(増補版)234D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1845年〜1847年)

題:(増補版)234D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1845年〜1847年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1845年、シーク(シク)戦争が起きた
  (イギリスの全インド支配の戦争)
  イギリスのインドにおける戦争で2回起きた。
  シク王国は、イギリスのインドに於ける支配が進む中
 でイギリスに対抗していた。
  イギリス軍の領内通過も拒否していた。
  この当時、インドに於ける唯一の独立した地位を保つ
 国だった。
  1845年〜1846年と、1848年〜1849年と二度に渡って戦
 った。
  イギリスは、この戦いに勝って全インドを支配下に置
 いた。
  東インド会社はイギリスの隠れ蓑。完全なるイギリス
 という国家がインドを駆逐して行った。そして、利益は
 すべて国が吸い上げた。
  「植民地が無くなったらイギリスは三等国になる」と
 言われていた。また、自らもそのように思っていた。
1846年(弘化3)、日本の総人口: 26,708,000人
1846年2月、仁孝天皇崩御(氷川清話)
1846年2月、徳川斉昭(なりあき、水戸藩主)が、幕府に対
 外意見を述べ、江川英竜(えがわひでたつ、幕臣、伊豆韮
 山代官、通称:太郎左衛門)の海防意見を提出した。
  江川太郎左衛門は、高島秋帆に弟子入りして、近代砲
 術を学んでいる。
  幕府に、高島流砲術を取り入れる様に、また、江戸で
 演習を行うように働きかけた。実現した。
  江川太郎左衛門の門下に、佐久間象山、橋本佐内、桂
 小五郎(後の木戸孝允)、大鳥圭介などの幕末の重要な
 人物がいる。
1846年閏5月、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が生まれ
 た(1846年〜1866年)(将軍期間:1858年〜1866年)
  和歌山藩主の子として生まれた。
  1849年(3歳)、和歌山藩主となった。
  1858年(13歳)、将軍継嗣問題で、井伊直弼に推され
 て将軍となった。
  1860年の井伊の死後、1862年(16歳)に、皇女・和宮
 (かずのみや)と結婚して、徳川慶喜将軍後見職に任
 命した。公武合体を推し進めた。
  1863年(17歳)、将軍として、229年ぶりに上洛を果た
 した。
  1864年1月(18歳)、再度の上洛をする。公武合体を図
 り、大阪湾の防備を巡察した。勝海舟随行
  1865年5月(19歳)、長州処分のため大阪城に入る。
  1865年10月に、外交交渉に不備があったとして、朝廷
 が老中の阿部正外らの官位を剥奪した。
  幕臣は、これを人事干渉として反発した。これで、家
 茂は、将軍職辞表を提出したが却下された。
  1866年(21歳)、第二次長州征伐の際、大阪城で病死
 した。
  これを理由に休戦の朝命が出された。
1846年閏5月、アメリカ船(海軍司令官ビットル)浦賀に来
 て書(通商を求む)を呈す。幕府拒絶(氷川清話)
  アメリ東インド隊司令官のジェームズ・ビドルが、
 コロンバス号とビンセンス号の2隻の軍艦を率いて、浦賀
 に渡航した。
  通商を求めたが拒否された。
  米軍艦の初の日本寄港であった。
1846年7月、佐久間象山、初めて洋書を学ぶ(氷川清話)
  福沢諭吉佐久間象山の貴重な洋書を、片っ端から読
 んだという。
1846年7月25日、高島秋帆追放、阿部虎之助へ永預け(氷川
 清話)
1846年8月、孝明天皇より幕府へ、海防を厳にすべしとの勅
 命が下った。
  幕府に宛てた「海防勅書」を京都所司代へ伝えた。
  これは、孝明天皇が、自ら外交問題にかかわり始めた
 最初の行為だった。
  この書を伝えた武家伝奏に・・、
  「近年異国船が時々見えるとの噂を(天皇は)内々に
 お聞きになられた。しかし、文道をよく修め、武事も全
 く整っている今日、殊に海辺の防御も堅固の旨、これま
 た兼がねお聞きになられご安心なされてはいたが、近頃
 この(異国船の)噂をいろいろ心に掛けご心配なされて
 おられる。なおこの上、武門の面々は洋蛮を侮らず、小
 寇を恐れず、大賊にはよく籌策(ちゅうさく=策略)を
 めぐらし、神州の瑕瑾(かきん=恥)とならぬよう十分
 指揮を執り、更に宸襟(しんきん=天皇の心)を安心さ
 せるように、とのお沙汰があった」。
1846年9月、大原幽学(おおはらゆうがく、道学者、農村指
 導者)が『微味幽玄考(びみゆうげんこう)』を著した。
  幽学は、仏教、神道儒教を学び、下総国香取郡で村
 民を指導して村の立て直しを図った。
  また、各地を巡り農村振興に尽くした。
1846年、藤田東湖(ふじたとうこ)『弘道館記述義(こう
 どうかんきじゅつぎ)』初稿成る。
  水戸藩主の斉昭が、東湖に、水戸藩の藩校の弘道館
 開校に際して、その教育方針を示すために、起草しなさ
 いと命じられて書かれたもの。
  建学の趣意書で・・、
  敬神崇儒(神を尊んで、孔子の思想を尊びうやまう)、
  尊王攘夷
  忠孝無二(忠義と孝行を二つと無いと思い)、
  文武不岐(学問の道と武芸の道は一体となっている)、
  学問・事業の一致・・という、
  後期水戸学の主要思想が集約的に提示されている。
1846年9月15日、勝海舟、長女・夢子誕生、後、内田氏に嫁
 す(氷川清話)
1846年10月、幕府が、京都所司代を通じて、外国船来航の
 状況を朝廷に伝えた。
1846年12月、幕府が、藤田東湖の蟄居を免じた。
1846年、仏(フランス)船、長崎に来る(氷川清話)
1846年、勝海舟、本所から赤坂田町に転居す(氷川清話)
1846年、メキシコ戦争が起きた。
  アメリカが、メキシコと戦争をして、テキサス・ネバ
 ダ・アリゾナ・ユタ・ニューメキシココロラドを、
 狡猾なやり方・手段で手に入れた。
1847年(弘化4年)2月、幕府、相模、安房、上総の沿岸警備を
 厳にす(強化)。
1847年3月、蘭船輸入の大砲2門を浦賀におくる。
1847年6月、オランダ人、再び、開国を勧める。
1847年、信州松代藩佐久間象山が電信機を試作した。
 モールス電信機が発明されてから、わずか10年後のこと。
1847年、アメリカにトーマス・エジソンが生まれた
 (1847年〜1931年)
  生涯で取得した特許の数は1093件。
1847年、アフリカのリベリア共和国が独立した。
  この年、ヨーロッパの植民地支配を受けていたアフリ
 カの国々のうち、いち早くリベリア共和国が独立した。
  アフリカで、このリベリアの次に独立する国は、110年後
 の1957年のガーナになり、イギリスから独立した。
  この1957年のガーナの独立が、アフリカの国の初めて
 の独立などともと言われているが、リベリア共和国の独
 立があった。
  そして、その説明として・・、
  リベリアの独立のきっかけは、アメリカで起こった奴
 隷解放に関係している。
  ジョージ・ワシントンの甥を会長とする「アメリカ植
 民協会」が現在の一部を購入し、そこに解放奴隷の町を
 作った。
  その後、同協会が、リベリア援助を縮小する方針を出
 したため、1847年に独立を宣言して、共和国憲法を採択
 した。アフリカ最初の共和国が誕生した。
  ・・と、美しく歴史に書かれているが・・?
  リンカーンも関係したこの件は、実は、アメリカに居
 る黒人の方々の棄民であった。
  本ブログの〈 子供たちの「リンカーンの伝記」は間
 違っています(その1) 〉にも書きました。
  リンカーンは、「黒人奴隷を解放した」と言われてい
 ますが、間違いです。
 彼には、黒人奴隷を解放したいという希望や意志は全く
 有りませんでした。
 リンカーンの黒人奴隷解放の意思は、「事の成り行きか
 ら持った」という状態でした。
 その様に仕向けたのは、黒人の黒人奴隷解放戦士『フレ
 デリック・ダグラス』でした。
 また、その組織の働きかけがあったから、その方向に流
 れただけです。これが真実なのです。
 子供たちの伝記には間違いが書かれて居ります。
 正しい内容に書き換えられなければならないのです。
 キリスト教には「黒人は人ではない」とみる歴史があり
 ます。
 この様な見方に影響された人々がしたことは、黒人の奴
 隷解放に一旦ちょっぴり至っても、直ぐに自分たちの利
 にとらわれて、元に戻ってしまうという事でした。
 悲しいかな、黒人の方たちは、「人間ではない、奴隷と
 いう原罪」があると理由づけられた考え方をされていま
 した。
 特に、アメリカ南部は、現在も「バイブル・ベルト」と
 言われている様にキリスト教徒が多い地帯。
  ここの地に、黒人奴隷の悲しい歴史が刻まれました。
  奴隷制は、疑問なく容認する考え方の地でありました。
 キリスト教聖書に説かれている奴隷制アメリカ南部の
 人達は、当然のごとく、奴隷制を容認し、黒人の方達を
 奴隷として虐げました。
 そして、この南部の奴隷制寡頭勢力は、(かとう‐せい
 【寡頭制】 少数者が権力を握って行う独裁的な形態)、
 自分たちの利が脅(おびや)かされるに及んで剣を引き
 抜き南北戦争を起こしました。
 自分の意に合わない相手を殺す教義「異教徒は殺せ」の
 教義のままに「考え方の違うものは滅ぼせ」の教義どお
 りの行動となってしまいました。
 その様なアメリカの中でも共和党は、アメリカ全土の奴
 隷制反対勢力が応援し、育て、そして、強固にした党で
 した。
 (ちなみに、民主党は、奴隷制を容認する党です)。
 くすぶりの中にあったアメリカは、1861年南北戦争
 起き、リンカーンはこの年に大統領に就任しました。
 後代の歴史家が「南北戦争奴隷解放戦争」と位置付け
 していますが、、リンカーンの大統領就任演説は、「奴
 隷財産を擁護する論理展開をするという演説」でした。
 何と愚かな演説でしょう。
 奴隷制について、反対するか賛成するかわからない州が
 存在したからと言い訳する人たちもいますが、リンカー
 ンのその後の行動からみても「彼は奴隷解放の大統領」
 とは言えません。
 南北戦争の戦況は、リンカーン奴隷解放への意思がな
 く、不決断もあって、また、軍の首脳部の腐敗もあって
 北部軍は敗北が続きました。
 北部のシンボルである首都=ワシントンが、陥落する危
 険にさらされる緊急事態にもなりました。
 この状況を救ったのが、黒人の黒人奴隷解放戦士『フレ
 デリック・ダグラス』でした。
 奴隷解放に不決断だったリンカーンは、黒人の軍への参
 加をも容認していませんでした。
 フレデリックは、「黒人奴隷も、自由黒人も、黒人を軍
 務につかせよ」・・と、訴えました。
 「奴隷に対する自由が、今こそ国会議事堂から全戦場の
 砲焔の空高く宣言されなければならない」・・と、叫び
 ました。
 「黒人を軍務につかせよ、そして黒人解放軍を組織せよ。
 かれらは南部に進軍し奴隷たちの間に解放の旗を揚げる
 であろう」・・と、世論に訴えました。
 愚かにも、首都ワシントンが陥落の事態になっても、リ
 ンカーンは、「黒人奴隷は漸進的に解放したい、一気に
 解放という事はしたくない」の意思でした。
 また、リンカーンは、卑劣な事に「解放された黒人はア
 フリカかどこかに植民させたい」と考えていました。
 黒人の方たちを捨てるということです。「棄民」の考え
 です。
 当然、黒人の方たちからは、強い反対の声が沸き起こり
 ました。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive