(増補版)306E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年5月〜1872年7月)

題:(増補版)306E1/3:気になった事柄を集めた年表(1872年5月〜1872年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1872年5月15日(4月9日)庄屋・名主・年寄等の制を廃し、
 新たに戸長、副戸長を置いてこれに代わらしむ。
  戸長(こちょう)とは、「明治前期、地方行政区画の
 区や町村の行政事務をつかさどった役人。
  明治5年(1872)の大区・小区制下では、小区の長とし
 て置かれ、従来の庄屋・名主などから選ばれた。
  1889年(明治22年)の町村制施行により廃止。
  今の町長・村長にあたる。
1872年5月17日(4月11日)東京に、初めて女学校が開校。
  (俗に、女紅場、あるいは、英学校と称せられる)
  女紅場(にょこうば)は、1870年代に、女子に対して
 読み書き算盤(よみかきそろばん)や、裁縫・手芸を授
 けた教育機関のこと。
  裁縫所(さいほうじょ)、縫製所(ほうせいじょ)と
 も称する。
  「女紅」とは、「女工」とも表記する。
  特に、細民と呼ばれた下層社会の子女や芸妓・娼妓に、
 必要最低限の教育を与えることを目的としていた。
  学費の払えない生徒の為に、習得した技術で作られた
 製品をもって学費の代替とする事もあった。
1872年5月30日(4月24日)日曜休暇制が決められた。
  日本は、官吏であるが、律令制の時代から、定休日な
 どの休暇(假)があった。
  また、休み時間が、1日に3回取られていて(10時、昼、
 2時)、特に夏場など、暑くなる時期は昼休みだけでも2時
 間あった。
  また、1873年明治6年)、太政官布告第344号「年中
 祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」によって、それまでの祝日は
 すべて廃止され、祝祭日(祝日大祭日)が定められた。
1872年5月31日(4月25日)江藤新平、初代司法卿に就任。
  江藤新平が、司法卿となり、フランスの刑法や民法
 移植するのに功績をたてた。
1872年6月(明治5年5月)日本国明治政府が、台湾での一
 連の事件を知る。
  1872年1月10日(明治4年11月30日)宮古島から首里
 年貢を輸送した宮古島船が、帰途中、台風の暴風で難破
 漂流し、琉球の役人と、船頭ら69人のうち3人が溺死した。
  そして、後に、台湾南部に漂着。
  66人が、台湾先住民の牡丹社に救助を求めたが、逆に、
 集落に連れて行かれた。
  1872年1月26日(12月17日)船の乗組員66人は、集落か
 ら逃走した。
  先住民は、逃げた琉球人を敵とみなし、次々に、54名
 を殺害し、12人の生存者は、漢人により救助された。
  そして、台湾府の保護を受け、福建省の福州経由で、
 宮古島へ送還された。
  後になって、樺山資紀や鹿児島県参事の大山綱良らの
 薩摩閥から、台湾への軍艦派遣が建言された。
  琉球は、自国の領土という立場から、清国に対して事
 件の責任を問うた。
  そして、1874年6月3日(明治7年4月19日)に至り、征
 伐出兵の準備に入るが、英・米の駐日公使が、出兵反対
 の意向を示した。
  政府は、派兵の延期を決定した。
1872年6月10日(5月5日)食用氷が、初めて市場に現わた。
1872年6月12日(5月7日)東京〜横浜間の鉄道が仮開通した。
  日本で初めての鉄道が、品川〜横浜間で仮営業を開始
 し、2往復の列車が運行された。
  6月12日(5月7日)6往復となる(6月13日説あり)
  7月10日(6月5日)途中に、川崎と神奈川の駅が設けら
 れ営業を開始した。
  10月14日(9月12日)新橋〜横浜間が正式開業した。
  開業の式典が催され、明治天皇陛下のお召列車が、横
 浜まで往復した。
  10月15日(9月13日)鶴見駅が開業し、旅客営業が開始
 された。
  列車本数は、日9往復、全線所要時間は53分、表定速
 度は32.8キロメートル/時
  町は活気にあふれ、町中には牛鍋屋があり、コウモリ
 傘を抱えて懐中時計を持って、背広を着た男がいる。
  尚、史料に3月15日を開通とするものがある。
1872年6月15日(5月10日)勝海舟が、海軍大輔に任ぜられ
 た。
  勝海舟、任海軍大輔(氷川清話)
  勝海舟、叙従四位(氷川清話)
1872年6月22日(5月17日)特命全権副使・大久保利通、伊
 藤博文が、再び、アメリカへ赴いた(寺島宗則はイギリ
 スへ)
1872年6月23日(5月18日)取締組を邏卒(らそつ、見回り
 の兵卒)と改称した。
1872年6月25日(5月20日)司法卿・江藤新平が、「司法省
 仮規程」制定。
  司法省は、裁判所・裁判官の総括をする。
1872年6月28日(5月23日)明治天皇陛下が、西国へ巡幸の
 ため品川湾より軍艦「龍驤」に召され発途された。
  西郷隆盛随行
  天皇陛下西巡(氷川清話)
1872年6月29日(5月24日)兵庫楠木神社を湊川神社と改称
 し、最初唯一の別格官弊社に列格する。
1872年6月(5月)天皇陛下が、京都に戻る際、「還幸」で
 はなく「行幸」とされた。
1872年7月4日(5月29日)初めて、師範学校(しはんがっこ
 う)が東京に開設された(東京師範学校の前身)
  教員を養成する学校である。
  別史料に・・下記の記述もある。
  1872年(明治5年)9月からの約1年間、「師範学校」は
 東京に設置された日本初の教員養成機関(後の東京高等
 師範学校東京教育大学を経た現在の筑波大学の前身)
1872年7月9日(6月4日)マリア・ルース号事件
  奴隷を解放した日本だった。
  日本が奴隷を解放したマリア・ルース号事件。
  日本の横浜港に停泊中のマリア・ルス号の船内にいた
 人たちが奴隷であると分かり、日本政府が解放した。
  国際裁判となり、日本が当事者となった初めての事例。
  マリア・ルス号は、船の修理のために入港していた。
  奴隷が船外に逃れたために、奴隷にされていると判明
 した。
  当時の外務卿(外務大臣副島種臣は、神奈川県権令
 (県副知事)大江卓に、奴隷にされている人たちの救助
 を命じた。
  国際問題を恐れた意見が政府内にあったが、副島外務
 卿は、人道的な見地から救助をすることを命じた。
  マリア・ルス号は、横浜港からの出航停止命令が出さ
 れ、奴隷を全員下船させた。
  船長が、神奈川県庁に設置された特設裁判所の裁判に
 かけられ、判決で、奴隷を解放の後、出航の許可を与え
 た。
  船長は、反訴したが、日本は、再度、人道に反するこ
 とを理由に、契約も効力無しとし、却下の判決をした。
  この時、奴隷にされていた中国人は、中国(清)へ帰
 国できた。
  中国(清)政府は、日本へ謝意を表明した。
  しかし、帰国した船長により、日本は、損害賠償と謝
 罪が要求された。
  国際裁判となった本件は、ロシアのサンクトペテルブ
 ルグにおいて争われる事になった。
  日本の全権公使として榎本武揚が赴(おもむ)き、
  1875年6月、日本の勝訴で決着した。
  判決文は、「日本側の措置は、一般国際法にも条約に
 も違反となっていない妥当なものである」・・だった。
  堂々たる、誇るべき日本だった。
1872年7月10日(6月5日)群馬県の富岡製糸工場の主要部分
 の建設工事が終わった。
  農商務省経営、官営最初の製糸場として絹糸国産発展
 の端となった。
  国の稼ぎ頭(かせぎがしら)となって行く・・、
1872年7月15日(6月10日)『郵便報知新聞』が創刊された。
  前嶋密らによって「郵便報知新聞」が創刊された。
  草創期には、旧幕臣の栗本鋤雲が主筆を務めた。
  1873年明治6年)に、会社・報知社が設立された。
  1877年(明治10年)に、西南戦争が勃発すると、当時、
 記者だった犬養毅が、従軍ルポ「戦地直報」を掲載した。
  1881年明治14年)に、矢野龍渓は、大隈重信と共に
 報知社を買収した。
  犬養毅尾崎行雄らが入社し、立憲改進党の機関紙に
 なった。
  当時、記者だった原敬は、反発して退社した。
  後に、政論新聞(大新聞)が、自由民権運動の退潮と
 ともに人気が低下した。
  1886年明治19年)に、報知社に迎えられた三木善八
 は、漢字の制限や、小説の連載などを行ない、新聞の大
 衆化を図った。
  1894年(明治27年)三木善八が、社主に就任した。
  12月26日に、「報知新聞」と改題した。
  1898年(明治31年)案内広告のはじまりとなる「職業
 案内」欄が創設された。
  1901年(明治34年1月2日〜3日))「二十世紀の豫言」
 を掲載し、20世紀中に実現すると思われる23項目の事柄
 が書かれた。
  科学技術に関する部分は、ほとんど実現したが、自然
 や生物学関係は外れているものが多い。
  1903年明治36年)新聞直営店制を開始した。
  1904年(明治37年川上貞奴の写真を掲載。日本初の
 新聞写真となった。
  1906年明治39年)夕刊の発行を開始した。
  1913年(大正2年第一次護憲運動で、政府系と見られ
 て群衆の襲撃を受けた。
  1920年大正9年)東京〜箱根間・往復大学駅伝競走を
 創設した。
  1930年(昭和5年講談社野間清治に買収され、販売
 方針を見直すなど経営努力を重ねた。
  1941年(昭和16年)販売方針を見直すなど、経営努力
 を重ねるが、結局ふるわず、講談社は撤退した。
  後に、政界引退を余儀なくされていた三木武吉に譲渡
 した。
  1942年(昭和17年8月5日)戦時下に行なわれた新聞統
 合によって讀賣新聞に合併した。
  「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は
 「讀賣報知」に改題された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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