(増補版)205D2/3:気になった事柄を集めた年表(1814年〜1815年)

題:(増補版)205D2/3:気になった事柄を集めた年表(1814年〜1815年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1814年、津軽藩および南部藩が、蝦夷地警備から撤兵し、
 松前藩兵と交代した。
1814年、蒸気機関車のが発明された
  スチブンソン(イギリス)が蒸気機関車を発明した。
1814年〜1816年、ネパール戦争が起きた。
  イギリスとネパールの戦争。
  イギリスは、隠れ蓑の東インド会社がやったんだと言
 うが、卑怯な言い訳を言うが、「利益はイギリス本国へ、
 悪行為は東インド会社だ」は、おかしい。
  イギリスのインド占領の地域が拡大して行き、ネパー
 ル領と接触したために起きた戦争。
  そして、勃興するゴルカ王の脅威に対して、イギリス
 へ助けを求めて来たのでと、正義を主張する・・が、
  そして、その救援要請に対し、イギリス本国から来た
 イギリス兵のキンロック大尉に、連合軍を編成させ、イ
 ギリス軍を率いて出撃させた。
  赤子の手をひねるような戦いで、あちこちで悲惨な様
 相が生まれた。
  戦いは兵器の差が歴然としていた。
  弱い者いじめそのものだった。
  連合軍の弱い軍が敗けることもあったが、また、清国
 がからむ戦いもあったが、強い軍隊を持つイギリスは絡
 んで行った。
  これが作戦だった。かねてから予定した遠征と征服だ
 った。イギリスの勢力圏拡大が行われた。
  近代兵器を装備し、数においても勝るイギリスの取り
 放題だった。
  インドどいう他国に来て、更に領土を広げ、隣の国ま
 で拡大した結果で起きたことで、
  イギリスは、ネパールが先に手を出したと言うが、そ
 もそも侵略をして来たのはイギリスでしょというのが実
 相。
  こんな手で戦争を起こして、強い軍隊が、ネパールの
 首都のカトマンズを制圧して、
  そして、ネパールは敗北を認めた。
  イギリスは、ネパール領の北西部を手に入れた。これ
 が目的だった。
  歴史に、ごまかしで書かれる様に立ち回ったイギリス
 だった。
  ネパールの宮廷は、イギリス政府の駐在官の統制下に
 置かれることとなった。ここで、隠れていたイギリス政
 府が本音の尻尾が出た。
  イギリスは、世界のあちこちで、この様な卑劣な、ご
 まかしの侵略をして来た。
  また、世界史で、アジア、アフリカ、オーストラリア、
 北米、南米などなどを侵略して来たのは、ヨーロッパ・
 キリスト教諸国だ。
  しかし、今日まで、ヨーロッパ・キリスト教諸国が、
 こうした侵略の謝罪をしたことはない。
  この様な状況を日本は見ていた。
  特に、イギリスの行う、アヘン戦争のいきさつを・・、
1814年9月、ウィーン会議が始まった
  フランス革命ナポレオン戦争ののち、乱れたヨーロ
 ッパの政治秩序を再建したいとした。
  ウィーン体制ウィーン会議(1814年〜1815年)から、
 1848年のフランスに起こった市民革命である2月革命に
 至るヨーロッパの反動体制。
  フランス革命ナポレオン戦争による支配権や国境の
 移動を革命前に戻そうとする正統主義・復古主義を理念
 とした。
  中心人物オーストラリアのメッテルニヒは、神聖同盟
 四国同盟(イギリス・ロシア・オーストリアプロシア
 によって革命・自由主義を弾圧した・・が、
  ラテン・アメリカ、ギリシャの独立、7月革命で打撃を
 受け、2月革命で失脚し、体制は崩壊した。
1815年(文化12年)1月、幕府が、諸国の荒鉛の大坂銅座買
 い上げを廃止し、売買を自由にした。
1815年2月17日、座頭金(ざとうがね)などの高利の金融の不
 正を取り締まった。
  幕府から許可を得て、座頭は貸付けを行なっていた。
1815年3月、司馬江漢の長崎紀行「江漢西遊日記」ができた。
1815年4月、杉田玄白が、「蘭学事始(らんがくことはじめ)」
 を著した。2巻、
  玄白が、83歳の時に、往時を回想して書いたもの。
  オランダ医学の伝来、ヨーロッパ人の渡来、「解体新
 書」の翻訳の苦心を記している。
  そして、蘭学が盛んになって来ていることの喜びを記
 している。
1815年6月5日、鳥居清長(とりいきよなが、浮世絵師)が
 没した(1752年〜1815年、64歳)
  役者絵、のちに、長身で健康的な美人を群像形式で描
 く美人画に転じ、「清長風美人」を確立した。
  「大川端の夕涼」重要文化財
1815年8月、散逸していた「類聚国史(るいじゅうこくし)」
 (892年成立、菅原道真編)を、仙石政和(せんごくまさ
 かず)がまとめて出版した。
  類聚国史は、古代史研究には欠かせない基本史料とな
 っている。
1815年9月、幕府が,日光社参のため国役(くにやく)金(臨
 時の賦課)を関東・東海諸国に命じ、以後5年間の1年ご
 との上納金を定めた。
1815年9月、幕府が、諸大名に大坂廻米の2割削減を命じた。
1815年、井伊直弼が生まれた(1815年〜1860年
  江戸後期の大老で、近江彦根藩主。
  1850年に、家督を継いで、掃部頭(かもんのかみ)と
 称し、藩政につとめた。
  1853年のペリー来航の時、相模沿岸の警備にあたって
 いたが、この頃から、開国和親の考えを持ち、
  江戸城留間詰(たまりのまつめ)譜代大名らの保守派
 の代表となって、
  水戸の徳川斉昭(なりあきら)ら、強硬な攘夷論者、
 幕政改革派と対立した。
  その間、1854年の和親条約締結に尽力し、
  同年(1854年)京都守護を命じられた。
  1858年に、ハリスとの安政の仮条約締結問題が起こり、
 14代将軍継嗣問題ともからんで、保守派と改革派は、対
 立関係になった。
  1858年に、彼は、保守派におされて大老に就任すると
 慶福(よしとみ、家茂)を14代将軍に定め、
  勅許のないまま安政条約を締結し、
  また、反対派を徹底的に弾圧した(安政の大獄)。
  このため、水戸、薩摩両藩の志士らによって、1860年
 3月に、桜田門外の変で暗殺された。
1815年、アルジェリア戦争(第二次バーバリ戦争)が起き
 た。
  アメリカ合衆国オスマン帝国との間に争われた2回目
 の戦争。
  北アフリカでは、トリポリチュニス・アルジェの3
 邦が、オスマン帝国に従属しながら、独立色の強い統合
 を行っていた。
  この3国を合わせて、バーバリ諸国と言われていた。
  バーバリ諸国は通行料を取っていた。
  この行為をアメリカ合衆国は海賊行為だとして戦争と
 なった。
  戦いの結果は、アメリカ勝利となり、この行為が出来
 なくなった。
  これまでの経緯は、第一次バーバリ戦争の結果、アメ
 リカ合衆国は米英戦争につながって行った。
  バーバリ諸国は、この様な状況の中で通行料を取るよ
 うになった。
  また、ヨーロッパ諸国は、ナポレオン戦争中で手が回
 らなかった。
  米英戦争が終わったアメリカ合衆国は、この件に介入
 した。
  アメリカは海賊行為だと言った。
  なんでも武力で決着する時代。強いものが力で抑え付
 ける時代だった。
1815年、ナポレオンのパリ入城
  ナポレオンが、エルバ島を脱出し、パリに向かった。
  パリに近づく彼を、報じた新聞記事。
  ナポレオンが、パリに近づくにしたがって、書き方が
 変化するのが面白い。
  [5月9日]:悪魔が流刑地を脱出した。
  [5月10日]:コルシカ生まれの人食い鬼は、ジョアン岬
 に上陸した。
  [5月11日]:猛虎はガップに現れた。
  [5月12日]:悪魔は、グルノーブルに進出した。
  [5月13日]:僭主(せんしゅ、身分を越えて君主の称号
 を唱える者)は今リヨンにいる。
  [5月18日]:さん奪者(さんだつ、本来君主の地位の承
 継資格がないものが、君主の地位を奪取すること)は、
 首都に接近。
  [5月19日]:ボナパルトは、軍を率い前進。
  [5月20日]:ナポレオンは、明日パリ城壁に。
  [5月21日]:皇帝・ナポレオンは、今フォンテンブロー
 にいる。
  [5月22日]:皇帝陛下は、昨夕、チュイルリー宮殿に到
 着遊ばされた。
  この後、「100日天下」で、ナポレオンは、セントヘレ
 ナに流される。
  ここで、死ぬときの言葉、「フランス、軍隊、ジョセ
 フィーヌ」
  ジョセフィーヌは、離婚した皇后の名。
  彼女も死ぬ時、「ナポレオン」と言った。
  ワーテルローの戦い、そして、ナポレオンが失脚した。
  ウィーン体制が始まる(大国の勢力均衡によるヨーロ
 ッパの安定を願う時代)。
1815年、ネーデルラント連合王国(オランダ・ベルギー・
  ルクセンブルクに相当、1815〜1839)が設置された。
  ナポレオン戦争中にフランス帝国領となっていたネー
 デルランドに、1815年のウィーン会議によって成立した。
  設立の意図は、フランスのこの方面への野望に対抗で
 きる国を作ることだった。
1815年、清国が、アヘンの麻薬吸引を禁じた。
  清国は、1796年に、アヘンの輸入を禁止していた。
  この様な禁止令は、何度も発せられた。
  国内ではアヘンの吸引の悪弊が広まって行っていた。
  社会の風紀も退廃して行き、事態は由々しき状態とな
 った。
  イギリスがアヘンの密輸を行なっていた。
  この代金の決済が銀で行われたため、貿易収支は逆転
 し、清国内の銀保有量は激減した。
  そして、清国内の銀価格は高騰した。
  この時の納税は銀による納税であったため、農民は納
 税額が2倍になったような状況に置かれた。
  清の税制の地丁銀制は事実上崩壊し、経済への深刻な
 打撃を与えていた。
  イギリスのアヘン密輸はこの様な大きな影響を清国に
 与えていた。
  この頃、アメリカ合衆国も広東貿易を開始し、大きな
 利益を受けていた。収奪。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009