(増補版)215D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年〜1824年)

題:(増補版)215D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年〜1824年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1823年(文政6年)、大旱魃(かんばつ)となる。
  藩財政が困窮した(豊後岡藩など)。
  農民の一揆なども起きた。
  田の水争いが起きた。
  京都神泉苑など各地で雨乞いをする。
  4月〜6月に、関東地方は干害と風水害との記述もあり。
  岸和田藩主は、郷内の宿老を集め代参を立てて祈雨の
 祭典を修め・・の記述もある。
1823年、幕府が、中央に新たに「外国総奉行」を設置した。
  日本各地に役人を配置した。
  幕府が、日本人の海外渡航に関する規制を緩和した。
1823年、ロンドン気象学会が創立された。
  イギリス(王立)気象学会の前身。
1823年、ラクビーの始まり
  イギリスのラクビーの町で、フットボールの試合中、
 エリスという少年がいきなり球を抱えて走り出し、ここ
 にラクビーが始まった。
1824年(文政7年)2月、幕府が、南鐐二朱銀(なんりょうに
 しゅぎん)の改鋳を命じ(この年に発行の文政二朱銀の総
 称)、3月から通用を始めた。
  南鐐とは、銀の美しい良質の銀を意味している。
1824年3月、「近世職人尽絵詞(きんせいしょくにんづくし
 えことば)」などを描いた浮世絵師の鍬形螵斎(くわがた
 けいさい、北尾政美・きたおまさよしともいう)が没し
 た(64歳)
  津山藩松平家の絵師だった。
  近世職人尽絵詞は、肉筆画の傑作と言われており、江
 戸における多種多様な職業に従事する人々を、軽妙かつ
 生き生きと描いている。
1824年5月、幕府が、一朱金(いっしゅきん)の新鋳を命じ
 (文政一朱金。江戸時代の金貨のうち最悪質なものと言
 われている)、 7月から通用を開始した。
  金品位は12%で不評だった。
  財政収入の増加を目的に発行したが、低品位の悪評で
 長く流通しなかった。
  1840年に、通用停止とした。
1824年5月、常陸・大津浜事件(おおつはまじけん)
  イギリス船2隻が、常陸に来て、イギリス捕鯨船員11
 名(12名の記述も)の常陸上陸事件が起き、水戸藩藩兵
 が捕らえ留置し、尋問した(密貿易の疑いもあった)。
  結局、水と野菜が欲しいという事で、幕府は、これら
 を与え、2か月足らずの後に釈放し、退去させた。
  徳川斉昭(とくがわなりあき)の水戸藩を中心に攘夷
 熱が高まった。
  また、イギリス船員が、薩摩・宝島(現:十島村)の
 牧牛を強奪しようとしたことから役人との間で銃撃戦と
 なり、イギリス人1名を射殺したとの記述もある。
  このイギリス船(捕鯨船)は、常陸沖で、日本の捕鯨
 船に対する海賊行為を行なったり、
  また、領海侵犯であったため幕府軍艦は拿捕した。
  外交問題となった。
  幕府は、国防の進展と日本近海の調査が促された。
  この後、薪水給与を停止して、異国船打払令が出され
 ていく。
1824年8月、諸国洪水。
  関東・東北大風雨による大洪水。
  江戸では、隅田川の出水で永代橋が破損し、本所・深
 川が浸水した。
  荒川出水、佐倉村方面洪水氾濫。田畑、山林、家屋な
 ど流失。
  8月14日より15日、終日、大風雨、洪水氾濫、阿武隈川
 土手破損。
  1824年8月17日、静岡、当日から約3日間、北から風雨
 激しく、大波や大水害を受ける。
  1824年8月15日、大洪水にて新町裏決壊す(白石市記録)
1824年閏8月、江戸西両国広小路にて、らくだ2頭が見世物
 となった。
  1日に観覧客が5000人を超える日があったという。
  歌川国安の絵にも描かれている(駱駝之図)。
  「甲子夜話」に「今年、駱駝、長崎よりこの都に来れ
 り」と、雄雌の一頭ずつが見世物になったとある。
1824年9月、平田篤胤(ひらたあつたね、国学者)の「古道
 大意(こどうたいい)」が刊行された。
  1811年に完成していた神道書。
  篤胤の講演を、門人が筆録した講義ノート
  篤胤は、1809年の34歳頃より、江戸で広く、一般の人
 たちに対して、古道、儒道、仏教などの講説を始めた。
1824年、佐藤一斎(さとういっさい、儒学者)が、「言志
 四録」の1巻「言志録(げんしろく、倫理書)」を刊行し
 た。
  学問・修養の方法、哲学的思索、人生観について述べ
 ている。
1824年、中沢道二(なかざわどうに、心学者)の道話(心学)
 を編集した「道二翁道話(どうにおうどうわ)」が刊行
 された。
  人間の「本心」の究明のために、儒書・仏書はもちろ
 ん、広く和歌や文芸作品なども引用して、加えて庶民の
 多様な日常生活の体験を素材にし、分かりやすく説いた。
1824年頃、この頃、両国のすし職人の花屋与兵衛が、にぎ
 り鮨を創案した。
1824年、大村益次郎が生まれた(1824年〜1869年)
  益次郎は、明治になって軍政の創始者となった。
  長州藩の医家に生まれ、
  初め、蘭学者の梅田幽斎や緒方洪庵に学んで医師にな
 った。
  長崎で学んだりし、また、父母を養うため帰郷して医
 を開業したが振るわず、宇和島藩に迎えられる。
  そして、西洋兵書を翻訳したり、軍艦製造などを指導
 した。
  欧州兵学の知識をもって、宇和島藩主の伊達宗城の推
 挙で、幕府の蕃書調所に仕え、講武所教授に就任。
  この間、ヘボンに英語を学ぶ、
  名声を聞いた長州藩に呼び戻され、帰藩して兵学を教
 え、
  長州藩の兵制改革に携わり、武器軍備を改良し、力量
 を発揮した。
  長州再征(1866年6月)には、総参謀として、優れた戦
 術で幕府軍を壊滅的に破った。
  戊辰(ぼしん)戦争(1868年1月〜1869年)には、討幕
 軍として上洛、
  そして、江戸に出て、彰義隊攻撃の指揮官をつとめた。
  北越の平定作戦にも携わった。
  戦局を大局から、総合的な視点で捉え、軍略は戦う前
 から必勝の成算をうかがわせた。
  五稜郭の戦いの情勢判断においても、西郷隆盛より正
 確な情勢判断力があった。
  西郷は、大村に諌められ、その通りに戦局は推移した。
  西郷は、大村の卓見に感服し、「我誤てり面を合はす
 に恥づ」と、そのまま西郷は帰郷した。
  維新後、1869年(明治2年)に、兵部大輔となり、
  兵権の中央政府への統一をはかったが、その急進的な
 兵制改革は、守旧士族の反感を招き、
  神代直人らに、京都で襲われて、重傷を負い、大阪で
 没した。
  大村の意図は徴兵制度に結実した。
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