(増補版)214D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年〜1823年)

題:(増補版)214D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年〜1823年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1823年(文政6年)3月24日、三方領地替(さんぽうりょう
 ちがえ)が行われた。
  陸奥国白河藩主の松平定永を伊勢国桑名へ、
  桑名藩主の松平忠尭を武蔵国忍へ、
  そして、忍藩主の阿部正権を白河へ転封した。
  この三方領地替(さんぽうりょうちがえ)で、松平定
 永の海岸警備が免除された。
  これは、幕府による大名転封の一形態で、3大名間で
 行われるもの(3大名間で領地を互いに交換させる事)。
  これは、大名の統制策として発動されて来た。
  また、これは、白河藩隠居の松平定信が、港湾財源を
 持つ桑名への転封を狙って仕掛けたというが・・、
  また、別の説では、松平定信の子の松平定永が、江戸
 湾の海防警備の負担が出来ないと、下総国佐倉藩への転
 封を願ったところ、
  佐倉藩主の堀田正愛の抗議を受けて紛糾したため、
  佐倉藩が、白河藩の替わりに江戸湾警備を引き受ける
 代償として行われた懲罰的転封を受けたとの説もある。
  白河藩は希望の桑名へ転封され、かつ、江戸湾警備の
 役を免除されるという、まったく白河藩の希望とおりの
 三方領地替だった。
  不平等なものだった。
  隠居とはいえ松平定信の元老中首座の力は衰えていな
 かった。
1823年4月6日、大田南畝蜀山人狂歌師、戯作者)が没
 した(75歳)
1823年4月14日、幕府が、道中通日雇(どうちゅうかよいひ
 よう、旅行の時の人足)宿を営む者を、六組飛脚問屋仲間
 に加入させた。
1823年8月11日、シーボルト(ドイツ)が長崎に到着した。
  シーボルトは出島の外に出て病人を診察する事を許さ
 れた。
  また、翌年、鳴滝塾を開いて医学を講じた。
1823年9月、幕府が、5年間の倹約令を出した。
1823年10月、幕府が、暦問屋11人以外の暦の出版を禁止し
 た。また、略暦などの売ることを禁止した。
1823年11月、幕府が、蘭書・天文書・オランダ書の翻訳出
 版を禁止した。
1823年、青山延于(あおやまのぶゆき、儒学者)が、神武
 天皇から後小松天皇までの歴史書皇朝史略(こうちょ
 うしりゃく)」を漢文体で簡略に著した。
  青山延于は、大日本史の編纂に従事していた。
  そして、初学者の通読に適する書をと思い、本書を著
 作した。
1823年、房総砲台を代官に委する(委任する)(氷川清話
 より)
  これは、白河藩が桑名へ転封されて、代官の森覚蔵が
 房総の台場支配を命じられたことを言っている。
1823年12月、モンロー宣言
  アメリカ合衆国の第5代大統領J・モンローが、この時、
 議会へ送った教書の中で述べた。
  この後、これが、アメリカ外交の基本方針となった。
  これは、アメリカのヨーロッパ諸国からの干渉の拒絶
 だった。
  (アメリカは、ヨーロッパ諸国による植民対象の国で
 はありません・・だった)。
  次に、だから、アメリカも、ヨーロッパ諸国の政治に
 は介入しません・・と、
  そして、ヨーロッパ諸国の圧迫や、その他の方法によ
 る西半球諸政府に対するいかなる干渉も、アメリカへの
 非友好的意向の表明と見なす・・と言った。
  西半球諸政府とは、北アメリカだけでなく、南北アメ
 リカ大陸の国々の事だった。
  アメリカの意識下に、南北アメリカ大陸を支配下に置
 きたいたいという意思があった。
  この宣言は、アメリカ合衆国の出発点と言え、
  またこれは、アメリカの帝国主義的下心の表明でもあ
 った。
  明らかにアメリカは、南北アメリカ大陸を自分の物の
 様に感じていた。
  それ故に、ヨーロッパ諸国からの干渉を拒否した。
  そして、アメリカも、ヨーロッパ諸国には干渉しない
 からとの理由を付けた。
  故に、スペインが、メキシコの独立運動に関わった時
 に、アメリカは、そのスペイン行動を阻止する行動を起
 こした。
  また同様に、イギリスが、ベネズエラの介入をした時
 も、関わりを付けて止めさせた。
  この後は、アメリカは、領土的野心の行き着くところ
 が無いかの如く、領土を得る行為を、帝国主義的行為を
 して行く、
  ハワイを併合し、フィリピンを領有し、
  ミッドウェー島を占領し、グァム島を占領し、
  ウェーク島も占領し、サモア島を占領し、
  そして、自分の武力行使の基地=軍事基地を作って行
 った。
1823年、このモンロー宣言は、イギリスから独立(1776年
 のアメリカの独立宣言)から47年後の事だった。
  これは、普遍主義に反対して、ヨーロッパによるアメ
 リカ大陸への干渉を認めなかった・・などと、説明され
 ているが・・、
  何しろ、アメリカは、19世紀の末に至って、明らかに
 帝国主義的な領土拡張主義に転換した。
  歴史的事実として、フィリピンはじめ、色々な国々を
 奪って行く事実が存在する。
  そして、中国をおいしい場として見えていた。
  それを得るには、「門戸開放」という「自由主義の論
 理」を用いるのが得だと考えるに至った。
1823年、アメリカは、モンロー宣言の頃は、まだ、弱い国
 だった・・が、変わって行った。
  アメリカは、皆(イギリスやフランスやオランダなど)
 が、アジア諸地域や中国で、うまい汁を吸っている姿を
 見ていた。
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