(増補版)337E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月〜1876年8月)

題:(増補版)337E1/3:気になった事柄を集めた年表(1876年1月〜1876年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1876年1月2日、第二次府県統合
  府県数:3府35県に統合した。
  現在は、1都1道2府43県で47の都道府県であるが、
 この時、3府35件の38の府県だった。
  因みに、1871年の時は3府302県の305に分かれていた。
  そして、1872年2月10日に、3府72県の75分割(第一次
 府県統合)になり、
  (古代の日本は68だったので、近づけたのかの推定意
 見がある)、
  そして、この時、1876年1月2日、3府35県(第二次府県
 統合)をした。
  因みに、四国は愛媛県高知県だけだった。
  東京府は、ちっちゃい東京府がちょこんとある。
  その分、神奈川県が大きかった。
  1876年の第二次府県統合は二度行われた。
  ちょっとした変更を入れると十数回の変遷の後、
  1946年9月27日に、府県制改正により北海道庁を北海道
 に移行し、1都1道2府42県となり、
  1972年5月15日に、沖縄返還により沖縄県が復帰し、現
 在の1都1道2府43県となった。
1876年6月27日、鉄道桟橋が、初めて神戸港に竣工し、港
 湾と汽車運輸の連結が成った。
1876年7月1日、三井銀行が開業した。
  最初の民間普通銀行。
1876年7月5日、新聞雑誌発禁の制を布告(出版統制の最初)
  評論新聞を発禁、急進的な新聞の弾圧を強化、
  国安妨害記事を掲載した新聞・雑誌について内務省
 発売禁止等を布告した。
1876年7月13日、警視庁に初めて電信を設けた。
  警視庁が、電信を初めて架設し、緊急連絡に活用する。
1876年7月20日、奥羽・北海道巡幸の明治天皇陛下が、軍艦
 ではない汽船「明治丸」で、青森から横浜に御帰着(海
 の日の始)
1876年7月26日、大阪〜京都間の鉄道試運転を開始する。
  この年は・・、
  1876年6月12日、品川〜川崎間に大森停車場を設置
  1876年8月9日、大阪〜高槻間に吹田および茨木停車場
   を設置
  1876年9月5日、大阪〜京都仮営業開始
  1876年12月1日、新橋〜品川複線化完成、中間に田町仮
   駅を設置
1876年8月5日、金禄公債証書発行条例 (秩禄処分
  特権であった家禄の支給を廃した。
  華族484人・士族40万8800人余へ家禄支給を廃し、代り
 に金禄公債支給の条例を制定した(太政官布告108号)。
  これによって、封建支配層としての領主・武士層は、
 消滅した。
  彼らは、すべて公債を所有する利子生活者となり、士
 族たちの特権が奪われた。
  秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が、1876
 年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策で、
  秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と、維新功労
 者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。
  金禄公債(きんろくこうさい)は、1876年、明治政府
 が金禄公債証書発行条例に基づいて発行した公債で、江
 戸幕府の家禄制度を廃止する代償として、旧士族に交付
 した。
  発行総額は、約1億7390万円だった。
  この措置は、1869年(明治2年)の版籍奉還と、
  1871年明治4年)の廃藩置県とともに、
  封建的身分関係を崩壊させるものであった。
  歳出の約3割にも達っしていた秩禄支給の負担が軽減
 され、近代化を進める政府の財政を助けた。
  この公債は、窮乏した士族が、すぐ手離さないよう当
 初は売買が禁止されていたが、
  1878年9月に、この禁が解かれると、多くが商人らへ
 その権利が売られ、商人の手に渡った。
1876年9月22日(明治9年8月5日)政府の財政難から鉄道払
 下条約の契約が成立した。
  大蔵卿・大隈重信および工部卿伊藤博文華族組合・
 九条道孝ほか25人との間に、鉄道払下条約の契約が成立
 した(お金を持っていた華族層が購入した)。
  日本の鉄道政策は、1869年12月(明治2年11月)の三条
 邸におけるイギリス公使パークスと三条、岩倉、大隈、
 伊藤等の対談の日に始まった。
 この日に、誰が、どこに鉄道を建設し、経営するかが決
 められた。
 明治政府は、巨大な財力を持つ諸大名を統括し、産業を
 開発して、『富国強兵』を実現するための手段としての
 鉄道を、
  政府以外のものの手に委ねることは考えていなかった。
  また、パークスも、それを勧めた、それは、パークス
 は、建設費のための外債を引受けるつもりなので、政府
 でなければ信用できないからだった。
  かつ、イギリスでは、小規模の民営鉄道で発足したの
 で、いろいろの障害を生じたことも知っていた。
  明治の俊英たちは、イギリスを我が方につけ、商売を
 適宜(てきぎ、状況に合わせ、適当)させて、また、知
 識を、うまく出させていた。
 この時、東京〜京都〜神戸間と敦賀〜琵琶湖岸間、それ
 に、すでに江戸幕府に出願があった東京〜横浜間が計画
 された。
 高島嘉右衛門(たかしまかえもん、横浜の実業家、京浜
 間鉄道敷設の必要性を伊藤博文大隈重信に説明してい
 た)は、
  1871年明治4年)東京〜青森間、1872年(明治5年)
 東京市内の外濠循環線を出願していた。
 江戸時代の我が国の交通は、道路と船によっていた。
 道路で、車を使用することは禁止され、駄馬、または、
 駕龍によるほかはなかった。
 道路は、東海道(江戸〜桑名〜京都)、中山道(江戸〜
 薮原〜京都)、中仙道(木曾街道)、奥州街道(江戸〜
 白石〜三厩)、日光街道奥州街道、宇都宮〜日光)、
 甲州街道(江戸〜甲府〜岩淵)の5街道をはじめとして、
 多数の脇街道もあり、
  蝦夷地(北海道)以外は、一応、道路網ができ上って
 いた。
 上記の鉄道敷設予定区間は、旧街道に沿って計画されて
 いるが、琵琶湖畔〜敦賀間は別だった。
 汽船・汽車、すなわち船舶と鉄道は、いずれも近代化さ
 れた交通機関となっていたので、これを併用しようとし
 たのは当然だった。
  東京〜青森間は、東京〜兵庫間と同様の縦貫線である
 以上に、北海道との連絡を持つ重大な使命があった。
  明治政府は、未開発の各種資源に富む北海道に深い関
 心を特っていて、その開発のため“開拓使”という官庁
 を特設していた。
  高島は、岩倉具視に自分の意見を進言し、賛同を得た。
  1872年12月(明治5年11月)政府は、小野友五郎に予定
 線を踏査させた。
  また、1870年(明治3年)秋には、東京〜京都間を引続
 いて踏査させた。
  1870年(明治3年)京都府は、敦賀〜琵琶湖畔でなく、
 敦賀〜京都間とするように建議し、政府の賛同を得た。
 海陸運の併用の方針によって、東京〜兵車間の鉄道は、
 中山道経由と予定された。
 1874年8月(明治7年7月)技師長V・ボイルは、中山道
 線と、その途中から分れて、新潟に至る線路を踏査した。
  開拓使もまた、独自の立場から、1881年1月(明治13年
 12月)J・クロフォードに命じ、青森〜東京間を再調査
 している。
 1881年2月(明治14年1月)日本鉄道設立に際し、岩倉は、
 これらのほか、九州の大里(現在の門司)から長崎に至
 る線と、
  その途中から分れて、肥後(現在の熊本県一円)に至
 る線を予定線として計上した。
  岩倉は、また、敦賀〜富山、長浜〜四日市間の東北鉄
 道も計画した。
  創立願には“而シテ海路ハ又、危険非常ニシテ”と日
 本海岸の冬季の航行難を理由の一つにしていた。
  井上は、坂井(現在の三国)・伏木の河港の間に線路
 を新設し、
  敦賀〜坂井、伏木〜北海道間は、船舶を利用するよう
 勧奨し、
  長浜〜四日市間は、長浜〜武豊間に変更して、鉄道局
 が建設することにした(海陸運併用の考え方の典型的な
 もの)。
  明治政府の財政状態は、鉄道を全部官設にすることは
 不可能だった。
  東京〜横浜間鉄道でさえ、1876年9月22日(明治9年8月
 5日)のこの日、華族組合に年賦払下げを契約している。
 大隈は大蔵省、伊藤は工都省の最高責任者であり、
  契約にも政府側を代表して記名調印した。
 その世話は井上馨がやっていた。
 華族は、一般資本家とは異なったものという観念はあっ
 たが、金のない政府の財政状態を示していた。
  東京〜高崎間の中山道線(京都へ結ぶ目的の線)も着
 工に至らなかった。
  (着工されたものの工期と工費が、当初の見込みを大
 幅に上回る事が判明したため、東京〜京都を結ぶ幹線鉄
 道としての東海道線の建設を行なう事に方針が変更され
 た)。
  岩倉の推進していた日本鉄道の計画が、1880年7月15日
 (明治13年)に至り、やっと結実した。
  (1878年4月(明治11年)に、1000万円分の国債を発行
 して、このうち鉄道建設費に213万9914円を割り当て、
 京都〜大津間と、米原敦賀間をいよいよ着工すること
 になった。
  この段階では、まだ、東西連絡幹線の全区間に着工す
 ることはできず、とりあえず本州横断路線を建設するこ
 とになったのであった。
  京都から馬場(後の膳所)間は、1880年明治13年
 7月15日に全区間が開通し、
  それまでの建設工事と異なり、お雇い外国人の助けを
 借りることなく、養成に努めていた日本人技術者の手だ
 けで初めて開通する鉄道路線となり、
  当初の見積もりに比べて約2割の工費節約も実現した)
  政府の願いは、一日も早く鉄道を完成することが第一
 だった。
  日本鉄道の主な出資者は、華族だったが、
  民間の出資もあり、財政当局は、その経費が浮くこと
 になり、大いに賛成された。
  財政難で、東京〜横浜間鉄道さえ手離そうとした。
  その為、こうした形でなければ1891年10月(明治24年
 9月)東京〜青森間鉄道を全通させることは事実上、不可
 能だった。
  大阪〜堺間の鉄道は、1872年(明治5年)から計画され、
 1882年6月(明治15年5月)出願したところ、監督官庁
 工部省では、「単ニ大阪府内ニ止リ且其性質普通ノ鉄道
 ト異ル」ものとして、大阪府限りで処理するように指示
 した。
  軌間も838mmであり、一地方の交通のみを目的とするも
 のと判定されたからだった。
  この他、地方的なものとして馬車鉄道は、設備も簡単
 なので広く各地に敷設された。
  鉱山用の専用鉄道は、1869年(明治2年)から、土木工
 事用の仮設鉄道は1881年明治14年)から敷設され、機
 関車を使用するものもあった。
  日本の発展の基盤づくりの一つ運輸が、確実に達成さ
 れて行った。
  日本人の誠実さと勤勉さによる努力が結実して行った。
1876年8月14日、札幌農学校が設立された。
  札幌学校が、札幌農学校と改称して開校式を挙行した。
  初代校長に調所広丈、教頭にマサチューセッツ農科大
 学学長のウィリアム・スミス・クラークが招かれた。
1876年8月19日、水夫の名称を改め水兵とした。
1976年8月26日(7月7日)明治天皇陛下が、奥羽巡幸
  盛岡の馬匹4500頭を御覧給い、畜産を奨励し給う。
  1876年7月22日(明治9年6月2日)明治天皇陛下は、奥
 州街道を北上して奥羽(おうう)巡幸へと向われた。
  49日間におよぶ巡幸となった。
  明治維新に際し、奥羽諸藩の多くは、新政府に最後ま
 で抵抗していたため、国内の安定という意味で、今回の
 巡幸は待望されていた。
  聖徳記念絵画館壁画「奥羽巡幸馬匹御覧(おううじゅ
 んこうばひつごらん)」の絵は、1976年8月26日(明治9
 年7月7日)、天皇陛下が、岩手県の盛岡八幡宮にお立ち
 寄りになり、境内(けいだい)に設けられた天覧(てん
 らん)所で県産の馬を御覧になっている様子であるが、
  4、5百頭もの馬の行列が続き、軍馬術や豊年踊りが
 披露された。
  当時、日常的にも、そして、農事や軍事的にも、馬は、
 重要な役割を果していた。
  そのため、天皇陛下は、馬事に御関心を持たれ、馬の
 改良を奨励された。
  そして、奥羽巡幸では、各地で産馬を御覧になった。
  天皇陛下の愛馬として特に知られているのが「金華山
 号(きんかさん)」という名の南部馬で、
  奥羽巡幸の道中、岩手県の水沢で買い上げになり、最
 も活躍し、愛情が注がれた御料馬(ごりょうば)だった。
   のる人の心をはやくしる駒は
     ものいふよりもあはれなりけり (明治35年
  もの言わずとも背に乗る主の心の内を汲みとる馬のい
 じらしさ、かわいらしさを詠(よ)まれた御製。
  天皇陛下にとって、馬への愛着は格別だった。
1876年8月31日、海軍提督府を廃し、東海、西海両道に鎮守
 府を設置した。
  海軍提督府(かいぐんていとくふ)は、旧海軍の機関
 で、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄し、その前身
 は、1871年(明治4年)兵部省内に設置された。
  1875年に、日本周辺を東西の2海面に分け、東西両指揮
 官の指揮下に置くことになり、
  1876年に、東海、西海の両鎮守府を設置することにな
 った。
1876年8月31日、『柳橋新誌(りゅうきょうしんし)』(成
 島柳北)と『東京新繁昌記(とうきょうしんはんじょう
 き)』(服部誠一)が発売禁止になった。
  柳橋新誌は、漢文戯作体の随筆集で、1874年に刊行さ
 れ、1876年に三編が成ったが、発行停止(文部省から発
 行差し止め)となった。
  二編が、特に、柳橋の花柳街を舞台にして、江戸から
 明治への人情、風俗を描いているが、明治文明に対する
 見方が、物質万能の明治の文明開花だと見て、また、卑
 俗で浅薄だと見て、その側面を辛辣に批判した。
  表現は自由であるが、明治の偉人の努力や汗を、売ら
 んかなで批判した(よく欧米に追い付け、蹂躙されるな
 と努力する姿は見えなかった様だ)
  また、薩長の政府高官の無風流を低俗に揶揄(やゆ)
 した。
  東京新繁昌記は、随筆であるが、明治維新後の文明開
 化の波に洗われる東京の世相・風俗を、
  破格の漢文戯作体で書き綴ったコント風の記録となり、
 また、人情小説的に、著名人の艶聞や政治への諷刺批評
 を縦横に記し、大きな反響を得た。
  揚げ足取りの三文記事だった。
  努力する皆を横目で見て、批判を口すさんだ。
  今でも、テレビという絶大なる放送媒体を私物と化し、
 まったく、深い意味合いのない論理を展開し、我が物の
 様に使っている公共放送がある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive