の最重要課題は、体制を立て直す「
 体制固め」だった。
  その意味もあって、大久保と木戸を政府に参加させ、
 復帰させることだった。
  しかし、大久保は消極的だった。
  そして、木戸の方の関心は、不始末をした子分の救済
 (小野組転籍事件)にあった。
  そして、木戸の関心のもう一つが、不正を容赦しない
 裁判所・司法省をつくった江藤に対処することだった。
  西郷は、既に、1873年10月8日(8月17日)に、朝鮮
 への派遣使節に内定していたが、
  岩倉の帰国後は、三条および岩倉とも、大久保参議の
 起用問題を目下の処理事項とし、西郷の朝鮮派遣問題は
 取り上げられず、閣議も開かれなかった。
  決定のない状況に、西郷は強く抗議し、三条らを慌て
 させた。
  因みに、小野組転籍事件とは、1870年(明治3年)、
 小野屋が、本社機能を京都から江戸へ移そうとしたとこ
 ろ、長州藩出身で京都府権大参事の槇村正直によって為
 替業務に制限がかけられ、これによって小野屋の業務は
 支障をきたした・・、
1873年11月19日(9月30日)オランダに公使館が開設さ
 れた。
  因みに、ベルギーの事であるが・・、
  日本とベルギーとの国交は、1866年の修好通商航海条
 約の締結によって始まり、
  ベルギーは、1870年に、東京に公使館を設置した。
  また、日本は、この年の1873年に、ブリュッセル
 公使館を開設した。
  第1次大戦後の1921年に、大使館に昇格した。
1873年11月28日(10月9日)東京の開成学校(東京大学
 の前身)の開校式場に、明治天皇陛下が臨御(りんぎょ)
 し給う。
  江戸時代の蕃書調所から、変遷を経て、1868年に、新
 政府に接収されて・・改称し、
  1873年に、専門学校として開成学校が官立学校として
 設置された。
  1877年に、東京大学の一部となる。
1873年11月(9月)横浜グランドホテルが開業した。 
  本格的なホテルとして、横浜の居留地二十番にオープ
 ンした。
  グランドホテルは、横浜だけでなく、日本を代表する
 ホテルとなって行く。
  食事や各施設の充実ぶりに、各国の要人なども賛辞の
 声をあげた。
  食事をかなり詳しく記録した外国人宿泊者が、「パリ
 のグランドホテルにいるようだ」と記した。
  しかし、西洋の石造りのホテルに慣れている外国人宿
 泊者は、木造で石造り風に施工したホテルには慣れなか
 った様だ。
  石だと思った壁が石の板で穴が開いていた・・と感想
 を述べている。
  現在、写真が残っているが、かなりしっかりした良い
 建物を、デザイン良く設計し建てていたと、明治の方々
 を褒めて差し上げたい。
1873年11月(9月)横浜でガス灯が点火した。 
  横浜の外人居留地では、既に、1871年に点灯していた。
  これは、日本の初めての点灯と言われている(1872年
 説あり)。
  1872年に、横浜の馬車道本通り〜大江橋間が点灯し、
  1874年には、銀座煉瓦街の街路灯が、点灯夫によって
 点灯され、街を照らし人々を驚かせた。
1873年11月(9月)飛脚業の禁止(1873年5月説あり)。
  飛脚問屋による信書の逓送が禁止され、信書逓送は、
 政府事業となった。
  1872年4月に、陸運元会社が創立され、
  1872年8月に、各駅の伝馬所と助郷制は全廃され、
  宿駅の問屋は、陸運会社として、陸運元会社のもとに
 組織化された。
  そして、官営郵便事業の輸送業務は、陸運元会社へ一
 本化された。
  1873年3月に、陸運元会社は、金子入書状の取扱いも
 委任され、
  1873年6月には、再度組織改編を行なって、新たに同
 業者と同盟をむすび、全国各地に3480余の出張所や取次
 所を設け、公用私用の貨物輸送業務を行なう様になった。
  前島密の関心は、もっぱら郵便事業に向けられ、
  1873年5月には、飛脚問屋による信書の逓送が禁止さ
 れ、信書逓送は政府事業となった。
  逓送業務は、郵便取扱人をふくむ駅逓寮職員に限定さ
 れ、
  違反者には、郵便犯罪罰則により200円以内の罰金が
 課された。
  したがって、この1871年4月の郵便の開始から、1873
 年5月の民間業者による信書逓送の禁止までの2年余の期
 間は、飛脚便と郵便との競争・併存の時代であった。
1873年12月3日(10月14日)祝祭日を官庁の休日となす制
 度が定められ、太政官より布告された。
  祝祭日制定される(神武紀元祝日を2月11日に変更)
1873年12月3日(10月14日)岩倉具視が、西郷隆盛らと
 征韓論で意見が衝突(旧暦10月22日説あり)。
  清国と朝鮮との関係の様な「公平な国交」を、日本も
 朝鮮半島李朝との間で開きたいとしていた。
  清国の従属国化しているため、日本を重要視しない(
 重要視できない)李朝政府は、日本との交渉をいたずら
 に長引かせ、侮辱もした。
  日本国内に征韓論も生まれた。
  その征韓論の中で、西郷の征韓論は、征韓論と言うよ
 り、不誠実な態度、侮辱的な態度に終始する朝鮮・李朝
 に対し、西郷が自ら交渉に赴くという「遣韓使節論」で
 あって、
  その赴くにおいて、不誠実な侮辱的な態度が相変わら
 ず続く様であったなら、征韓も持さないという征韓論
 あった・・、
  故に、西郷は、「派兵反対論」であった。
  この年・1873年明治6年)になってからは、朝鮮の
 排日の風は、ますます強まっていた。
  1873年5月〜6月(明治6年4月〜5月)には、釜山にお
 いて官憲の先導によるボイコット(組織的、集団的に日
 本人を排斥したり、取引拒絶などをする)も行なわれて
 いた。
  また、政権を握った大院君(だいいんくん、李氏朝鮮
 において王位を直系継承された王)は・・、
  「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にし
 て日本人に交わるものは死刑に処せん」という過激な布
 告を出した。
  1873年7月(明治6年6月)、日本に帰国した在朝鮮の
 外交官が、帰国報告し、この様な状況が閣議で、改めて
 対朝鮮外交問題として取り上げられた。
  その様なところへ、1873年11月2日(明治6年9月13日)
 に、岩倉具視が帰国した。
  帰国した岩倉使節団岩倉具視木戸孝允・大久保利
 通らは、時期尚早だとして、反対した。
  1873年12月(明治6年10月)に、収拾に窮した太政大
 臣・三条実美は病に倒れた。
  最終的には、太政大臣代理となった岩倉の意見が、明
 治天皇陛下に容れられ、遣韓中止が決定された。
  その結果、西郷や板垣らの征韓派は、一斉に下野した
 (征韓論政変、または、明治六年政変)。
  別史料には・・、
  大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず、西郷
 が、朝鮮に行った場合必ず殺される。
  (殺されずとも、大院君が使節を拒否した場合は、開
 戦の大義名分になってしまう)、
  そうなった場合、結果的に朝鮮と開戦してしまうので
 はないかという危機感、
  当時の日本には、朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係
 が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの
 国力が備わっていないという戦略的判断と、
  外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染
 めようとしている残留組に対する感情的反発、
  そしてまた、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外
 交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球
 帰属問題(台湾出兵)、ロシアとの樺太、千島列島の領
 有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等
 条約改正)などがあった。
  それらの理由から強い反対意見が出た。
  費用の問題なども絡め、征韓の不利を説き、延期を訴
 えた。
  1873年12月3日〜4日(10月14日〜15日)に開かれた
 閣議には、太政大臣三条実美、右大臣・岩倉具視
  以下参議の・・西郷隆盛板垣退助江藤新平、後藤
 象二郎、副島種臣大久保利通大隈重信大木喬任
 出席した。
  この際、大隈・大木が、反対派に回り、採決は同数に
 なった。
  しかし、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞
 任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府
 ら抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した
 議長の三条実美が、即時派遣を決定した。
  これに対し大久保、木戸、大隈、大木は、辞表を提出、
 岩倉も辞意を伝えた。
1873年12月(明治6年10月)征韓論は破れた。
  征韓論分裂、西郷、板倉、江藤ら辞職(氷川清話)
   1873年明治6年)には早くも征韓論の対立で、政治
勢力は大きく分裂した(氷川清話)
  征韓論に敗れ、西郷隆盛板垣退助らが下野した。
  江藤新平も、1873年に参議になったが、征韓論を唱え
 ていられず辞職した。
  大久保が、西郷(かつての盟友)を追放。
  破壊の時代にときめいていた者(西郷)は、必ずしも
 新時代建設にも適任とはならない、新時代プランナーと
 しての精彩は欠いた。
  しかし、その令名は却って輝きが増した。
  価値観の混乱から、新政府に不満を持った者が、巷に
 溢れ、彼らは西郷を慕った。
  大久保は、西郷の存在に危機感を感じ、征韓論を政争
の問題とし、かつての盟友を追放した。
  そして、西郷隆盛(45歳)は、征韓論を主唱し敗れ、
辞職した。
  帰郷して私学校を開き、そこに不平士族が集まった。
  また、別史料に・・下記がある、
  ・1873年12月11日(10月22日)西郷隆盛板垣退助
    副島種臣桐野利秋ら、岩倉具視邸にて征韓論
    正面衝突。
  ・1873年12月12日(10月23日)岩倉具視参内して、三
    条実美、西郷隆盛らの「征韓論」を奏陳し意見書
    を上げる。
  ・1873年12月13日(10月24日)明治天皇陛下、征韓論
    を退ける(西郷隆盛、参議・近衛都督を辞職)
  ・1873年12月14日(10月25日)征韓論敗れ、副島種臣
    板垣退助江藤新平ら参議を辞職(後を追って辞
    職するもの100余名に及ぶ)
  ・1873年12月17日(10月28日)西郷隆盛、官を辞し鹿
    児島帰郷
1873年12月8日(10月19日)新聞紙発行規則が定められ
 る。
  新聞紙条目を公布(発行許可制、国体誹謗・政法批評
 禁止)など規定。
  讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、急進的な反政府
 の言論活動を取り締まった。
  征韓論をめぐって、西郷隆盛らが下野すると、世論鎮
 圧のため新聞紙発行条目を公布した。
  「人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者」(12条)、
  「政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆(てんぷく)スルノ論ヲ載セ
 騒乱ヲ煽起(せんき)セントスル者」(13条)、
  「成法ヲ誹毀(ひき)シ国民法ニ遵(したが)フノ義ヲ乱
 (みだ)リ及顕(およびあら)ハニ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ
 曲庇(きょくひ)スルノ論ヲ為(な)ス者」(14条)
  この令には、初めて厳しい刑罰規定が設けられた。
  征韓論で乱れた国内の状況に応じた令だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive