(増補版)207D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年〜1817年)

題:(増補版)207D2/3:気になった事柄を集めた年表(1817年〜1817年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1817年11月、諸国の風俗、習慣の調査
  幕府の右筆である国学者・屋代弘賢(やしろひろかた)
 が、諸国に「風俗問状」を発して、
  諸国の古来の風俗や習慣を調査した。
  右筆(ゆうひつ)は、文書・記録の作成を司った役の
 ことであるが、
  弘賢のこの時の調査の回答書の20余編が残っている。
  秋田、越後長岡、若狭小浜などが現存している。
  調査書は、1813年頃から、逐次、配布された。
  送付先は、全国各藩の儒者や知人。
  調査内容は、歳時風俗および冠婚葬祭など131項目。
  これは、同一項目による全国同時の民族調査として意
 義があり、
  先駆としての民俗学史上に残る事業であった。
  この様な、広い考えにあった幕府も褒められるべきで
 ある。
1817年、深川芸者が、帯の太鼓結ぴを始め、流行した。
1817年、女性の手になる「西洋に勝る」先見的な書
  女流文学者の只野真葛(ただのまくず)が、「独考(ひ
 とりかんがえ)」を著した(1819年に、曲亭馬琴に送ら
 れた)。
  真葛は、工藤平助(仙台藩医、経世家)の長女として
 生まれた(生没年:1763年〜1825年)
  経世論の「独考」は、曲亭馬琴に批評を頼んだ。
  真葛は、苦しむ貧民に心を寄せて、後々まで続く経世
 済民の志(こころざし)を抱いた女性だった。
  経世済民(けいせいさいみん):世を治め、民を救う
 こと。
  武士の夫の江戸勤めが多い状況の中、思索にふけり、
 55歳の時に、思っていたことを全3巻にまとめ、「独考」
 と題して、江戸の滝沢馬琴に送った。
  馬琴は、幕府の意に触れる所があると出版は控えた。
  江戸期の女性の手になる社会批判書で、
  女性解放を主張する部分など、先見的で、西洋に勝る
 書が、すでに、江戸期の日本には存在していた。
1817年、科学:世界年平均温度分布
  フンボルト(ドイツ)が、世界年平均温度分布をつく
 った。
1817年、「大御所政治」始まる。
  1817年9月に、老中首座の松平信明が病死すると、
  第11代将軍・家斉は、寛政の遺老たちを遠ざけた。
  そして、かつて田沼意次派に属した水野忠成を、老中・
 首座に任じた。
  忠成のもと、賄賂政治が横行し、幕府財政の破綻、幕
 政の腐敗、綱紀の乱れを生じた。
  一見華やかな時代となったが、幕府の政治的停滞は強
 まり、財政は放漫経営となって、徐々に社会の不満は高
 まって行った。
  家斉自身も、豪奢な生活を送った。
  厳格過ぎた寛政の改革の反動だった。
  そして、忠成の死後は、浜松藩主の水野忠邦が、老中
 となり、幕政改革を試みたが、
  家斉のもとでは、空回りが続いた。
  家斉は、将軍在職50年の後、1837年に、世子・家慶に
 将軍職を譲った・・が、
  しかし、隠居をしてからも実権を持った。
  1841年1月に、69歳で家斉が死去するまで続いた。
  家斉の死後、幕政建て直しのため、水野忠邦は、天保
 の改革を始めた。
18世紀、砂糖というもの
  17世紀から18世紀の初期にかけて、中国の福建省から
 琉球奄美へ、黒砂糖の製法が伝えられ、生産が始まっ
 た(白砂糖や氷砂糖は18世紀の末)。
  砂糖は、大変な貴重品だった。
  18世紀の半ばには、長崎にはすでに「砂糖屋」があっ
 た。
  また、唐船やオランダ船の砂糖を買い集める業者も33
 人も居た(後に、85人)
  長崎の輸入の10パーセントを占めるというデータもあ
 る。
  江戸のおいては、砂糖は薬扱いであった。
  砂糖屋が薬種屋から分立するのは19世紀に入ってから。
  しかし、工藤平助の「報告以言」によると、砂糖の輸
 入量の3分の1が菓子に使われており、3分の2が食用だっ
 たという。
  「小買のなめ物」といい、貧しい人々が空腹を満たす
 ための食用としていたという。
  この様な形での国内での砂糖の需要拡大を受けて、
  自力での砂糖の栽培拡大を目的として、南方の探索と、
 開拓が本格化した。
  幕府は、砂糖の輸入増大による、国内の金銀の流出を
 懸念した。
  それほど砂糖の消費量は拡大していた。
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