(増補版)233D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1843年〜1845年)

題:(増補版)233D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1843年〜1845年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1844年(天保15年)(弘化1年)1月、天保暦(てんぽうれ
 き)を採用した(1843年説あり)
  1842年に改暦が決まり、幕府が、天文方の渋川景佑ら
 に命じて作らせた。
  この暦は、1844年から施行され、1872年(明治5年)の
 太陽暦の採用まで施行された(1873年まで施行されたの
 説あり)
1844年、帆足万里(ほあしばんり、儒者、理学者)の『東
 潜夫論(とうせんぷろん)』が成立した。
  東潜夫論は、経世論で、幕府・諸藩などの社会経済、
 国防の改革を論じ、諸制度を批判し、改革について述べ
 ている。
  例えば、幕府には、西力東漸(西の勢力が東の方へど
 んどん押し寄せて来ること)に備えて、洋式の大艦を建
 造する、
  そして、大砲・鉄砲の充実と訓練、大名城郭の石造、南
 北国境に大名を封じ、防御体制を充実すべき・・、
1844年、間宮林蔵が没した(1775年〜1844年)(1845・2月
 説あり)
1844年5月、水戸斉昭謹慎、其臣の藤田東湖らも幽閉される
 (氷川清話)
  徳川(水戸)斉昭(とくがわなりあき、水戸藩主)は、
 徳川慶喜の実父で、
  鉄砲斉射(せいしゃ、一斉に射撃すること)事件や、
 藩内の派閥が絡む原因などで、幕命によって、家督を嫡
 男に譲った上、強制隠居となった。
  そして、藤田東湖も、5月に、斉昭の処分と共に失脚し、
 藩邸に幽閉された。
  斉昭は、1846年に謹慎が解除され(1844年11月説あり)、
  1849年に、藩政関与も許された。
1844年5月、和蘭書をよせて欧州の形成を告ぐ(氷川清話)
1844年5月、江戸城火災(氷川清話)
  江戸城本丸が全焼し、翌年2月に、殿舎再建成る。
1844年6月、印旛沼開墾停止
  1843年に、勘定奉行の鳥居輝蔵を責任者として、沼津
 藩、鳥取藩、庄内藩秋月藩、上総貝渕藩の5藩が、御手
 伝普請が命じられて、工事は進められたが、
  多大な金銭的負担や、人的に大きな犠牲を払う事で失
 敗になった・・とある。
  水害対策など難しい工事であった。
1844年6月、水野、老中に再任、
  5月に、江戸城本丸が火災となったが、その再建費用を
 老中首座の土井利位は、集められなかったことが発端で、
  また、将軍・家慶の不興も買った、
  そして、外国問題の紛糾などもあり、水野忠邦が老中
 首座に再任された。
1844年7月、オランダ国王の開国勧告
  オランダ国王のウィレム2世から、将軍へあてた手紙を、
 遣日大使になった海軍大佐のコープスが、軍艦のパレム
 バム号で長崎に持って来た。
  開国が勧告されたが、幕府は、国王の親書のみを受理
 し、開国は拒否した。
  使節は、親書と献上品を置いて去った。
1844年12月、天保15年から弘化1年に改元された(氷川清話)
1844年、箱館、国後(くなしり)など11か所に守備兵が配
 備され、15か所に砲台が築かれた。
  弘化の改元から、「弘化台」という。
1844年、フランス船が琉球に来航した。
  フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の
 遠征隊が、琉球に来航した。
  通商を求めた、
  薩摩藩に限り、琉球対仏貿易を許した(通商拒否の説
 もあり)
1844年、勝海舟佐久間修理(象山)を訪う、一見旧知の
 如し(氷川清話)
1844年、シーボルトは、1830年に、オランダに帰着した。
  シーボルトが帰国するときに、500種800株の植物を積
 み込んだ。
  そのうち、ヨーロッパに移植が成功したもので、生き
 残っていたのは204品種だった(129種の記述もあり)
 シーボルトが作成した販売カタログには、
  バイカイカリソウ、イカリソウトリカブト、ショウ
 ブ、シャクヤク、ヌルデ、サルトリイバラ、チャ、ツバ
 キ、ガガイモ、ツルボ、シキミ、サネカズラ、ネズミモ
 チ、カノコユリエビネ、シュンランなど
1845年(弘化2年)1月、新砲台を浦賀に築く(氷川清話)
  浦賀に新砲台が築造された。
1845年2月、米船、漂民を浦賀に送る(氷川清話)
  アメリ捕鯨船のマンハッタン号が、浦賀に来航した。
  日本人漂流民を送還した(阿波館山に来たの説あり)
1845年2月、江戸城本丸の修築が成った。
1845年3月、高野長英、脱獄(氷川清話)
  伝馬町の獄舎を火災にし、高野長英は、逃走した。
1845年6月、幕府、オランダ国王に返書、開国勧告を拒否。
1845年、幕府が、海防掛を設置した
  この年に、老中の阿部正弘・牧野忠雅らが任じられて
 以降、常置となった。
1845年7月4日、イギリス船、長崎に来る(氷川清話)
  イギリスの測量船が、伊王島長崎県)沖に来航した。
  測量許可と薪水を求めた。
  薪水を与えて出港を命じ、7月8日に、出帆した。
1845年8月、甲比丹(船長)を召し幕府より蘭国王への書及
 び青貝細工などの贈品を贈与する。開国は拒絶。
1845年9月、勝海舟幕臣、岡野孫一郎の娘・民子(実は砥
 目氏)を娶る(氷川清話)
1845年9月、水野忠邦ら罰せられる。
1845年 阿部正弘、老中首座となる。
1845年12月、蘭人の外出を厳しく取り締まる。
  蘭人は、月に5〜6回は病気保養と称して市街(長崎)
 を遊歩することを許されていた。
  近年は度を越えることがあったことによる。
1845年、杉田成卿、翻訳局員となる(氷川清話)
  杉田成卿(すぎたせいけい、蘭学者)、杉田玄白の孫、
  (1817年〜1859年)
  1840年に、幕府の天文台訳員に任じられた。
  1844年に、命を受けて、オランダ図書の翻訳にあたっ
 た。
1845年、勝海舟、専ら泰西の兵学を修む、また、筑前藩・
 永井青崖について蘭書の習読を始む(永井は、溜池黒田
 邸住)、
  手紙に禁足を申付けられたので夜中潜行云々とあり、
 当時、西洋のことをほめ、横文字を学ぶことは、世の中
 から嫌われ、支配頭の処分で禁足されたものだろう(氷
 川清話)
1845年、オランダ船によって、日本に初めてパイナップル
 の種苗がもたらされた。
1845年、アメリカ・インディアンの方々の反撥
  アメリカ合衆国に好き勝手にやられ、繰られていたイ
 ンディアンの方々が反発した。
  テキサスが、アメリカ合衆国の州に入ることに対して、
 コマンチ族は拒否した。
  「これから、10年間、コマンチ族とアパッチ族は、自
 分たちが本当のこの国の持ち主だ」と主張したゲリラ戦
 を開始した。
  彼らの土地が、入植者の手に渡ることを阻止する行動
 をした。しかし・・、
1845年、「マニフェスト・デスティニー」という言葉があ
 る。
  マニフェストと言えば「政権公約」であり、「政策宣
 言」の意味である。
  また、デスティニーは運命の意味であり、宿命の意味
 である。
  そして、「マニフェスト・デスティニー」は、辞書に、
  「1840年代、アメリカの西方への領土拡張を正当化す
 るために使用されたスローガン」・・とある。
  アメリカ人は、「明白なる使命」とか、「明白なる運
 命」とかという言葉で、正当化を洗脳された。
  この洗脳が、歴史の中で消えることなく、アメリカ人
 の頭の中に、さも正しい行動の様に洗脳され、錯覚され
 て入り込んでいる。
  そして、アメリカ西部を手に入れ、先住の方々を駆逐
 し、虐殺し・・
  そして、その後までも、太平洋の島々を次々と手に入
 れ、フィリピンを手に入れ、太平洋の西端の中国に至り、
 日本と衝突した。
  その洗脳のスローガンが、この年に、ジョン・オサリ
 バンが初めて用いた。
  アメリカ人は、洗脳化された頭で、「文明化」とか、
 「天命」とかと、勝手に良い方向へ、拡大解釈し・・、
  インディアンの方々を、悪い意識も、気持ちも起こさ
 ずに、安易に、簡単に・・虐殺の限りをした。
  正当化する筋を見つけ、語って・・悪行為を続けた。
  誰も気づかず・・、気付いた人も居たのだろうが・・、
  「みんながいいのだ」と・・、相手の方々・インディ
 アンの先住の方々を・・誰もが思いやらず、
  自分の富だけを追求した。
  そのように教えるキリスト教の聖書の通りに行動した。
  わが民族が幸せであれ、同民族で、同じ宗教を信じる
 者こそ幸せであれと、悪の行為の限りを尽くした。
  メキシコとの戦争、スペインとの戦争、イギリスとの
 戦争、フランスとの戦争、ハワイの併合、日本との戦争、
  すべてが、このラインに入った悪の論理展開だった。
  アメリカは、今でも、この擦り込みは消えていない。
1845年、アメリカは、1846年〜1848年にメキシコと戦争を
 するが、
  1836年に、メキシコから独立したテキサス共和国は、
 1845年に、アメリカに併合された。
  しかし、この地を、メキシコは、自国の領土と見なし
 ていた。
  また、この年の1845年に、アメリカ大統領ポークは、
 メキシコ領カリフォルニアと、ニューメキシコを譲るよ
 うメキシコ政府に要請した。
  アメリカの強引なやり方で、1846年4月に、アメリカと
 メキシコは戦闘状態になった。
  アメリカの連邦議会は、5月13日に宣戦布告し、
  メキシコ政府は、5月23日に宣戦布告した(アメリカが
 強引に戦争状態に持ち込んだ戦争だった)。
  1848年2月に、グアダルーペ・イダルゴ条約を締結し、
 戦争は、アメリカの勝利に終わり、
  アメリカは、カリフォルニア、ニューメキシコなどを
 併合した。
  メキシコは、国土の3分の1を失った。
  日本に来たペリーは、「(アメリカが)メキシコに、
 道徳に背くようなことをやった」と言った(因みに、ペ
 リーはこの戦争で戦っている)。
  アメリカが強盗の様に奪い取ったという感じだった。
  ユネスコの世界記憶遺産に登録申請をすべきだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive