(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月〜1882年1月)

題:(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月〜1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年、出来事:
デフレーションですべて産業に陰り。
  松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米
 の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招
 いた。
  このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮
 乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の
 下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落した
 りした。
  一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が
 地主や高利貸しへと集積されていった。
  一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各
 地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動
 を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持
 基盤だった)。
  また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長
 して行った。
  しっかりした資本家層が生まれ、一層、労働者層との
 分離が進んだ。
  資本主義経済の醜い面が、より一層強く日本に形づく
 られて行った。
1882年、流行・世相:
・東京にコレラが大流行し、全国に伝染して行った。
・世相:東京で開店や売り出しに景品を付ける富籤(とみ
 くじ)に似た行為が流行 → 各警察署が取締
  また、この取締り強化で、興農競馬会社は、富くじ
 き前売り入場券が、発売できなくなり収入は激減した。
・1882年11月1日、東京・銀座にアーク燈がともった。
  東京電灯会社による、日本最初の電気街灯建設の地=
 東京都中央区銀座2丁目に電気街灯がともった。
  アメリカ製の可搬型小型発電機を使って、直流110ボル
 トの電気がが供給され点灯された。
  それまで、1874年に、銀座〜京橋間に85本のガス灯に
 よる街灯が点灯された。
  また、この年・1874年は、日本橋馬喰町に石油ランプ
 の街灯が灯されている。
1882年、データ・物価:
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数 132件。
・鉄道運賃
  (3等・新橋起点)品川まで6銭、大森まで10銭、
 横浜まで30銭、京都まで3円75銭、大阪まで3円97銭、
 神戸まで4円13銭、
1882年、本:
・ 「民約訳解(みんやくやくかい)」(著:ジャン・ジャック・
 ルソー/訳:中江兆民)
  兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に、
 原著の第2編第6章までが訳載された。
  全訳は、1877年および1883年に、兆民以外の人によっ
 てなされた。
  兆民は日本語訳でなく、漢文訳だった。
  兆民は、漢文の簡潔で豊富な表現力に傾倒し、その素
 養を深めることこそ文に長ずる道とみて、
  その文人・兆民の漢文修業の労苦の結晶であった。
  兆民の「解」が付してあり、兆民は「東洋のルソー」
 と言われた。
  この『民約訳解』は、民権派人士に歓迎され自由民権
 運動に大きな影響を与え、理論的支柱となった。
  しかし、後に、批判が加えられるようになり、時代遅
 れの理論とされるようになった。
  しかし、兆民の普遍的価値に接近していこうとする態
 度などから「東洋のルソー」と言われる機縁となった。
  兆民の「ルソーの本著の精読」から・・、
  『民権至理也自由平等是れ大義也』という確信は、
  『民権自由は欧米の専有に非ず』とする認識へ結び付
 いて行った。
  『古来、日本にもあった』と言いたかったのだろう・・
・ 「良政府談(りょうせいふだん)」(原題・ユートピア/著:
 トマス=モア/訳:井上勤)
  因みに、この頃までのユートピア文学で表現されてき
 た「理想郷」に共通する特徴は・・、
  (1)周囲の大陸と隔絶した孤島。
  (2)科学と土木によって、その自然は、無害かつ幾何
   学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が
   中心となっている。
  (3)生活は、理性により厳格に律せられ、質素で規則
   的で、一糸乱れぬ画一的な社会。
    ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされて
   いる。
    住民の一日のスケジュールは、労働・食事・睡眠
   の時刻などが厳密に決められている。
    長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のた
   めに使う。
  (4)人間は機能・職能で分類される。
    個々人の立場は、男女も含め、完全に平等だが、
   同時に個性はない。
    なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難
   で危険な仕事をさせている場合がある。
  (5)物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
    黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監
   視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
  (6)変更すべきところがもはやない理想社会が完成し
   たので、歴史は止まってしまっている(ユートピア
   は、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
・ 「露国虚無党事情」(訳:西川通徹)
  虚無党(きょむとう):1、帝政ロシア時代、チェル
 ヌイシェフスキーを指導者とする革命的民主主義者の党
 派の称。
  2、ロシア皇帝暗殺などの非常手段に訴えた1870〜80
 年代の革命家たちを、非難してよんだ語。
  (参考)虚無(きょむ):
  1、何物もなく、むなしいこと。空虚。
  2、この世に存在するすべてのものに価値や意味を認
 めないこと。
・ 「人権新説(じんけんしんせつ)」(著:加藤弘之)
  優勝劣敗の社会進化論を肯定し、
  天賦人権(てんぷじんけん、天がすべての人に対して
 平等に、分かち与えた権利)の存在を否定。
・イタリアの作家コローディ『ピノキオ』を発表。
1882年、衣:
・銀座に丸善・森村・大倉組などの洋服店ができた。
  洋服は、1871年明治4年)頃より普及が始まった。
  丁稚奉公人として入店し、10年の年季奉公を済ませ、
 その後に、洋服職人として2年か3年のお礼奉公をし、
 独立開業して巣立った。
・二重マワシを着るものあり、横浜で金巾の輸入が、最も
 盛ん。
  「二重回し(にじゅうまわし)」は、この頃に生まれ
 たケープコート(ポンチョ風コート)、主に、紳士向け
 の外套だった。
  また、金巾(かなきん・かねきん)は、綿布の一種で、
 固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
  白足袋(しろたび)、割烹着(かっぽうぎ)、和服の
 裏地に使われた。
・浅草で学生カバン製造され、漸次普及する。
  折鞄とも言われ、材料はズック製で、後に皮革等でも
 作られ、寸法は45cm〜78cm位。
  革の工人、革具師、馬具師、文庫職人等々に依る発想
 で、1869年(明治2年)頃から1877年(明治10年)頃にかけ
 て通称、胴乱が鞄になり、
  「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃。
  (参考)胴乱(どうらん):皮または布製の四角の袋
    で、印章や薬などを入れて腰に下げるもの。
     もと、鉄砲の弾丸を入れるのに用いた。
1882年、食:
神戸港で米の輸入が始まった。
  日本の米の輸入量と、輸出量は・・、
  1868年(明治1年)輸入:436千円、輸出:不明、
  1869年        4432千円    不明、
  1870年        14598千円    不明、
  1871年        1260千円    不明、
  1872年          0千円    不明、
  1873年         30千円    553千円、
  1874年         24千円    316千円、
  1875年         22千円     16千円、
  1876年          1千円    810千円、
  1877年(明治10年)    0千円    2269千円、
  1878年          0千円    4644千円、
  1879年         248千円    417千円、
  1880年         435千円    211千円、
  1881年         135千円    262千円、
  1882年         20千円    1652千円、
  明治維新にもとづく内乱と凶作の為、1869年と1870年
 に国内不安を鎮めるために輸入した。
  1870年の米の輸入額は、すべての輸入の43パーセント
 が米の輸入額という大量の輸入量となった。
  明治政府は、この時、米の輸出禁止令を出した。
  その結果、1872年以降は、米の輸入は、ほとんど皆無
 に近くなった。
  逆に、1873年7月15日の米輸出禁止令が解除になると、
 輸出される量が、急激に伸びた。
・搾乳場
  大阪に七つの搾乳場あり、牛乳過剰で、バター製造を
 始めた。
  1874年(明治7年)に、愛媛県の下井小太郎氏は、乳用
 牛を飼育し、搾乳し、粉乳製法を研究している。
  1863年文久2年)に、横浜で牛乳の生産を開始した。
  これにより庶民でも牛乳を手に入れる事ができるよう
 になった。
  1876年(明治9年)、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉
 による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北
 海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農
 経営が行われるようになった。
松本市で馬肉を食べ始めた。
  因みに、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
 は、日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかった。
  また、1863年文久3年)の遣欧使節団としてヨーロッ
 パへ派遣された一行は、肉食はもちろん、パンも牛乳も
 喉を通らなくなっていった・・とある。
・神谷伝兵衛コウザン蜂印ブドウ酒製造に成功する。
 伝兵衛は、浅草の神谷バーの経営者。
  この年に、ブドウ酒を発売した。
  そして、伝兵衛は、1882年〜1886年頃、速成ブランデ
 ーを製造・販売した。
  この頃、大流行していたコレラに効くと大いに宣伝さ
 れた。
  この後、また当時、流行していた「電気」という語を
 冠して「電気ブランデイ」を売り出した。
  電気ブランは、浅草の神谷バーの名物として愛飲され
 た。
  甘く強い酒で、飲み過ぎると足を取られ、店ではカッ
 プ3杯以上は売らなかった。
  電氣ブランデー(デンキブラン)の説明に・・「ブラ
 ンデーベースのカクテルで、ジンや薬草などが使われて
 いて、アルコール度数は40度。 当時、洋風の洒落たもの
 には『電気』の名をつけた」とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive