(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月〜1866年5月)

題:(増補版)267D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1866年1月〜1866年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1866年(慶応2年)1月1日、横須賀製鉄所(後の横須賀海軍
 工廠)の建設が開始された。
1866年1月7日、長州藩藩主・毛利敬親(もうりたかちか)
 が、京阪の視察として、桂小五郎を上洛せしむ、品川弥
 二郎これに従う 。
1866年1月7日、膳所尊王党の切腹(森祐信以下10名に切
 腹を命じる)
  膳所藩(ぜぜはん):近江国大津周辺(現在の滋賀県
 大津市)に存在した藩。
  尊王攘夷の派が、反対派のために罪を問われた。
  全国の各藩とも、その思想的に帰する所に迷っていた。
  幕府及びその徳川周辺でさえ内紛がひどい状況だった。
  日本中がその様な中に起きた尊王派処分の事件だった。
1866年2月28日、高島秋帆(たかしましゅうはん、砲術家
 が没した(1798年〜1866年)
  高島秋帆没す(氷川清話)
1866年3月7日、薩長同盟(3月6日説あり)
  京都で、西郷隆盛小松帯刀桂小五郎が会談し、
  薩摩藩長州藩の同盟が成立した(政治的、軍事同盟)。
  坂本龍馬(31歳)が立会いのもと、長州の桂小五郎
 薩摩の西郷隆盛との間で、京都の小松帯刀邸(上京区
 で締結された。
  明治維新への導因となった同盟だった。
  無私の精神の一脱藩浪人の竜馬と、
  藩意識の捨てきれない西郷と桂小五郎(木戸)の、初
 めから終わりまで、張り合いする中で成立した。
  両藩は、1年半前までは、なにしろ、禁門を挟んで血を
 流しあった仇敵同士だった。
  疑心暗鬼は、根深いものがあり、やむを得ない面もあ
 った。
  その閉塞状態を、竜馬が、風穴を開けたのだった。
  「共に目指す目標は同じ」の言葉を竜馬は言った。
  長州藩は、天保の改革当時から、藩政の実権が、保守
 から急進の間を揺れていた。
  めまぐるしく、その政策が転換するという状況だった。
  公武合体だった薩摩藩の西郷(33歳)も、一転して、
 盟約を結び、倒幕体制を整えて行った。
1866年3月7日、薩長同盟成立の意義・・、
  長州藩にとって、幕府との一戦は必然の中にあり、ま
 た、その様な流れを生んだ歴史の中にあった。
  その為に、大村益次郎の指導の元に軍制改革を進め、
  軍制改革に励む長州藩だった。 
  それ故、長州軍にとって、薩摩藩から供与された西洋
 小銃、及び、弾丸などは貴重だった。
  貿易を禁じられていた長州藩にとって、喉から手が出
 るほど欲しかったものだった。
  この供給は・・長州を救った。
  これまで仇敵の間柄だった薩摩藩と、長州藩は、急接
 近する。
  そして、この関係は、西洋小銃供与の返礼として、長
 州藩から薩摩藩へ、兵糧米が輸出されたのを受け、この
 関係改善は益々高まって行った。
  そして、1866年3月7日のこの日に、薩摩藩の意向を受
 けた坂本竜馬と、
  長州藩の意向を受けた中岡慎太郎(坂本と中岡は共に
 土佐藩の脱藩浪士)を仲立ちにして、薩長同盟は結ばれ
 た。
  この薩長同盟による西洋小銃・弾丸の供給は、大村益
 次郎の軍制改革による、長州軍の小銃隊(歩兵化)は進
 んだ。
  しかし、全長州軍に、西洋小銃(特に、ミニエー銃)
 を装備させるには、先に薩摩藩の斡旋により供与された
 だけでは、まだ不足していた。
  また、近代戦を行うには、膨大な弾丸を消費すると考
 えていた大村にとっては、長州藩内で弾丸の生産工場を
 設けていた。
  しかし、まだ、その生産力は、心もとないものを感じ
 ていた。
  そんな大村にとって、この薩長同盟によりより多くの
 ミニエー銃と、その弾丸・雷管の新たな入手先が生まれ
 た事は、これから、幕府軍と戦かう作戦を立案していた
 大村にとっては、うれしい限りだった。
1866年3月9日、寺田屋騒動(坂本龍馬襲撃事件)
  この日、慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩
 長同盟の会談を斡旋した直後に・・、
  薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行の林
 肥後守忠交の捕り方が、捕縛ないしは、暗殺しようとし
 た(寺田屋遭難とも言う)、
  龍馬や、長州の三吉慎蔵らは、深夜の2時、幕府伏見奉
 行の捕り方30人ほどに囲まれた。
  いち早く気付いたお龍は、風呂から裸のまま裏階段を
 2階へ駆け上がり、投宿していた龍馬らに、危機を知らせ
 た。
  捕り方は、「肥後守(奉行)よりの上意」であるとし
 て迫り、
  踏み込まれた龍馬らは、「(奉行の権限の及ばない)
 薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られ
 た。
  龍馬は、高杉晋作からもらった拳銃で、
  三吉は、手槍を用いて防戦して、
  捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。
  しかし、捕り方が、拳銃を持つ手を刀で払おうとして、
 龍馬は、手の親指(左右)を負傷した。
  装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で
 応戦する間に、辛くも家屋を脱出し、路地を走り、材木
 屋に隠れた。
  三吉は切腹しようとしたが、龍馬に止められて、伏見・
 薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。
  薩摩藩邸にいた留守居役・大山彦八は、藩士3名をつれ
 て、川船を出し、救出に向かった。
  龍馬は、九死に一生を得ることができた。
  すぐに、京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸
 輔が早馬で伏見に来て、事情を調べ、
  西郷は、軍医を派遣し、治療に当たらせると共に、藩
 邸を警護させた。
  翌日、薩摩藩邸は、龍馬に対する伏見奉行からの引き
 渡し要求を受けたが・・、拒否した。
1866年3月16日、アーネスト・サトウが、ジャパン・タイム
 スに匿名で論文寄稿した。
  将軍を主権者と見なさないとする内容だった。
  後に、翻訳され『英国策論』と題されて出版された。
1866年4月13日、幕府が、長崎・神奈川・箱館に出稼ぎ、自
 由交易と、
  及び、商人の外国船舶の購買を許した。
1866年4月28日、松本良順(蘭学者)が、万国公法6冊を、
 14代将軍・徳川家茂へ贈った。
1866年5月5日、高杉晋作が、伊藤博文を連れて3度目の長
 崎へ行った。
  薩長同盟に加わるためだった。銅座町の薩摩屋敷へ。
  また、グラバーからオテントサン丸を買った。
  そして後に、オテントサン丸は、丙寅(へいいん)丸
 と命名され、幕府を向こうにまわして活躍した。
1866年5月17日、幕府は、長州と談判をして来たが、埒(ら
 ち)は開かず、
  幕府は、この日・5月17日、長州を代表する四家名の名
 代に対して、速やかに帰国して主人に伝え・・、
  1866年6月3日までに、請書を出すように命令を下した。
1866年5月18日、林甚六郎が、幕府の命に依り、三条実美
 下の五卿に対し、京都へ帰還を迫った。
  薩摩の大山格之助、黒田嘉右衛門等、西郷吉之助に代
 って、頑として五卿を渡さず。
1866年5月19日、毛利敬親が、形勢切迫せるを以て、緒隊の
 軍備を急ぎ、幕府軍対抗に備えた。
1866年5月21日、海外行き許可の認証に関する布告。
  幕府が、学術および商用や留学目的の海外渡航を解禁
 した(海外渡航を許した)。
1866年5月28日、薩摩藩は、正式に、第二次長州征討軍に参
 加しないとした。
  ここに至って、幕府は、長州藩の武力討伐に意を固め、
 その準備を進めて来たが、1866年5月10日に、改めて、長
 州藩主父子、及び、重臣に広島に出頭するよう命じた。
  長州藩は、既に、幕府軍との開戦はやむを得ないとし、
 時間稼ぎの交渉を続ける。
  戦闘準備のための時間が欲しい長州だった。
  1866年5月28日に、薩摩藩が、正式に、第二次長州征伐
 の参加ができないとした事により、薩摩藩に割り当てら
 れていた萩口の攻め口は、消滅する事となった。
  第二次長州征討は、芸州口・石州口・小倉口・大島口
 の4つの戦線で戦われる作戦だった。
  また、幕府は、長州藩の本拠である萩を、海路から、
 直接、攻撃することも考えていた。
  そして、それを、薩摩藩兵を、その主力にするつもり
 だった。
  この作戦予定も立たなくなった。
  この薩摩藩の出兵拒否は、第二次長州征伐に難色を示
 す諸藩にも影響を与えた。
  薩摩藩の様に、出兵を拒否する諸藩が現れる要因とな
 った。
  また、出兵拒否まではいかなくても、参戦しても戦意
 が無い藩が多く生まれる背景となった。
  長州藩としては、萩口からの攻撃が無くなったのは大
 きかった。
  それの戦力を、他の戦線に回すことが出来た。
  強大な幕府軍を迎え撃たなければならない長州軍にと
 って、その作戦を立てる大村にとって、多大なる恩恵を
 与えた。
  でも、まだ、この時に、長州へは、西国の諸藩を中心
 とした17藩が出兵して来ていた。
  この様な状況の中で、1866年7月11日を最終期限として、
 最後通告が長州藩に来た。
  長州藩は、この最後通告も無視した。
  ここに至り、1866年7月18日に、広島を出港した幕府海
 軍の軍艦・富士山丸から、長州藩領の上関に対して艦砲
 射撃が行われた。
  この事が皮切りとして、幕府軍は、山陽道から長州へ
 侵攻した(芸州口)、
  また、山陰道からも、長州へ侵攻する(石州口)、
  そして、九州から関門海峡を渡って長州に侵攻する(
 小倉口)、
  そしてまた、四国から瀬戸内海を渡って、長州へ侵攻
 する(大島口)、
  以上、幕府軍は、計四方面から長州藩への侵攻をした。
  萩口の薩摩藩の予定の侵攻は行なえなかった。
1866年、汎日本的立場に・・薩摩藩の西郷と大久保
  この年に、西郷と大久保は、島津の一家臣の立場から、
 『汎日本的立場に立つ行動』へ向かおうとする。
  西郷と大久保の黙契(もっけい、無言のうちに合意が
 成り立つこと)
  西郷の許(もと)へ赦免(1864年)の船が向けられる
 と、西郷は、京へ駆け上った。
  大久保に迎えられた西郷は、5年に亘る空白の鬱積(
 うっせき)を吐(は)きつけた。
  国の政治の中心は京であった。
  幕府は、尊王攘夷の反幕の嵐に立ち向かうかのように、
 将軍は、自ら、大坂に出て来ていた(1863年)。
  京に天皇、大阪に将軍で、畿内は、にわかに緊迫して
 いた。
  久光の標榜(ひょうぼう)する公武合体論は、革新性
 を失っていた。
  和宮の降嫁(1862年3月11日)によって、徳川家は、天
 皇家の姻戚(いんせき)となり、参台した将軍・家茂に、
 政務委任確認の勅が下されるに至って、幕府の存続・延
 命が助長された。
  西郷と大久保は、島津の家臣である事から脱け出し、
 汎日本的立場で行動しようとした。
  土佐の坂本龍馬の様に脱藩する気はない。
  二人は、薩摩藩という強力な組織を利用した。
  この時、西郷は38歳(1866年)、大久保は35歳。
  二人は、黙契を固めた。
  それは、一切の行動を勅命・勅許によって権威づける
 こと。
  そして、常に主導権を保つであった(参考:プレジデ
 ント平成10年7月号)
..
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