(増補版)271E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年6月〜1867年9月)

題:(増補版)271E1/3:気になった事柄を集めた年表(1867年6月〜1867年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1867年(慶応3年)7月、勝海舟、長男・小鹿、米国留学の
 ため出発(氷川清話)
1867年7月上旬、土佐藩は、「亀山社中」を「海援隊」(隊
 長:坂本龍馬)と称し、藩の付属にした。
  ここに、坂本龍馬海援隊長としての活躍がはじまる。
  外国を視野に入れた大きな夢がスタートした。
  しかし、竜馬の暗殺もあり、1868年(慶応4年)4月27
 日、「海援隊」は解散する。
  また、同時に、「土佐商会」も閉鎖された。
1867年7月10日(6月9日)坂本龍馬後藤象二郎が、上洛の
 ため、長崎を出帆した(この航海の途上、坂本龍馬は、
 「船中八策」を提唱した)
1867年7月11日頃、船中八策
  坂本龍馬が、土佐藩の参政・後藤象二郎大政奉還
 含む船中八策を提示した。
  これには、新国家体制の基本方針が示されている。
  坂本龍馬は、いろは丸沈没事件を解決させたのち、京
 都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対し
 て大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で、長崎を
 出航し、
  この上洛中の洋上で、参政の後藤象二郎に対し、口頭
 で提示したものを、そばにいた海援隊文司の長岡謙吉が
 簡潔に書きとめ、成文化した。
  (別史料:後藤象二郎が、山内容堂から大政奉還に備
 えての上京を命じられたため・・となっている)
 一、大政奉還:天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令
     シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
 一、上下議政局:上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機
     ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
 一、有材之人物登用:有材ノ公卿諸侯及天下ノ人材ヲ顧
     問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官
     ヲ除クベキ事。
 一、外国トノ交際:外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至
     当ノ規約ヲ立ツベキ事。
 一、無窮ノ大典(憲法)撰定:古来ノ律令ヲ折衷シ、新
     ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
 一、海軍拡張:海軍宜ク拡張スベキ事。
 一、御親兵帝都守衛:御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシム
     ベキ事。
 一、金銀物貨外国ト平等(対等条約):金銀物貨宜シク
     外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
  以上八策ハ、方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ
 徴スルニ、之ヲ捨テテ他ニ済時ノ急務アルベシ。
  苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、
 万国ト並立スルモ亦敢て難シトセズ。
  伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天
 下ト更始一新セン。
  坂本龍馬は、「このほかに策はなし」と断言した。
  これは、横井小楠の「国是七条」の思想を色濃く反映
 していた。
  この二人は、1867年7月13日(6月12日)に、兵庫に上
 陸し、1867年7月15日(6月14日)に、後藤象二郎は、京
 都に入り、夜遅くには、藩論としてまとめ上げられた。
  そして、1867年7月16日(6月15日)に、成案を得て、
 1867年10月29日(旧暦、10月3日)に、この成案を基にし
 た大政奉還の建白書が幕府に提出された。
  そして、この後、明治新政府の大方針を示す「五箇条
 の御誓文」へと繋がり、新政府樹立後の国政の指標とな
 った。
  坂本龍馬は言う・・、「船中八策」を披露した坂本龍
 馬は、今までの意見とは違うじゃないかと言われて、
  「昨日までの俺は、今日の俺じゃない」・・と、言っ
 たという。
1867年、プチャーチンとの交渉を見事に収めた川路聖謨
 としあきら)。
  有能な武士と言われた。
1867年、坂本龍馬は・・、桂小五郎は・・、
  竜馬自身、土佐の勤王派を弾圧した仇敵の後藤象二郎
 と手を組み、亀山社中海援隊に編成し直し、「船中八
 策」を示して、後藤に大政奉還の献策を示している。
  竜馬は、大目標の為には、仇敵とも手を結んだ。
  国元の姉の乙女から「おまえは利に眼がくらみ、後藤
 などと手を組んで、天下国家の事を忘れたか」の手紙を
 貰ってもいた。
  土佐24万石をバックに、後藤に演じてもらうためなら
 ば・・、
  「船中八策」には、幕府が政権を返上した後の、国の
 政治の在り方が、実に、具体的に述べられていた。
  竜馬の描いた新国家の青写真は、鮮明だった。
  議会制度を設け、人材を広く募り、諸外国との条約を
 改正し、新憲法を制定し、海軍を充実させ、通商貿易の
 レ−トを正して、諸外国と対等に行動できる国家をつく
 る。
  この竜馬の示した国家構想を下敷きにして、明治の指
 針「五箇条の御誓文」が作成された。
  これは、西郷や木戸(桂小五郎)にもできなかった事
 だった。
1867年7月15日(6月14日)薩長土の三藩の志士・西郷隆盛
 大久保利通後藤象二郎ら王政復古を議す。
1867年7月23日(6月22日)後藤象二郎坂本龍馬ら、西郷
 隆盛・大久保利通らと会見(大政奉還の薩土盟約を結ぶ)
1867年7月26日(6月25日)土佐藩士・中岡慎太郎、坂本龍
 馬と共に岩倉具視を訪ね、王政復古を論ず。
1867年8月5日、長崎で、イギリス船のイカラス号の乗組員
 達が、日本人の歓楽街へと繰り出し、酒を飲んだ。
  イギリス人の2人が酒に酔い、道に寝込んだ。
  仲間たちは見捨てて、そのまま放置してしまった。
  この二人は、日本の侍に切り殺されて見つかった。
  不逞の輩と切り捨て御免にしたのだろうが、坂本龍馬
 の率いる海援隊がしたとの話となって行く。
  イギリスは、この土佐侍の逮捕を要求したが、日本は
 証拠がないとして拒否した。
  イギリス総領事のパークスは、アーネスト・サトウ
 団長とする代表団を派遣して調査をした・・が、立証で
 きる証拠を得る事は出来なかった。
  幕府は、長崎奉行が事件を解決できないと責任を問い、
 奉行を解任した・・しかし、イギリス側は納得しなかっ
 た。
  1868年(明治元年)の新政府に至っても、イギリスは
 犯人捜査の要求をした。
  後日談として、後に、土佐の役人が、筑前黒田藩の藩
 士(塾生)が下手人と突き止めた。
  そして、さらに後、この下手人は、事件直後、自刃し
 ていた事が判明した、
  そして、明治2年になって、筑前の仲間たちが投獄され、
 筑前藩主は蟄居し、殺された遺族に賠償金の支払いが命
 じられた。
  尚、事件直後の8月18日に、坂本龍馬海援隊士が、長
 崎奉行に出頭している。
  また、尚、この年に、イギリス人2名が、許可なく雲
 仙を登山し、小地獄で捕らえられ、長崎へ護送されてい
 る。
1867年8月7日(7月8日)兵庫開港のため、国産改所を京都
 及び大阪に設置して物産検査の制を定めた。
1867年8月9日(7月10日)江戸の四門、品川、千住、板橋、
 新宿の四駅廃され、江戸の出入り自由となる。
1867年8月23日(7月24日)英国公使・パークス大阪に入り
 て、老中板倉勝静らと会見する。
1867年8月26日(7月27日)徳川慶喜が、英国公使パークス
 と会見した。
  徳川慶喜以前の将軍は、老中を前面に立たせていた。
1867年8月〜12月、ええじゃないか
  名古屋地方に「ええじゃないか」が起こり、各地に波
 及して行った。
  「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前
 触れだ」・・という話が広まるとともに、
  民衆が仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」
 などを連呼しながら集団で、町々を巡って熱狂的に踊っ
 た。
  平成の「ハロウィン」のようなもの。
  討幕派が、国内を混乱させるために引き起こした揺動
 作戦だったという説がある。
  平成のハロウィンは、キリスト教のお祭りで、
  「キリスト教の巧妙なる伝道行為」となっている。
  嬉々としてキリスト教徒が駆け付けている。
  日本をキリスト教化したいと、近隣アジアからも日本
 見物を兼ねて、キリスト教徒が来ている。
  一般大衆は、それに乗せられ、商店街は一時の利を求
 めて加わっている。
1867年9月8日(8月11日)幕府、従来の飼鷹を廃す。
1867年9月10日(8月13日)幕府、ベルギーと通商条約締結
1867年9月18日(8月21日)桂小五郎坂本龍馬ら、長崎に
 おいて公儀政体を論じ、その貫徹を期す。
1867年9月、幕府の勝房州登庸は困る
  慶応三年八月(1867年9月)、土佐の佐々木高行が、
 長崎へ行った時、その旅宿に、坂本龍馬が、毎夜の様に
 やって来て、徹夜で倒幕の議論をし、泊っていった
  ある時、竜馬は言った、「今日、幕府において勝房州
 を登庸されては、吾々同志に一の城郭を築くもので、実
 に由々しき大事である。
  僕は、房州には、非常に恩顧を受けて居るから、之を
 敵とする事は出来ぬ。
  君等宜しく注意して、其間に策略を施して、彼が驥足
 (きそく、才能の優れた人、足の速い馬の意)を伸ばさ
 ぬようにして呉れ」と。
  この一言は、倒幕派の薩・長・土の志士たちが、徳川
 方における最強の相手として勝を見ていたことを物語る
 ものである(氷川清話)
1867年8月14日、原市之進(はらいちのしん)、暗殺さる
 (氷川清話)(1830年〜1867年)
  水戸藩士で、藤田東湖に学び、また、昌平黌(しょう
 へいこう)に学んだ。
  一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍職につくと目付となり、
  兵庫開港をとなえ、この日に、部下の幕臣に暗殺され
 た。38歳。
1867年9月6日(8月9日)、築地ホテル着工
  築地に「築地ホテル館」と呼ばれる日本初の本格的ホ
 テルが着工された。
  これは、小栗忠順おぐりただまさ、幕臣)の発案と
 主導のもとに清水喜助(清水建設の創業者)らが建設し、
 翌年・1868年9月25日(8月10日)に完成した。
  江戸に来る外国人のための宿泊、交易場として建設さ
 れた建物で、
  江戸は開港場でなく開市場であるため、外国人が商館
 を建てることが出来ず、
  外国人旅館が建設されたのである。
  敷地は、かつての紀伊尾張家の屋敷地だった所で、
  後に、軍艦操練所となった地である。
  建物の設計者は、アメリカ人の建築家R・P・ブリジ
 ェンスで、後に、新橋や横浜の停車場(明治5年)を設計
 した人物。
1867年秋ごろ、大阪城の皇城説
  秋ごろになると、国威をいっそう外国へ輝かすために
 は、万事不便な京都ではなく、「帝都」を大阪に移すと
 いう意見が、現実味を持って語られた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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