(増補版)206D2/3:気になった事柄を集めた年表(1815年〜1817年)

題:(増補版)206D2/3:気になった事柄を集めた年表(1815年〜1817年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1816年(文化13年)1月16日、幕府が、諸国の人口調査を
 行った。
1816年2月、二年前の1814年に禁止された「咄(はなし)の
 会」が、落語・昔物語は、忠孝を説くという条件つきで
 許可された。
1816年4月、司馬江漠の「天地理談」が刊行された。
1816年9月、山東京伝(さんとうきょうでん、戯作者、浮世
 絵師が没した(1761年〜1816年、56歳)
  寛政の改革で洒落本が発禁になって影響を受けたが、
 その後も大活躍し、人気を博した。著書は多数。
1816年9月、幕府が、年貢の不足米を正米(しょうまい=実
 物)で納めるようにと、幕府領の各村に命じた。
1816年10月、イギリス船が、琉球に来航した。
  幕府は、島津藩の役人とともに対応した。
  幕府に新たな交易拡大と南方の調査許可を求めた。
  これは、幕府に、領土確定を意識させた。
  幕府は、清のアヘンが絡むイギリスの悪行を知ってい
 た。
  国内産業は、この年頃より、輸出が拡大して行き、日
 本各地で、工場制手工業が大幅に拡大していった。
1816年12月、史上最長の漂流
  三年前の1813年に遭難した尾張藩の督乗丸(120トン)
 の船頭らが、この時に、江戸へ帰還した。
  史上、最も長期間に渡った漂流だった。
  この遭難は、江戸からの帰途、遠州灘で暴風雨に巻き
 込まれた事で起きた。
  舵(かじ)が破損したため、漂流状態となった。
  太平洋上を、484日間に渡って漂流した。
  アメリカのカリフォルニア州サンタバーバラ付近の
 洋上で、英国船に発見され救助された。
  生存者は、船長〈船頭)の小栗重吉と乗組員2名の計3
 名だった。。
  当初は、船頭と13名の乗組員が乗船していた。
  帰途は、ロシア船に択捉島へ護送され、ここで乗組員
 1名が病死した。
  残った2名は、国後島からノッケ岬、根室を経て、
  1816年9月に、松前に到着した。
  江戸で事情聴取を受けたのち(この時、新城藩の家老
 で国学者の池田寛親の聞き取りが行われ、「船長日記・
 ふなおさにっき」が書き上げられている)。
  そして、1817年4月に、身柄は尾張藩に移され、5月に、
 帰郷を果たした。
  漂流を生き延びられたのは、積荷の大豆をきな粉にし
 たり、魚を釣ったりして、飢えをしのいだからだった。
  しかし、乗組員は、壊血病や栄養失調で、次々と落命
 したという。
  船長の重吉は、尾張藩から5石2人扶持と、名字帯刀の
 武士として待遇される身となった。
 また、御水主の職(すいしゅ、かこ、船の長・おさ)を
 得た。
  しかし、2か月で重吉は辞職し、乗組員の供養に余生を
 捧げ、過ごした。
  1824年頃、重吉は、著作を売って得た資金で、慰霊碑
 を笠寺に建立した。
  この碑は、今・現在も、名古屋市熱田区の成福寺の境
 内に現存している。
1816年12月、幕府が、1812年からの米の倹約令の年限が、
 終了したことを、各大名・旗本に通達した。
1816年、岩崎灌園(いわさきかんえん、本草学者)が、「救
 荒本草通解(きゅうこうほんぞう)」を著した(生没年
 :1786年〜1842年)
  岩崎灌園は、江戸下谷に生まれ、父は、直参の下級武
 士だった。
  本草学を小野蘭山に学び、若年の時から本草家として
 薬草採取を行なったりした。
  1809年の23歳の時に出仕した。
  そして、1814年の28歳の時に「古今要覧稿」の編集、
 そして、図版製作の手伝いを命じられた。
  1820年の34歳の時に、小石川の火除地で、薬種植場を
 設け研究に没頭した。著書は多数。
  救荒本草通解は、中国・明代の本草書を元に、飢饉の
 際の救荒食物として利用できる植物を解説した書で、
  収載品目は400余種。文章と図で示し、また、料理法を
 記している。元の書に多くの加筆をしている。
  灌園は、薬草が万民のためになると確信し、その真偽
 をただすことに努めていた。
1817年(文化14年)1月、幕府が、1812年に発令した倹約令
 の期限終了にあたり、諸大名に以後も諸経費の 節約を
 命じた。
1817年3月、両国・柳橋万屋八兵衛方の万八楼で大酒大食
 の会が催された。
  この時、芝口の鯉屋利兵衛(30歳)は、酒を3升入り
 杯で6杯半を飲んだという。
  これは、35.1リットルと考えられない量となる。
  1000cc入り牛乳パックが、35本以上というとてつもな
 い量となる。
  利兵衛は、その座に倒れ、「余程」の休息ののち、目
 をさまし、水を茶碗で17杯飲んだという。
  因みに、2位は、3升入り杯で3杯半だという。18.9リッ
 トル。
1817年4月17日、蘭学者杉田玄白(すぎたげんぱく)
 が没した(生没年:1733年〜1817年、85歳)
  巨星墜つ(きょせいおつ、偉大な人物が死ぬ)。
1817年5月3日、儒学者で寛政の三博士のひとり古賀精里(
 こがせいり)が没した(生没年:1750年〜1817年、68歳)
1817年9月、イギリス船が、浦賀に来る。
  各台場は大騒ぎとなった。何事もなく退帆させた。
  前年の1817年には、イギリス船は、白浜村や大島沖に
 現れていた。
1817年9月10日、奏者番(そうじゃばん、取次にあたる役)の
 水野忠邦寺社奉行を兼務した。
1817年秋、画家の石崎融思(いしざきゆうし)が、「ブロ
 ンホフ家族図」を描いた。
  融思は長崎派と言われる画家で、御用絵師(ごようえ
 し、幕府から一定の俸給を貰って、用命によって制作を
 する画家)となった。
  ブロンホフは長崎出島のオランダ商館長。
  妻たちは、長崎奉行への嘆願をしたが許されず、4か月
 後に日本を去った。
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