(増補版)312E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年5月〜1873年5月)

題:*(増補版)312E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年5月〜1873年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1873年5月5日(明治6年4月9日)皇后陛下向島の桜を観給
 う。
1873年5月6日(4月10日)官吏が、公務・外交を妨げる内容
 を新聞に掲載することを禁止する。
1873年5月7日(明治6年4月11日)岩倉使節団が、衰えたヨ
 ーロッパの街並みを見る。
  それは、宗教と領土欲と我欲による、うち続く戦争の
 結果だった。
  5月7日の夜に、岩倉具視の遣欧使節団が、ミュンヘン
 を発って、インスブルックを経て、
  5月9日の早朝フィレンツエに到着した。
  イタリアでは、フィレンツエを 皮切りに、ローマ、ナ
 ポリ、ベネチア(ベニス)を歴訪した。
  イタリアは、中世以降、権力の分裂状態が長く続き、
  フランス革命以降、数度の独立運動が繰り返されたが、
 イタリア半島が、一つの国家になったのは1861年であっ
 た。
  成立当初、ローマ教皇支配下のローマやオーストリ
 ア帝国の支配下ベネチア は含まれていなかった。
  その後、1866年、普墺戦争に勝利し、ベネチアを獲得
 し、
  また、1871年普仏戦争で、ローマを併合して、
  首都として遷都を行い、今日のイタリアの形となっ た。
  使節団は、統一直後のそのイタリアを見た。
  しかし、長い間の政治的分裂のもとで、人々は疲弊し、
 希望を失い、怠惰で文明発展に対する国民の意欲は失わ
 れていた。
  街のいたるところにある古跡をみると、昔のイタリア
 が、いかに盛んだったかが分かるが、
  対照的に、現状は、すっかり衰えていた。
  その様な姿を、日本からの使節団は見た。
  そして、使節団は、1873年11月2日(明治6年9月13日)
 横浜港に帰って来る。
1873年5月14日(4月18日)全国電線付近にて凧を飛ばすを
 禁ずると工部省発令(凧のため電線被害が多し)
1873年5月21日、在釜山・広津弘信七等出仕より朝鮮情勢に
 ついて通信あり(閣議で審議)。
  朝鮮の李朝成立後、484年が過ぎた1876年2月に、日本
 と朝鮮の間でやっと結ばれた「日朝修好条規」、この打
 ち合わせのために広津弘信は派遣されていた。
  明治三年九月(1870年10月)に、日本政府は、外務出
 仕・吉岡弘毅を使節とし、森山茂、広津弘信を随行員と
 して朝鮮に派遣することを決定した。
  それより前に、外務権大丞・柳原前光が、対韓政策の
 意見書を提出していた。
  柳原は、他国が朝鮮を虎視眈々と窺っていることにつ
 いて注意を促した。
  「アメリカ、イギリス、ロシア、フランスが、かの地
 を狙っていることは明白である。
  特に、ロシアは、ヨーロッパの動乱(プロシャとフラ
 ンスの交戦)に乗じて、必ずアジアに進出してくるだろ
 う。
  アメリカもまた、兵力をもって朝鮮に報復するとの説
 がある。
  日本もぐずぐずしている場合であろうか」・・と。
  同じ頃、柳原は、清国を訪れて、条約の予備交渉を行
 っていた。
  清国が、朝鮮の宗主国だったことから、日本も対等の
 条約を結んで、朝鮮に対して清国と同格の立場で国交を
 開きたいとした。
  吉岡らは、同年十一月三日(1870年12月24日)に、釜
 山の倭館「草梁館」に到着した。
  しかし、日本からの使節団は、一歩もそこから出られ
 なかった。
  また、朝鮮の情勢を偵察することもできなかった。
  使節は、外務卿・沢宣嘉から託された書状を渡して
 交渉しようとしたが、朝鮮側はこれを拒否した。
  あくまでも旧例どおり、宗氏を介しての交渉にしなさ
 いと固執した。
  困り果てた使節団の三人は、相談のうえ、だれか一人
 が対馬の厳原(いずはら)に帰り、宗氏を説得して、渡
 韓させようということになった。
  結局、広津がその任をひき受け、明治四年二月初め(
 1871年3月)に、釜山を発して、十五日(1871年4月4日)
 に、厳原に着くと、宗重正に面会して、渡韓のことを承
 諾させた。
  だが、宗氏は、経済的な理由から中央政府の命による
 渡韓を望んだ。
  やむなく、広津は、これを了承し、上京することにな
 った。
  この間、アメリカ軍艦の朝鮮進攻の情報が入った。
  そのため、広津は、沢外務卿の要請で、いったん釜山
 に戻った。
  そして、再度、帰国するなどして、時間をとられ、宗
 氏とともに上京したときには、七月も半ば(1871年8月)
 を過ぎていた。
  ところが、直前に廃藩置県の令が出され、
  宗氏は、藩知事を免ぜられ、
  沢公も外務卿を免ぜられたので、
  広津のこれまでの尽力が無駄になってしまった。
  だが、広津は諦めず、その後も、宗氏を外務大丞にし
 て渡韓させるように、岩倉外務卿に建言した。
  その結果、宗氏は、外務大丞に任ぜられたが、対馬藩
 の負債の問題が持ち上がった。
  そのために、宗氏の渡韓は、ついに実現せず、明治四
 年(1871年)は、なんら事態が進展することなく過ぎて
 いった。
  明治五年一月(1872年2月)、対馬出身の相良正樹を代
 表とする新たな使節団が釜山に入った。
  外務大丞・宗重正の書簡と来意の口述書を、朝鮮官吏・
 訓導の代理人に渡したのは、三月(1872年4月)で、
  訓導に面会できたのは、ようやく五月(1872年6月)に
 入ってからだった。
  広津らの渡韓以来、一年半を超える月日が経過してい
 た。
  だが、訓導は、この件については十分に討議したうえ
 で回答すると言うにとどめた。
  日本側が、「どれくらい時間がかかるのか」と聞くと、
 「幾年月になるかは言えない」という答えが返ってきた。
  訓導の口上はあいまいで、いたずらに回答を引き延ば
 しているとしか思えず、
  使節一行はむなしく日本に立ち戻ってきた。
  九月(1872年10月)には、花房義質外務大丞が、渡韓
 したが、国交問題については、まったく進展がみられな
 かった。
  花房の任務は、副島外務卿の処分案を実行することだ
 った。
  すなわち、倭館は、日本の出先機関としてそのまま残
 すが、
  1、在留の士官雑人らを帰国させること。(商人は随
   意とする)
  2、朝鮮に対する対馬藩の負債を清算すること。
  3、対馬に滞留する朝鮮の漂流民を送り返すこと。
  だが、朝鮮側は、倭館対馬藩から新政府の管理下に
 おかれたことを問題視し、
  負債の清算も新政府の支出によることを理由に認めな
 かった。
  どこまでも旧来の形式にこだわり、新政府との外交関
 係の樹立も拒否した。
  その後、倭館では、日用品や肉、魚などの食料品も入
 手できなくなった。
  そして、対馬の商人以外の日本人が、倭館に出入りし
 ていることが発覚すると、
  館門に、過去三百年の慣例を破る行為がなされた。
  日本側の違法行為を非難する掲示文が掲げられた。
  (現在の、日本大使館前の慰安婦像設置の行為の様な
 こと。
  昔から日本は、この様な事をされて来た)。
  そこには、「その形を変じ、俗を易(か)ゆ、これ即
 ち日本の人と謂うべからず。
  わが境に來往するを許すべからず」とあるのは、
  西洋風に断髪し、洋服を着た日本人に対する嫌悪の情
 を表していた。
  また、
  「近ごろ彼人の所為を見るに、無法の国と謂うべし。
 而して亦、これをもって恥と為さず」とも書かれてあっ
 た。
  これは倭館に出入りする朝鮮人に対する訓令書だった
 が、在館の日本人は、明らかに日本人に対する侮辱であ
 ると受けとめた。
  明治元年末(1868年)〜六年五月(1873年6月)に
 至るまで、朝鮮に対する日本の国交回復の長い働きかけ
 はついに報われなかった。
  そしてまた、倭館は、兵糧攻めにあい、いまや荷物を
 まとめて釜山から日本に引き揚げる他はなくなってしま
 った。
  日本が、これほど時間をかけたのは、内政、その他の
 諸事があり、朝鮮問題に本格的に取り組む余裕がなかっ
 たこともあったが、
  それによって、朝鮮が、日本をくみし易しとみて、侮
 (あなど)ることになったところもあった。
  対馬藩が、経済的に朝鮮に依存してきたことにも問題
 であった。
  日本は、意見が沸騰した。
  朝鮮出兵の声が、征韓論者の間で声高に言われるよう
 になった。
  在韓日本人を全員を引き揚げて、国交を断絶するか、
 武力をもってこれを討伐するか、二者択一しかないと、
 外務省の官吏は報告した。
  明治六年六月十二日(1873年7月6日)、閣議が招集さ
 れ、朝鮮問題が切迫した議案として討議されることにな
 った。
  出席者は、三条、西郷、板垣、大隈のほか、四月(
 1873年5月)に新参議になった後藤、大木、江藤の七名
 であった。
  三条実美が、これまでの経緯を説明した。
  朝鮮へ、なん度使節を送っても、まともに応接されな
 かった。
  使節は、二十回にわたって訓導に書簡の斡旋を頼んだ
 が、彼は拒み続けた。
  ようやく腰を上げて漢城(ソウル)に赴き、帰って来
 ると、「日本側の要求は、国内の衆議を尽くしてからで
 ないと返答できない」と言われた。
  「では、その決定にどれくらい時間がかかるのか」と
 聞くと、「六、七年ないし十年はかかる」と放言しては
 ばからなかった・・と。
  そして、倭館の門に、日本人に対する侮辱の言葉を連
 ねた掲示文を掲げられた、等など。
  三条は、朝鮮居留の日本人保護のため、軍艦数隻と陸
 海軍の小部隊を派遣することを閣議に提案した。
  板垣が、直ちに、これに賛成したが、西郷は反対した。
  まずは、公然と使節(全権使節)を派遣して、平和的
 に談判するべきである。
  使者に危害を加えたときに、はじめて、出兵して討伐
 すればよい・・と。
  その使者には自分がなると、西郷は申し出た。
  だが当時、副島外務卿が台湾(琉球民殺害事件)・朝
 鮮問題などの交渉で、清国に派遣されており、副島の帰
 朝を待って決定を下すことになった。
  (副島は、日清修好条規の批准書を交換して、七月二
 十六日(1873年9月17日)に帰国した)。
  木戸孝允が、七月二十三日(1873年9月14日)に帰国
 するまで、国内の征韓論はこのように沸騰していた。
  木戸は、早い時期から朝鮮問題の重要性に気づいてい
 た。
  木戸は、対馬藩の跡目をめぐる紛争を調停し解決した
 ことがあり、
  藩士らの信頼もあつく、対馬藩の顧問のような存在に
 なっていた。
  同藩の大島友之允とは、もっとも親しい関係にあり、
 幕末から朝鮮問題について、しばしば話し合っていた。
  大島の上申書によると、
  「朝鮮は、元来、偏固の風習や、古い規則を固く守っ
 ているので、非礼傲岸の態度を示す可能性がある。
  だから、皇国としては、討伐の兵を出す覚悟をかため
 ねばならない」と。
  対馬藩は、飯米の大部分を朝鮮に依存してきた。
  財政は窮乏しており、朝鮮からの米の輸入が滞れば死
 活問題になる。
  そのために立場が弱く、朝鮮に対しては、ほとんど臣
 従の礼をとってきた。
  したがって、朝鮮も明治新政府と交渉したがらず、対
 州に米を送らなければ困って泣きついてくるだろう。
  そうすれば、朝鮮の望む条件を呑むしかないと対馬藩
 は考えるようになり、そのうえで言うことをきかそうと
 する考えだと大島は考え、
  対馬藩士として悔しい思いもしてきた。
  また、対馬藩(宗氏)と長州藩(毛利氏)は、縁戚関
 係にあり、朝鮮との距離も近い。
  木戸が、維新当初から朝鮮問題を重大視してきたのは、
 こうした背景を無視しては語れなかった。
  当時の木戸の日記には・・、
  「朝鮮へ使いを出す。
  余の建言する所にして、実に戊辰一新の春也。
  当時、朝廷の規模、一定の上は、遠く西洋の各国とも
 好親の約あり。
  各国の公使等も親しく天顔を拝するに至る。
  然るときは、旧好の国と交を親しくするは言を待たず
 なり。
  況や朝鮮如きは近隣の国にして、且旧好の国なり。
  故に別に一介の使節を遣わし、一新の旨趣を告げ、互
 いに将来往来せんことを望む」と。
  後には、使節を朝鮮に遣わし、その無礼を問い、不服
 のときには征伐するしかないと、木戸も征韓を否定して
 はいない。
  朝鮮の頑迷さに対する失望もあったのだろうが、基本
 的には、上記を理想としており、そのためにこそ、木戸
 は、自ら使節になることを切に望み、
  明治二年末(1869年)には、支那朝鮮使節に任命され
 た。
  その頃、佐田と森山は、木戸邸を訪れて木戸と会談し
 ている。
  佐田の懐旧談に曰く、
  「木戸が作ったという朝鮮論の二枚半ばかりの文章を
 読んでみたが、主意は、征伐はせねばならぬけれども、
 我が兵備を充分整頓してから征伐すると云う論であった。
  (中略)要するに、諸君と同論ではあるけれども、ただ
 今、これを急に伐つというのではない。
  諸君の考えとは緩急の差がある」と。
  また、森山は言う、
  「征韓論の主唱者は、実に木戸孝允なりしなり。
  (中略)然るに一朝大村(益次郎)の斃るるや、木戸
 はにわかにその持論を放擲し、これを包むに船越(船越
 衛)を以て大村の後に擬せるあり。
  予は、実に木戸よりこれを聞て、木戸の真に持論を放
 擲せるを看守したりしが、予の見は果して違わざりき」
 (西南記伝)
  武力は準備しなければならないが、いま直ちにこれを
 用いるためではない、という木戸の意見に、両者は木戸
 の対韓政策は生ぬるい因循論に堕ちたと失望している。
  たしかに、朝鮮問題も含め、自分の右腕と恃んでいた
 大村の死は、木戸には、打撃だったに違いない。
  だが彼は、佐田、森山の征韓論になにか危険な匂いを
 嗅ぎ取り、彼らの論とは一線を画した。
  木戸の渡韓は実現しなかった。
  支那に異変があったために、明治三年六月(1870年7月)
 に使節の派遣が中止になってしまった。
  米欧視察から帰国後に、木戸の対韓政策がさらに大き
 く変化したのは、欧米諸国との国力の差を実感したこと
 に加えて、
  当時、他国に分割統治されていたポーランドの国情が
 少なからぬ影響を与えたからと言われている。
  被侵略国の悲惨さを眼に焼き付けながら、木戸は、憲
 法制定の意見書を書いた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive