(増補版)289E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月〜1869年2月)

題:(増補版)289E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年12月〜1869年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1868年12月14日(明治元年11月1日)観音埼灯台(かんのん
 ざきとうだい、初の洋式灯台)が着工した。
  日本最古の洋式灯台として神奈川県横須賀市、三浦半
 島東端の観音崎に立っている。
  1869年2月11日に、完成し点灯した。
  1866年(慶応2年)、米英仏蘭と結んだ「改税条約」
 (江戸条約)によって建設を約束した8ヶ所の灯台(条約
 灯台)の1つ。
1868年12月16日(11月3日)、徳川民武大輔が、仏国より帰
 朝(氷川清話)
  徳川昭武(とくがわあきたけ)が、1868年10月18日(
 9月4日)に、マルセイユを出航し、
  12月16日(11月3日)神奈川に到着した。
  1869年には、水戸徳川家を相続し、藩主に就任した。
1868年12月17日(11月4日)東京遷都祝賀大会
1868年(11月9日)勝海舟、至急ご用あり、昼夜兼行出府
 仰せつけられる。
  行政官御達を受く。
  即日、駿府出発、11日東京着、これは、脱走軍艦処置
 の為(氷川清話)
1868年12月22日(11月9日)東京互市場を鉄砲洲に開き、外
 国事務局と称す(後の東京運上所)
  東京税関のホームページには、税関の前身として「運
 上所」が設けられ、運上事務及び外交事務を取り扱った
 と説明され、
  東京港における税関の歴史として慶応3年10月に、幕府
 によって、江戸築地鉄砲洲(現在の中央区明石町)に設
 けられたと書かれている。
  慶応3年10月は、1867年11月になる。
  また、中央区のホームページには、明治元年12月に、
 東京運上所として造られた建物・・云々と説明してあり、
 明治元年12月は、1869年1月となる。
1868年12月28日(11月15日) 開陽丸が、座礁し沈没す。
1868年12月31日(11月18日)新嘗祭奉拝の儀、東京城(江
 戸城)にて挙行された。
  新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)は、、「新」
 は新穀を「嘗」はご馳走を意味し、新穀を得たことを神
 さまに感謝する。
  天皇陛下が、宮中で感謝を込めて新穀を神々に奉ると
 上もに、御自らも召し上がる。
  新嘗祭の起源は古く、『古事記』にも、天照大御神
 新嘗祭を行ったことが記されている。
  命の糧を神さまからいただくための勤労を尊び、感謝
 をしあうことに由来している。
1868年、旧物打破の風潮が盛んになり、古美術が顧みられ
 ず。
  すべてが「ご一新」の風潮の中で、荒波が吹きまくっ
 た。
  旧物否定の風潮、仏教関係の建造物等の破壊となった。
  新物輸入が素晴らしいと、盲目の風潮の中にあった。
1868年、ヘボンが、日本最初の和英辞典を完成した(ヘボ
 ン式ローマ字の綴り)
1868年、アメリカのナバホ・インディアンは、
  西部開拓時代に、連邦政府と一族の命運をかけた戦い
 を繰り返すという悲惨な時代を過ごした。
  和平条約が結ばれたのは、1868年だった。
  以来、このアメリカの本当の所有者である先住民の方
 々は、アリゾナ州の北東部に与えられた自治区で細々と
 暮らす事を余儀なくされた。
1868年、カルロス・グリッテンが、タイプライターを発明
 した。
1868年、ロシアが、ブハラ・ハン国保護国とした。
  ブハラ・ハン国は、中央アジアにあったウズベク人の
 国。
  ブハラを首都にイスラム教学と商業の中心地だった。
  18世紀末から、ロシアとの商業関係が深まるとともに
 国内統一が進展したが、ロシアの中央アジアの植民地化
 を目指す行動に敗れ、保護国になった。
  1920年に至り、ロシア革命と合流し、ブハラ人民ソビ
 エト共和国(1920年1924年)の樹立となった。
1869年1月1日(明治元年11月19日)旧幕府軍追討令が出
 された。
1869年1月1日(11月19日)函館地方、占拠される。
1869年1月1日(11月19日)東京が開市する。
  築地に外国人居留地が設けられた。
  外国人を対象とした新島原遊郭ができる。
1869年1月1日(11月19日)新潟港開港
1869年1月1日(11月19日)燈明船、初めて横浜に設置。
1869年1月5日(11月23日)徳川昭武が、東京城天皇陛下
 に御拝謁をした。
  徳川昭武が、パリからの帰国して「東京城」と名を改
 めた江戸城で、天皇陛下に御拝謁をした。
1869年1月6日(11月24日)徳川昭武に函館討伐を命ず。
1869年1月7日(11月25日)勝海舟、往復10日の御暇で帰藩
 (氷川清話)
1869年1月9日(11月27日)来月上旬には京都へ還幸すると
 の発表があったが、同時に、来春には東京へ再幸するこ
 とが発表された。
  この事は、明らかに、天皇陛下=政府が、京都よりも
 東京を重視しているという事を一般に印象づけるもので
 あった。
1869年1月16日、東京府知事・第2代の大木喬任(たことう)
 が就任した。
  この東京府知事大木喬任(たことう)が、山の手の
 武家地・300万坪に桑やお茶を植えろと奨励した。
  武家屋敷地の荒廃であった。
  それは、江戸全体の7割を占める武家屋敷が、もういら
 なくなり、どんどん荒廃し、盗賊の住処になったりした
 からで、
  開城間もない頃の江戸城の写真を見ると、瓦は崩れ、
 壁がはげ、文字道り崩壊という感じがする。
  慶喜だって、在職中の2年数ヶ月の間、江戸城に入った
 ことはなく、
  天皇陛下の東幸時も、本丸の二の丸も、幕末に焼失し
 たままで、
  残った西ノ丸を皇居にしたぐらいであった。
  東京(江戸)の地は、願書を届け出さえすれば、土地
 は、桑や茶を開墾する人たちに貸し出された。
  また、あるいは、ただ同然に払い下げられた。
  南青山の土地が、千坪単位で売りに出されて15円、1坪
 1銭5厘だった。
1869年1月17日(12月5日)勝海舟、出府(氷川清話)
1869年1月18日、国是を決める大会議を開催
  この日、国是を決める大会議を開催するから、藩主・
 府県知事は、4月中旬まで東京に参集する様にと命ぜら
 れた。
  明治初年は、王政復古という事で、太政官の高官は平
 安時代の格好をしていた。また、平田派の廃仏稀釈運動
 があった。
1869年1月19日(12月7日)陸奥国を分って磐城、岩代、陸
 前、陸中、陸奥の五国とし、
  出羽国を分って羽前、羽後の二国に定む。
1869年1月20日(12月8日)明治天皇陛下、東京を発輦、京
 都へ還幸。
  旧暦12月22日に、京都に帰られた。
1869年1月23日(12月11日)徳川昭武が、新藩主として水戸
 へ下った。
1869年1月24日(12月12日)勝海舟、御用あり、滞京を仰せ
 つけられる。
  官命により幕臣の総員を調査し、併せて旗本8万騎の
 理由を述べる(氷川清話)
1869年1月27日(12月15日)蝦夷共和国の成立
  榎本武揚旧幕府軍が、蝦夷地を平定し、占領した。
  箱館政権を樹立し、蝦夷共和国が成立した。
  総裁が、入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚
 が総裁となった。
  榎本は、1869年1月13日(12月1日)に、蝦夷地の開拓
 を求める嘆願書を、イギリスおよびフランスの軍艦に託
 したが、両国公使から嘆願書を受領した右大臣・岩倉具
 視は、1869年1月26日(12月14日)、これを却下した。
1869年1月、徳川慶喜、罪を許される。
  徳川慶喜、謹慎を免ぜられ、1月、静寛院宮、京都に移
 られる(氷川清話)
1869年1月、公撰の法を設け、輔相、議定、参与登庸(氷川
清話)
  公選というよりも互選で、官吏を選んだ。
  また、別史料には、
  「1869年(明治2)5月13日、天皇の詔(みことのり)に
 よって行われた官吏の選挙。
  三等官以上の上層官吏の公選によって、
  輔相(ほしょう)1名、議定(ぎじょう)4名、参与6名のほ
 か、神祇(じんぎ)、民部、会計、軍務、外国、刑法の六
 官知事・副知事と内廷職知事を決めた」とある。
1869年1月、太政官制定(氷川清話)
  太政官(だじょうかん)は、明治維新が開始された慶
 応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された
 最高行政機関である。
  立法・行政・司法の機能を備えていた・・とある。
1869年2月1日(12月20日)沼津兵学校の開設
  沼津兵学校は、1868年(明治元年)、フランスに倣っ
 た軍隊を目指すという目標を掲げ、駿河国沼津の沼津城
 内の建物を使って徳川家によって開校された兵学校のこ
 と。
  受講資格は、徳川家の家臣である14歳から18歳という
 ことが原則ではあった。
  しかし、他藩からの留学生もいたといわれる。
  初代学長は西周であり、教師は優秀な幕臣の中から選
 ばれた。
  1870年(明治3年)に兵部省の管轄となった・・とある。
1869年2月3日(12月22日)明治天皇輦駕、京都に還幸
1869年2月3日(12月22日)歳末年始の官庁休暇制定
1869年2月4日(12月23日)渋沢栄一が、静岡で徳川慶喜
 拝謁した。
  渋沢栄一は、パリから帰国し、この日、静岡で徳川慶
 喜に拝謁した。
  翌日、静岡藩勘定組頭に任じられた。
  新しい時代が始まった。
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  付録:今日の言葉:
  「目視検査だけで点検するのは、『落ちるまで安全』
          と言っているようなもの」。
  解説:目視検査だけで「落ちる」「落ちない」の判断
   が、できる訳がない。
    国をはじめ公的機関は、目視検査だけで危険のチ
   ェックが、「できる」という考え方をして、検査基
   準を決めている。
    笹子トンネルの落下事故のゆるんだボルトが、目
   視検査で発見できなかった事を学んでいない。
    国民の命のリスクは減少していない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive