(増補版)308E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年10月〜1872年12月)

題:(増補版)308E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年10月〜1872年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1872年10月17日(明治5年9月15日)文部省教科書編成掛を
 置き、編集に着手した。
  「学制」布達後のこの時・1872年10月17日に、文部省
 に教科書編成掛 を置いたが、同年・1872年11月、師範学
 校に編輯局(へんしゅうきょく)を設け、各教科用図書
 を編纂して行った。
  例えば、小学算術書において、1872年当時、文部省編
 成掛に山本信実がおり、師範学校の算術担当者にM.M.
 Scottがいた。
  諸葛信澄校長は、山本信実とScottと共に編纂した。
  Scottが、アメリカから取り寄せた算術書を参考にした。
  また、東京師範学校余科(予科2年制)の1873年6月、
 教科課程の数学の標準にH.N.Robinsonの算術・代数、
 B.Marks の幾何を挙げた。
  この様に、お抱え外国人とその母国の教科書を参考に
 編集は進められた。
1872年11月7日(明治5年10月7日)司法省達第22号
  マリア・ルース号事件を契機に、この年・1872年の「娼
 妓解放令」によって公娼制は廃止された。
  しかし、たちまち当人の望みにより渡世(とせい、稼
 業)する娼妓と貸座敷として復活した。
  これに対して婦人矯風会などの団体が廃娼をとなえた。
  司法省達第22号では・・、
  「娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス」
 として、過去の借金を返すよう求めることはできないと
 定めた。
1872年11月10日(10月10日)北海道居住者奨勧(かんしょ
 う、そのことをするようすすめ励ますこと)に、10年間
 の免税とす。
1872年11月23日(10月23日)日本橋釘店の林秋造が、新聞
 「新聞雑誌」に、日本初の尋ね人広告を掲載した。
  音信のない伊藤逸之助の住所、足取りを求め、当時、
 話題となった。
  「・・4〜5年前より絶て音信なく、当時何の目的の
 地に住居せるや其従跡を知る者あらば、私店へ報知あら
 ん事を希ふ」。
  この広告の目的が達したかは不明・・、
1872年12月4日(11月4日)蚕種原紙、大蔵省にて制定
  生糸は、明治から昭和にかけて日本の代表的な輸出品
 で、日本を支えた。
  これを支えたのが「養蚕原紙」だった。
  養蚕には、様々な紙製品が使われている。
  日本の養蚕は、ヨーロッパで蚕の伝染病が蔓延し、壊
 滅的打撃を受けたことと、日本の製紙技術も、和紙とし
 てお得意技術だったことから、
  日本の養蚕紙は盛んに輸出された。
  明治初期のこの頃には、輸出商談が活発となって、価
 格は急騰した。
  この時、ケシの種を貼り付けて、売り捌(さば)く悪
 徳業者も現れた。
  このため、取り締りと品質維持のためにも、この年・
 明治5年に、蚕種原紙規則が制定され、
  手漉業者を免許制とし、
  長野県上田、埼玉県深谷福島県福島に、売捌所(う
 りさばきじょ)が設立された。
  明治の中頃には、伝染病対策のために、種紙をマス目
 に区切って番号をつけ、1匹ずつ産卵させ、
  病原菌の有無を顕微鏡で調べ、品質管理した。
  明治8年には、機械による洋紙生産が始まり、
  明治中頃には、紙の原料が、ボロ布から木材へと変わ
 り、また、この頃から、蚕種原紙は手漉紙から機械抄き
 に変わった。
  (注:養蚕原紙と言っても紙を売っているのではなく、
   その紙に付いている蚕の卵を売っているのである)
1872年12月5日(11月5日)イギリスで岩倉具視らが、ビク
 トリア女王に謁見した(11月4日説あり)
1872年12月9日(11月9日)太陰暦を廃止して太陽暦を採用
 するとの布告が出された。
1872年12月10日(11月10日)西郷が、鹿児島に帰省した。
1872年12月12日(11月12日)大礼服の制定と、通常礼服が
 制定された(旧暦11月5日説あり)
  「爾今礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告373号
 が出された。
  それまでの公家風・武家風の和服礼装(裃や束帯)が
 廃止、
  軍人や警官につづき、文官の礼服にも洋式が採用され、
 政府役人に大礼服、通常礼服の着用が義務づけられた。
  この太政官布告では、男性の礼服が洋装とされのみ
  1886年明治19年)女官服にも、洋服が採用された。
1872年12月15日(11月15日)国立銀行条例の制定
  国立銀行条例を定め、銀行の設立の許可。
  維新政府は、対外対抗のために民間資本の結集を図っ
 た。
  そして、会社制度の導入を推進した。
  3年前の1869年(明治2)には、通商会社・為替会社の設立
 を指導し、1871年には、渋沢栄一著「立会略則」や福地
 源一郎著「会社弁」を大蔵省から刊行して会社知識の普
 及を図っていた。
  そして、1872年には、国立銀行条例を制定して国立銀
 行の設立を促した。
1872年12月15日(11月15日)紀元元年の制定
  神武天皇即位の年を、紀元元年と制定した。
  古事記日本書紀で、日本の初代天皇とされる神武天
 皇は、日本書紀によれば紀元前660年1月1日 (旧暦)に即
 位したとされている。
  この即位年を、神武天皇即位紀元の元年と制定した。
1872年12月19日(11月19日)各国公使に太陽暦採用を通告
 した。
1872年12月23日(11月23日)司法卿・江藤新平と、司法大
 輔・福岡孝悌の両人が、「妾廃止」の建議案を提出した。
1872年12月23日(11月23日)大相撲の女性の見物が許可さ
 れた。
1872年12月28日(11月28日)税関が始まる。
  運上所が、税関と改称され、税関が正式に発足した。
  長崎・神奈川・箱館(函館)に設けられていた「運上
 所」が「税関」と改称された。
1872年12月28日(11月28日)大阪税関の前身である運上所
 が、税関と改称された。
  1867年9月(慶応3年8月)税関前身の運上事務(税関の
 仕事)、及び、外交事務を取り扱うため、現在の西区川
 口に開設された川口運上所ができ、
  翌年の1868年9月(明治元年7月)に、大阪港の開港と
 同時に、大坂運上所と改称され、
  1872年12月(明治5年11月)に、運上所を「税関」とし
 て呼称統一された。
  そしてまた、翌年の1873年明治6年1月4日)に、大阪
 税関と改められた。
1872年12月28日(11月28日)徴兵の詔書が出された(徴兵
 告諭)(12月1日説あり)。
  徴兵令(氷川清話)
  全国徴兵の詔書と徴兵告諭(こくゆ、言い聞かせる事)。
  国民皆兵に関する詔勅下る。
  徴兵の詔が発布された。兵部省を廃し、陸軍省・海軍
 賞を置いた。近衛兵を置いた。
  軍役制・俸禄制・石高制などの制度は、1872年の地券
 公布、徴兵令、続いて石高制廃止から秩禄処分に至る一
 連の施策まで存続した。
1872年12月28日(11月28日)地方官の不法について裁判所
 への出訴を承認した。
1872年12月29日(11月29日)山城屋事件
  山城屋和助が自殺。
  この年・1872年に、陸軍省の御用商人・山城屋和助が、
 陸軍省から無担保で借り受けた公金を返済できず、自殺
 した事件。
  山城屋の借り出した公金は、総額約65万円、
  当時の国家歳入の1%という途方もない額であった。
  山城屋和助は、政府要人と同じ長州藩出身という縁故
 で兵部省御用商人となった。
  軍需品の納入などにたずさわっていた。
  まもなく、陸軍省の公金15万ドルを借用して、生糸相
 場に手を出した。
  この借金の背景には、陸軍省保管の現銀が、価格低落
 を被っていたことがあった。
  陸軍省は、資金運用を理由として公金貸し付けを行っ
 た。
  ところが、ヨーロッパでの生糸相場の暴落にあって投
 機は失敗。
  山城屋は、陸軍省から更に金を借り出し、フランスの
 商人と直接取引をしようとフランスに渡った。
  そのうちに、一人の日本人が、フランスで豪遊してい
 るという情報が、フランス駐在中弁務使・鮫島尚信や、
 イギリス駐在大弁務使・寺島宗則の耳に入り、
  日本本国の外務省・副島種臣外務卿へ連絡された。
  この頃、山縣有朋は、近衛都督として近衛兵を統括す
 る立場にあったが、
  近衛兵内部の薩摩系軍人には、長州人である山縣を近
 衛都督としていただくことを不服とする空気が強かった。
  そこに、山城屋の一件を聞いた陸軍省会計監督・種田
 政明が密かに調査を始めて、
  「一品の抵当もなしに」多額の陸軍省公金が貸し付け
 られていたことが発覚、
  桐野利秋ら薩摩系陸軍人の激しく追及するところとな
 った。
  同年7月、山縣は、陸軍中将・近衛都督を辞任すること
 になった。
  翌1872年(明治5年)、江藤新平の率いる司法省による
 本格的な調査が始まろうとした同年11月、山縣から至急
 の返済を求められた山城屋は、公金返済が不可能であっ
 たため、陸軍省内部で割腹自殺した。
  その際、関係する帳簿と長州系軍人の借金証文類も焼
 き払われたため、事件の真相は解明されることなく、陸
 軍省会計監督長船越衛の処分をもって収束する。
  一説によると、事件が大きく取り上げられた背景には、
 徴兵令を推進する山縣と、
  これに反発する桐野を代表する薩摩系を中心とした保
 守的な軍人の対立があったという。
  しかも、後者から山縣の抑制に期待をかけられていた
 西郷隆盛が、かえって山縣を評価して弟の従道とともに
 徴兵令の実施を支援したことも、山縣への嫉妬を招いて
 敵意を強めたのではないかと推測された。
  事実、西郷は、最後まで、山縣の辞任には反対してお
 り、
  辞任後、岩倉使節団の一員として洋行中の大久保利通
 に対して、山縣を擁護出来なかったことを詫びる手紙を
 送っている。
  また、司法省の権限強化を目指した江藤新平の追及も
 この事件に大きな影響を与えている。
  江藤は、薩摩系軍人が、山城屋の事務所封鎖を計画し
 ているのを知って、これを抑え、司法省が直接捜査に乗
 り出すよう指示を出している。
  山縣有朋が、明治6年3月付で、在パリの鮫島弁理公使
 に書いた書簡には、「(和助は)帰国後、商法種々手違
 之故をもって旧臘(きゅうろう、去年の12月)自刃にお
 よび相果て、自首致候手代とも即今裁判所にて取糺中(
 とりただしちゅう)にこれあり」とあって、山城屋の死
 後も司法省によって事件が追及されていたことがわかる。
12月31日(旧12月2日)、改暦により年が終わり、翌日の旧
 12月3日が1873年1月1日となった。
1872年12月(明治5年11月)東京に、新聞縦覧所(しんぶん
 じゅうらんしょ)の開設が多し。
  日本の新聞の揺籃期に全国各地に作られた新聞の読書
 施設。
  有料のもの、無料のもの、飲食物や解説などのサービ
 スが付くもの、図書や雑誌なども提供するものなど、そ
 の経営形態は多様であった。
  1870年代から設立が始まり、当初は、官営のものも存
 在したが、次第に、民営のものが主流を占めるようにな
 った。
  民営のものには、自由民権派を中心に、政党などが自
 らの主張を伝える場として設けたものや、営利目的のも
 のなどがあった。
  新聞の普及とともに次第に衰退し、明治後期には、風
 俗営業主体のものなども出現したが、一部は大正初期ま
 で存続した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive