(増補版)305E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年3月〜1872年5月)

題:(増補版)305E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年3月〜1872年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1872年、勝海舟が、春頃、静岡より今の邸宅・赤坂氷川町
 4番地へ移転(氷川清話)
1872年3月10日(明治5年2月2日)北京に、初めて公使館を
 設けた(初代公使に柳原前光
1872年3月23日(2月15日)土地永代売買の禁を解く。
  土地の売買が解禁された。
  江戸時代の寛永20年(1643年)3月に出された田畑永代
 売買禁止令(でんぱたえいたいばいばいきんしれい)が
 あった。
  これは、この前年に大飢饉があって、幕府は本格的に
 農業政策を行ないはじめ、飢饉による百姓の没落を防ご
 として行った。
  その政策遂行の一環として、この法令を発布した。
  主に、天領に向けて発布されたと考えられているが、
 この年・明治5年(1872年)に廃止されるまで効力を持っ
 た。
  しかし、質流れなどで、実態としては、土地の売買は
 行われていて、江戸中期以後には、法令違反の訴えが無
 い限り取締りは行われなかった。
  ここに、明確に、土地の売買の自由が確認された。
1872年3月26日(2月18日)海陸軍の刑律を領布した(8月説
 あり)。
1872年3月29日(2月21日)「東京日日新聞」が創刊された。
  東京で、最初の日刊紙「東京日日新聞」が東京浅草の
 日報社から創刊された(後の、『毎日新聞』1943・1・1)
  創立は、戯作者・山々亭有人の名をもつ条野伝平、貸
 本屋・辻伝右衛門方の番頭西田伝助、浮世絵師・歌川芳
 幾こと落合幾次郎の3人
  1874年(明治7年)に、社長に旧幕臣の福地源一郎(桜
 痴)を招いた。
  また、1876年(明治9年2月20日)に、「大阪日報」が
 創刊された。
  1888年明治21年11月20日に、「大阪毎日新聞」と改
 題された。
  1911年(明治44年)に、「大阪毎日新聞」と「東京日
 日新聞」が合併し、全国紙として第一歩を踏み出した。
  1943年(昭和18年1月1日)に、東西で異なっていた「
 大阪毎日新聞」「東京日日新聞」の題号を「毎日新聞
 に統一した。
  因みに、
  1874年に、読売新聞が創刊し、
  1876年に、中外物価新報(今の日本経済新聞)が創刊、
  1933年に、日本工業新聞(今の産経新聞)が創刊。
1872年3月30日(2月22日)兵制の確立により「振遠隊(し
 んえんたい)」が解散し、「邏卒制度」を新設した(明
 治政府の指揮下に入った)
  振遠隊:長崎裁判所に所属した官軍の部隊で、長崎港
 の警備も行っていた。
  主に、佐賀藩福岡藩に所属し、出島の外国人や、そ
 れらとの接触をする勤王や佐幕の志士たちを警備した。
1872年4月3日(2月26日)東京築地・銀座の大火
  和田倉門内旧会津藩邸から出火、折からの強風にあお
 られ、東京の中心地の丸の内、銀座、築地一帯が焼失し
 た。
  銀座の御堀端から築地までの950,400平方メートル(41
 町、4,879戸)を焼失した。
  焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸という記録があ
 る。
  これをきっかけに、明治新政府は、銀座を耐火構造
 西洋風の街路へと改造することとなった。
  「銀座煉瓦街」の都市計画が始まった。
  別史料に・・、
  午後3時頃(未半刻)、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会
 津藩中屋敷、現皇居外苑3)より出火、西北の風に煽られ
 て馬場先濠を越えて八代洲河岸大蔵省紙幣寮へ飛火、
  織田信敏邸(旧天童藩織田家上屋敷、現丸の内2-5)、
 司法省(旧西尾藩大給松平家上屋敷旧東京中央郵便局
 同2-7)、山内豊誠邸(旧高知藩山内家上屋敷、現東京国
 際フォーラム、同3-5)など、一部省庁として使用されて
 いた丸の内の旧武家地を縦断した。
  火勢は、外濠(現外堀通り)を越えて現在の銀座西北
 端に当たる京橋南紺屋町に飛火、西紺屋町、南紺屋町、
 弓町、新肴町、鎗屋町、弥左衛門町、南鍋町一・二丁目、
 滝山町、元数寄屋町一〜四丁目、銀座一〜四丁目、尾張
 町新地・一・二丁目、三十間堀一〜三丁目、三十間堀川
 を越えて大富町、新富町五〜七丁目、松村町・木挽町
 〜五丁目、釆女町、松村町を焼き、現在の銀座一〜六丁
 目大部分が焼失した。
  京橋の町人地を一通り焼いた後は、再び、東隣の旧武
 家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、
 亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸
 (旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて築地川(現首
 都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新
 興会社が拠点としていた現築地一〜三丁目を横断、築地
 本願寺に到達した。
  再度、築地川(現築地川公園等)を越えて、町人地に
 侵入、南飯田町、柳原町、南本郷町、南小田原町一〜三
 丁目、築地ホテル館(現築地市場勝どき門駐車場、築地
 6-20)と現在の築地六・七丁目を焼失させ、
  夜、亥の刻(午後10時頃)鎮火した。
  その後、明治政府は、東京府知事由利公正の主導での
 都市改造に着手、お雇い外国人トーマス・ウォートルス
 の設計で西欧風近代都市の建設を目指した。
1872年4月3日(明治5年2月26日)、築地ホテル館、焼失す
  イギリス公使のハリー・パークスが、幕府に、ホテル
 の建設を要請し、外国人のための築地ホテル館が建設さ
 れたが、
  完成したホテルの規模は、2階建ての本館と平屋から
 なる5354平方メートルという。
  102室あり、この時代にして水洗トイレ、シャワー室、
 バー、ビリヤード室が、完備するという立派なホテルだ
 った。
  しかし、築地の居留地はあまり発展せず、ホテル経営
 が厳しくなった。
  そして、この日、銀座で発生した大火により類焼し、
 灰燼に帰してしまった。
  4年にも及ばない歴史だった。
1872年4月5日(2月28日)兵部省を廃し、陸軍省海軍省
 設置した。
1872年4月12日(3月5日)日本初の万国博覧会開催。
  主催:文部省
  場所:御茶ノ水の聖堂(旧昌平黌)
  入場料:2銭
  開催日:3月5日が各官吏の招待日で、3月10日が一般の
 入場できる日、
  会期は10日間であったが、大変な評判で、50日間の期
 間延長がなされた。
  出品物:名古屋城天守閣の金の鯱、骨董品、動植物の
 標本、昌平黌の展示品(当時、博物館になっていた)
  新聞の評判:天地の万物、世界の珍物総てここに集め
 られ人々驚嘆せり。
1872年4月12日(3月5日)最初の陸軍中将に山県有朋(やま
 がたありとも)が任命された。
  1838年〜1922年、長州萩藩(山口県)の蔵元付仲間と
 いう軽輩の家に生まれる(閏4月22日)。
  1843年(5歳)、母が病死する(有朋は、自分の家庭も
 恵まれず、子供7人のうち、有朋の死後も生きたのは次女
 のみ)
  吉田松陰松下村塾に門下生となり、尊王攘夷思想を
 学ぶ、長門(ながと)萩(はぎ)藩士
  1859年(21歳)、藩命で伊藤博文らと京都へ派遣、以
 後、尊王攘夷運動家となる。
  1863年(25歳)、奇兵隊軍監に抜擢され、壇ノ浦支営
 司令となる。
  1864年(26歳)、壇ノ浦支営司令として、英・米・仏・
 蘭の4国連合艦隊と交戦、負傷する(4国艦隊下関砲撃事
 件)
  戊辰戦争に参加、
  明治維新後、ヨーロッパ諸国の軍制を視察し、
  1869年(明治2年、31歳)、西郷従道と共に渡欧、3年
 8ヶ月の見聞を広めて、帰国、兵部少輔となる。
  数日後、兵部大輔の前原一誠が辞任したため、実質上、
 明治新政府の軍部の兵部大輔就任が重なった。
  直ちに、国軍の創設に着手し、薩摩・長州・土佐の3
 藩の兵10000で親兵を組織した。
  続けて、東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の
 4鎮台を設置した。
  ヨーロッパで数百年かかった仕事を、兵権統一の大事
 業を一気に成し遂げた。
  そして、徴兵令施行・軍人勅諭の発布(1882年、明治
 15年)など軍制の整備に努めた。
  1872年(明治5年、34歳)、陸軍・海軍両省が設置され
 ると、陸軍大輔に任じられた。
  1873年明治6年、35歳)、陸軍卿
  大村益次郎の後を継いで兵制を整え、
  1877年(明治10年、39歳)西南戦争の征討軍参謀とな
 る。
  1878年明治11年、40歳)、初代・参謀本部長、
  1885年(明治18年、47歳)、初代・内相となり地方制
 度を整備。
  伊藤博文と共に明治政府の最高指導者となる。
  1889年(明治22年、51歳)、内閣の組閣をする。
  1898年(明治31年、60歳)、内閣を組閣、
  法相・内相・内務卿・枢密院議長・総理大臣などを歴
 任。
  元老としても活躍し、軍や警察・官政界に存在感を示
 した。
  1922年(大正11年)没する、85歳、
  言葉:私は一介の武弁(ぶべん、武士、武官)にすぎ
 ない
1872年4月14日(3月7日)特旨にて罪を赦す
  特旨(とくし、特別の考え)にて、榎本武揚の罪を赦
 す。
  1872年2月14日、黒田清隆(くろだきよたか)の助命
 運動により、この時、出獄した榎本武揚だった。
  この頃の黒田清隆は、北海道開拓使のトップであり、
 兼務して新政府の首脳だった(この後、総理大臣にもな
 る)。
  因みに、榎本武揚の助命嘆願のため、黒田は、剃髪(
 ていはつ、髪をそること)した。
  厳罰を求める者と、長い間、対立してまでもして助命
 を求めた。
1872年4月16日(3月9日)御親兵を廃して、近衛兵をおく
 (薩摩・長州・土佐の三藩の兵約1万)
  この時、「近衛条例」を制定して、御親兵掛を廃止し、
 「近衛局」を置いた。
  そして、4月24日(旧暦、3月17日)御親兵を改称した
 壮兵からなる「近衛兵」を創設した。
1872年4月19日(3月12日)東京・大阪・鎮西・東北の鎮台
 条例(ちんだいじょうれい)を定めた。
  1872年4月(3月)、東京鎮台条例、および、大阪・鎮
 西・東北鎮台条例が定められ、
  翌年・1873年9月(7月)2条例を統合して新しい鎮台条
 例に改正された。
  条例は、各鎮台を軍管(ぐんかん、軍隊における管轄
 区域)とし、外敵の防御に当たり,草賊(そうぞく、山
 野にひそむ盗賊)に備えることを任とした。
1872年5月4日(3月27日)高野山金剛峯寺)の「女人禁制」
 が初めて解かれた。
1872年5月5日(3月28日)国旗(日章旗)の掲揚を令す
  太政官布達により、自今開港場県庁に国旗(日章旗
 を掲揚すべしと令す。
1872年5月6日(3月29日)身体に入れ墨禁止の布告。
  太政官令により、入墨を禁ずる。
  また、裸体、混浴、春画を禁じた。
1872年5月8日(4月2日)日本初の近代的図書館「書籍館
 が開館。
  文部省博物局が、東京・湯島の旧昌平坂学問所大成殿
 に「書籍館(しょじゃくかん)」を開館する。
  すべての人々が利用でき、あらゆる分野の蔵書をもつ
 近代的図書館の始まりとなった。
  国立国会図書館支部上野図書館の前身。
1872年5月11日(4月5日)女子の断髪を禁ず。
  女性の断髪が流行、なぜか禁止される・・
  断髪(だんぱつ)は、髪を切ること。長髪を短く刈っ
 たり、髷(まげ)を切り落としたりすること・・で、
  1871年9月23日(明治4年8月9日)に、散髪脱刀令(さ
 んぱつだっとうれい)が、太政官令によって出されたが
 ・・?
  「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム」
 ・・という令だった・・、
  そして、この散髪脱刀令は、髪型を自由にして構わな
 いという布告であったのだが・・、
  髷(まげ)を禁止して、散髪を強制する布告ではない
 のだが・・?
  しかし、この時・1872年5月11日(明治5年4月5日)に、
 東京府は、「女子断髪禁止令」を出した。
  これは、散髪脱刀令の趣旨を・・、
  「女子も散髪すべきである」と誤解した女性が、男性
 同様の短髪にすることが多かったためだった。
  非常に奇妙な事件であるが・・?、
  1873年4月(明治6年3月)に、敦賀県(現在の福井県
 南)で、断髪令に反対する3万人が・・、
  『散髪・洋装の撤廃を要求した一揆』が発生した。
  この時、6人が騒乱罪で死刑となった、
  死人が出た。
  意外と・・この断髪令で、日本各地が・・揺れた。
  新潟では、捕亡吏(ほぼうり、警察官)が、いまだ髷
 を結っている者が居ると取締った。
  庶民は逃げて、捕亡吏に追いかけられた。
  また、庶民は、この頃、流行って来た帽子を被って、
 髷を、まだ、結っているのを隠したりした。
  捕亡吏も、令を間違えて解釈していて、『髷を結って
 いてはいけない』という令だと捉えていた。
  見つけ次第、連行するとかした。
  自治体によっては、県への訴願を認めないとか、髷を
 結ってる人を圧迫した、
  茶屋で髷を切られ、男が愚痴っている間に、女性は、
 どこかへ行ってしまった・・という話とか・・、
  鳥取県では、髷を切ってために、妻が離縁を申し出た
 とか、
  散髪奨励政策をする自治体とか、
  床屋を無税にするとか、
  日本中は、大騒ぎだったようだ・・、
  まあ、岩倉具視は、外遊先で笑われ、断髪したという。
 そして、断髪し、洋装したという・・、その様な、明治
 だった。
  すべて、西洋が良いのだ、笑われない様にしよう・と、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive