(増補版)304E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年12月〜1872年3月)

題:(増補版)304E1/3:気になった事柄を集めた年表(1871年12月〜1872年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1871年12月14日(明治4年11月3日)高輪に屠牛場が許可
  本ブログに、1871年11月3日(明治4年9月21日)高輪に
 屠牛場を設置。
  「順立帳 明治4年ノ20,官途必携 巻之3」に、1871年
 11月3日(明治4年9月21日)に、高輪屠牛場設置とある・・
 と記したが、標記の日時の記事も見つけた。
  また、下記の記事も補強の意味で記す・・、
 (1)1867年(慶応3年)外国人に牛肉を供給していた中
  川嘉兵衛が、江戸荏原郡今里村(後の芝白金今里町、
  現在の白金台二丁目)に屠牛場(後の「東京共有屠牛
  場」)を設立。
  これが、江戸・東京における、最初の近代的屠場であ
 った。
 (2)1867年(慶応3年)高輪東禅寺にあったイギリス公
  使館出入業者・横浜元町の中川屋嘉兵衛が、武蔵国
  原郡今里村の名主・堀越藤吉の地所に屠場を開設した。
  当時の屠牛は穢れを祓うため、青竹を四角に立て御幣、
  注連縄(しめなわ)を渡した中に牛をつなぎ掛矢(大
  型の木槌)で頭部を一撃し、昏倒したところを、頚動
  脈を切って、失血死させたという。
  やがて、堀越藤吉自身も、今里にて施設の経営を始め
  た。
 (3)1868年(明治2年)築地の官営施設に統合されるが、
  ほどなく、同所は、廃止され、元の今里村に戻る(新
  修港区史には、官営施設は、1871年明治4年)に、麻
  布本村町に移転とある)。
1871年12月25日(11月14日)九州の28県を11県と改める。
1871年華族・士族に農・工・商の営業を許した。
  ここの基本に、「四民平等(しみんびょうどう)」の
 基本思想があった。
1871年3月8日、ドイツ新帝国誕生(初代帝位にヴィルヘル
 ム一世)
  1870年には、普仏戦争で、ナポレオン3世率いるフラン
 ス帝国を破ってパリへ入城し、そして、
  1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ諸侯に
 推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ
 皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した。
  1871年に、普仏(ふふつ)戦争の勝利の結果、成立した
 統一ドイツ国家。
  22の君主国と、3つの自由市からなる連邦制をとったが、
 プロイセンが名実ともに帝国を支配し、
  プロイセン国王が皇帝、プロイセン首相が宰相を兼ね
 た。
  この際に、長年、フランスとの間で帰属が変遷してい
 たエルザス=ロートリンゲンアルザス=ロレーヌ)を
 獲得した。
  1918年、第一次世界大戦の敗北と、これと前後して起
 こったドイツ革命により崩壊。
1871年3月18日(1月28日)普仏戦争でパリ陥落し、フラン
 ス側より和を乞い休戦条約締結(これより日本はドイツ
 に注目する)
1871年、パリ=コンミューン。ドイツ統一が完成した。
  パリ=コンミューンは、1871年3月18日〜5月28日まで
 の72日間存在した(パリ市の自治政権)
  普仏戦争敗北後、国防政府が社会主義者や民衆の武装
 を妨げ、また、対独屈辱外交を進めたので、これに不満
 をいだく労働者・社会主義者・小市民層が結集した。
  大革命の1792年のパリ市民のコミューン(自治組織)
 にちなんだ名称である。
  雑多な勢力からなり、一貫した方針に欠け、ドイツ軍
 の包囲下、政府軍の過激な弾圧で崩壊した。
  マルクスによって、最初の社会主義政権とされた。
1872年(明治4年〜明治5年)物価:
  ・氷1貫目:4銭、
1872年、データ:
  ・日本の総人口:34,806,000人
  ・華族・士族:6%、平民:93%、その他:1%
  ・米のとれ高:3,162万石
  ・この年の新政府の役人の出身地、
  ・山口県:61人、東京府:55人、鹿児島県:53人、長崎
   県:51人、静岡県:47人、高知県:32人、その他:
   187人、計:486人
1872年、出来事
  ・戸籍簿が作成された
  ・紙幣発行(氷川清話)
  ・農民の商業の営業を許可した。田畑永代売買の禁を
   解いた。
  ・官営の富岡誓紙工場(群馬県)が出来、操業を開始
   した。
  ・第一国立銀行(清水喜助)
  ・東京〜大阪間に電信が開通した。
  ・東京日日新聞が発刊された。
  ・東京で築地・銀座大火、銀座煉瓦街が計画される。
  ・東京銀座に赤煉瓦街が成った。
  ・庄屋と名主を廃した。
  ・全国の郵便。
1872年1月2日(明治4年11月22日)全国を3府72県と改める
1872年1月5日(11月25日)、府県学校が文部省管轄となる。
1872年1月9日(11月29日)、裸体の通行禁止に。
1872年1月(11月)、横浜に共同便所を設置。
1872年1月13日(明治4年12月4日)、河上彦齋(かわかみげ
 んさい)刑死(氷川清話)
  河上彦斉は、尊王攘夷派の熊本藩士、幕末の四大人斬
 りの一人とされる。
  明治維新の後も、攘夷を強固に主張しつづけたため、
 藩と新政府に危険視され、斬首された。
  佐久間象山を斬った人、理由は、象山が公武合体派で
 開国論者の重鎮だったから。
  高田(こうだ)源兵衛(のちに源兵)に改名し、その
 名前を用いるようになった。
  これは当時より、佐久間象山の息子で新選組隊士の佐
 久間恪二郎(三浦啓之助)が、彦斎の命を狙っていると
 噂されていたためだった。
  維新後、開国政策をとる新政府は、あくまでも攘夷を
 掲げる彦齋のような攘夷論者を疎ましく思った。
  大村益次郎暗殺事件に関与した大楽源太郎が、逃げて
 来たので匿った。
  そのために翌年・1870年(明治3年)、熊本に戻った際
 に二卿事件への関与が疑われた。
  続いて参議・広沢真臣暗殺事件の疑いもかけられて、
 藩獄に繋がれ、次いで江戸送りとなった。
  そして、1872年1月13日(明治4年12月4日)、日本橋
 小伝馬町にて斬首された。
1872年1月14日(12月日5)新聞紙の定額郵送始まる。
1872年1月26日(12月17日)官吏、靴履のまま上庁を許され
 る。
1872年1月27日(12月18日)華士族も農工商業を営むを許さ
 れる。
  華士族・卒の職業選択自由の許可。
1872年1月(明治4年12月)、新貨幣発行(氷川清話)
  1871年1月2日(明治3年11月12日)、太政官裁定におい
 て、一圓銀貨を本位貨幣、金貨その他を補助貨幣とする
 案がまとめられ、
  貨幣の品位、および、量目が定められた。
  1871年1月17日(明治3年11月27日)には、大阪に設置
 された造幣寮が新貨幣の鋳造を開始し、稼働を始めた。
  1871年4月4日(明治4年2月15日)には、創業式を挙行
 され、
  最新式の鋳造機を香港から購入し、贋造が難しい近代
 的な貨幣鋳造が開始された。
  本位貨幣として金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、
 銀貨1種(1円)、補助貨幣として、銀貨4種(50銭、20銭、
 10銭、5銭)、銅貨4種(2銭、1銭、半銭、1厘)が発行さ
 れた。
  1871年6月27日(明治4年5月10日)新貨条令が、太政官
 より布告された。
  1872年1月(明治4年12月)より、旧貨幣(万延二分判・
 一分銀・寛永通寳・天保通寳など)と、新銭貨との交換
 が行われた。
  紙幣は、明治通宝が額面9種(100円、50円、10円、5円、
 2円、1円、半円、20銭、10銭)で発行された(後に、旧
 藩札や太政官札と交換されることになった)。
  この時、海外に大量の金が流出していたため、日本は、
 金不足に陥(おちい)っていた。
  1872年5月7日(明治5年4月1日)より、旧藩札・太政官
 札・民部省札と、新紙幣(明治通宝)の交換が開始され、
  1879年(明治12年)までに、ほぼ回収が終了した。
1872年1月(明治4年12月)長崎〜東京で郵便業務が開始さ
 れる。
  190時間の長崎〜東京を、95時間にすることが、ひとつ
 の目標とした。
1872年2月4日(12月26日)東京裁判所設置(裁判の始まり)
  司法機関として最初の東京裁判所が設置された。
1872年2月5日(12月27日)ドイツにて印刷された新紙幣が、
 発行された。
1872年2月10日(明治5年1月2日)外国公使(英・米・独・
 仏・伊・西・蘭)参内し、新年の賀詞を述べる(外国大
 使参内拝賀の恒例となる)
1872年2月12日(1月4日)軍人勅諭が下賜された。
1872年2月14日(1月6日)榎本武揚が、函館戦争の罪により
 入獄中、黒田清隆の助命運動により出獄した。
1872年2月16日(1月8日)明治天皇陛下が、日比谷門外の操
 練場での行軍式を御閲兵された。
1872年2月28日(1月20日)官制改革により、勅任官・判任
 官・奏任官に新制度定める。
1872年2月、福沢諭吉の「学問のすすめ」の初編が出版され
 た。
  明治の出版文化は、福沢諭吉から始まったといわれる。
  福沢は、著者兼出版者であり、しかも、印刷・製本・
 販売までの出版活動をした。
  福沢本があまりに売れるので、書林組合(書物問屋、
 本屋仲間)からクレームがついた。
  そのため、仲間に入っていなかった福沢は、 東京書物
 問屋仲間に加入した。
1872年2月(明治5年1月)火消し、いろは組が廃止された。
1872年3月4日(1月25日)岩倉大使が、グラント米大統領
 会見した。
  翌日の1872年3月5日(1月26日)全権の岩倉具視は、
 アメリカに国書を手交した。
1872年3月8日(1月29日)卒身分の廃止。
1872年3月8日(1月29日)初の全国戸籍調査が行われた。
  総人口は3311万825人 (3311万796人説あり)
  明治政府が人口調査を行ない、総人口3311万796人と
 判明。
  長崎の場合、戸籍法に基づき長崎総町を17区に分割し、
 各区に町年寄1人を置いて戸長を兼任した。
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  そして、今日の言葉・・、
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  「武士は、食わねど高楊枝」
  腹が減った武士、
  だがしかし、物を食った様な顔をして、高楊枝を口に
 くわえ、ひょーひょーと、懐手(ふところで)をして、
 歩き去って行った、
  その様な・・腹の減った武士が居た、
  そこには・・餓鬼界を脱却した武士の姿があった。
  刀を二本、腰に差し、その刀の存在を・・その武士は
 超越していた。
  当然のごとくに・・。
  それは・・仏教の教えるところだった。
  決して、そこには・・、
  キリスト教の説く「(キリスト教の)神の義があれば、
 人を誅してよい」という様な考えはない。
  キリスト教の神の義があれば・・と、
  キリスト教の神は許す・・だから・・、
  腹が減った時の発想として・・
  隣国の富を奪いに行っても・・神の義が良いと教える・・、
  もしかすると・・目の前の人間の富をも・・、奪いに
 行っても良い・・とも・・
  (キリスト教の)神の義があれば・・、
  戦いに当然なるだろう・・、
  その場合・・、その人間を誅しても良いと説き、教え
 マインド・コントロールされている。
  「我々は選民なのだ」という教えもあり・・その行動
 を肯定的に判断するのに・・加わる・・、
  卑劣な戦いを促した・・キリスト教の考え方・教え・
 教義だ。
  異教徒だから良いのだ・・、「異教徒は殺せ」のキリ
 スト教教義もある。・・ひどい話だ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive