(増補版)226D2/3:気になった事柄を集めた年表(1836年〜1837年)

題:(増補版)226D2/3:気になった事柄を集めた年表(1836年〜1837年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1837年3月(天保8年2月19日)、大塩平八郎の乱(おおしお
 へいはちろうのらん)、
  世の中は、1833年から始まった「天保の大飢饉」の真
 っ只中だった。
  その飢饉は、1835年からさらに極まって、2年が過ぎ、
 この年・1837年は、社会の疲弊も極度に達していた。そ
 の時・・、
  大阪町奉行所の元与力の大塩平八郎が、大阪で乱を起
 こした。
  民の疲弊に対する憤怒(ふんど、ふんぬ、酷く怒るこ
 と)と、公儀(江戸幕府)に対する抗議・反乱だった。
  各地で多発する百姓一揆、大阪でも米不足で、飢饉に
 よる死者が続出していた。
  平八郎は、奉行所へ民衆の救済を何度も提言したが拒
 否された。
  奉行所は上(幕府)ばかりを見ていた。
  そこで、平八郎は、自らの蔵書・5万冊のすべてを売却
 し、得た金で、民を救済した。
  しかし、その行為までもが、奉行所はまったく理解を
 示さず、売名行為ぐらいにしか見なかった。
  日頃から依頼していた民への救済の事は、まったく顧
 みもしかった。
  そして、この様な時に、民の窮状の最中に、逆に、豪
 商が利を求めていた。
  平八郎の怒りも募り頂点に達した、そして、武装蜂起
 を決断する。
  武装蜂起に備え、家財を売り、家族を離縁した。
  そして、大砲など火器・爆薬なども整えた。
  そして、自らの門下生と近郷の農民へ檄文を回し、参
 加を呼びかけた。当然、公儀も知った。
  また、平八郎は、大坂町奉行所の不正や、役人の汚職
 を江戸・幕閣へ送付する、通達した。
  平八郎にとって、これが、宣戦布告であった。
  それを行ない平八郎は、門弟の武士や、農民ら約300人
 を率い、「救民天誅」の旗を立て決起した。
  民を救い、天の下す罰だ・・、
  鎮圧に出た幕府勢と市街戦を繰り返した。
  平八郎には、当然、勝敗の結果は分かっていたと思う。
  急に、私費だけで、立ち上がったのだから、頭の良か
 った平八郎はその結果は分かっていた。だが、行動を起
 こした。起こすべきだったから・・、
  可哀想だが、大阪市中の5分の1は焼かれたという。
  しかし、「大丸屋は義商なり、犯すなかれ」と焼き打
 ちはまぬがれたとある。
  しかし、戦いは1日も持ちこたえなかった、そして、四
 散した。
  平八郎は、約40日後に、大坂市中の隠れ家で見つかり、
 隠れ家に放火し、自刃・自害した。
  この決起は、全国へ影響した。同じ気持ちの同志は多
 かった。
  「平八郎の乱」のような乱が、越後柏崎・生田万の乱
 備後三原、摂津能勢などの乱や騒動が、この後、日本の
 各地で起きた。
1837年(天保8年3月27日)、大塩平八郎が没した(1793年
 〜1837年、44歳)とあるが・・、
  大塩平八郎を、民は支持していた。火の中で死んだ平
 八郎は、死体が確認できなかった、死んでないという希
 望が語られ、そして、持たれた・・らしい・・
  また、仕置きが翌年に言い渡されたともあり、
  また、まだ生存している・・という説もある。
1837年(天保8年4月)、板垣退助(いたがきたいすけ、土
 佐高知藩士、政治家)が生まれた。
  土佐の生まれ、
  幕末期に討幕派に投じ、
  1868年、31歳、戊辰戦争に参加し、
 総督府参謀を務めた。
  1871年明治4年)34歳、明治維新政府の参議になる。
  1873年明治6年)36歳、征韓論大久保利通らと対立
 し、西郷隆盛らとともに辞職した。
  1874年(明治7年)37歳、民撰議院設立建白書を提出し
 た。帰郷して立志社を起こし、自由民権運動を指導した。
  政治は民のものだの精神である。
  1881年明治14年)44歳、自由党を結成して総理とな
 り、
  1891年(明治24年)54歳、再結成された自由党総理を
 務めた。
  1896年(明治29年)59歳、第二次伊藤内閣の内相。
  1898年(明治31年)61歳、大隈重信と日本最初の政党
 内閣を組織し、内相となった、また、伯爵となった。
1837年(天保8年9月)、12代将軍・徳川家慶(とくがわい
 えよし)が将軍になった。
  生没年 :1793年〜1853年
  将軍期間:1837年〜1853年
  11代将軍・家斉(いえなり)の次男。
  11代将軍の家斉の没後、家斉の側近を排し、老中首座
 に任じた水野忠邦を重用して、天保の改革を断行した。
  忠邦の後は、阿部正弘を起用した。
  11代将軍・家斉は大御所政治であった。家慶は、1837
 年に将軍職に就いたが、
  大御所となった家斉と、その側近に幕政を牛耳られ、
 実権を握れなかった。
  それ故、家斉の死後は、その家斉の側近を排したのだ
 った。
  寛政の政治を手本にして、幕政の立て直しを図ったが、
 急激すぎ、また、厳格すぎて人心を失い、失敗したとさ
 れている。
1837年10月28日(天保8年9月)、15代将軍・徳川慶喜(と
 くがわよしのぶ)が生まれた。江戸幕府の最後の将軍。
  生没年:(1837年〜1913年)
  将軍期間:1866年〜1867年、
  水戸藩の徳川家は、後楽園小石川に藩邸があり、ここ
 で生まれた。
  徳川斉昭の第7子。一橋家を相続した。
  1857年(20歳)、将軍・家定の継嗣候補に推されたが、
 井伊直弼大老就任で、井伊の推す紀州藩・慶福(よし
 とみ)が14代将軍(家茂)に決定した。
  1858年(21歳)、条約締結問題につき、井伊を詰問し
 たことから、隠居謹慎させられたが、
  井伊の横死後、幕府が公武合体に転換したのに伴い、
 許されて、
  1862年(25歳)、朝廷と島津久光の要請により、幕命
 により一橋家を再相続し、将軍・家茂の後見人となり、
 松平慶永(よしなが)とともに幕政改革に務め、
  1863年(26歳)、上京して尊王攘夷勢力と対抗し、
  1864年(27歳)からの長州征伐を指揮したが
  1866年(29歳)、家茂が死ぬと、長州藩と休戦し、
  1866年12月、将軍となった。
  就任後、フランス公使ロッシュの援助で、幕政の改新
 をはかったが、大勢には抗しえず、
  1867年(30歳)、薩長両藩に討幕の密勅が下ると、
  山内豊信の意見を入れ、ただちに将軍職を辞した(大
 政奉還)。
  しかし、倒幕派慶喜に対する辞官納地要求で、
  1868年(31歳)、鳥羽伏見の戦いとなり、
  慶喜は江戸に帰り謹慎し、江戸開城の日、水戸に移っ
 たが、
  1869年(32歳)、罪は許された。
  1902年(65歳)、公爵に列せられた。
1837年4月、民主主義的精神の『天保庄屋同盟』
  「街道をゆく、8」によれば・・、
  天保8年に、「吾党の外へは、口外を制すべき最大の密
 事」として、52ヶ条の盟約書を作ったとされる。
  天保庄屋同盟は、主として土佐郡、吾川(あがわ)郡、
 長岡郡の三郡の庄屋のあいだで、極秘に結ばれたもので、
 結盟の動機そのものは他愛ないと言えば他愛ない。
  在来、かれら農村地帯の庄屋の方が、町方の町役(ま
 ちやく)より上座だったのが、
  江戸中期以後の商品経済の盛行で、
  町が実力を持ち始め、祭礼などのときに町役の方が郷
 庄屋より上座につきたがる傾向があった。
  郷庄屋どもがこれに憤慨したのが、直接の動機であっ
 たらしい。
  しかし、談合してみると、身分社会とは何かという事
 をはっきりさせるだけの思想が必要になり、
  しかも、彼らはその思想を十分持ち合わせていた。
  庄屋たちのほとんどが南学(土佐に根付いた一種の特
 徴を持つ朱子学)の教養人であるか、そうでなければ土
 佐国学の祖である鹿持雅澄(かもちまさずみ)の学徒で
 あったりした。
  天保庄屋同盟の基調になっている精神は、平等思想。
  彼らの上部の構造である将軍も大名も武士というもの
 が、一挙に霞み、封建的身分制が仮の姿に見えてくる。
  「およそ一天四海のうち棟梁は唯一にして」ここで棟
 梁とは朝廷の意味。
  「根本、朝廷より国々へ預けたまふ皇民の身体につき」
 と盟約では表現している。
  この思想が、龍馬につながって行く。
  龍馬を尊敬した同郷の中江兆民がルソーの徒になり、
 その兆民の弟子だった、同じく土佐中村の人・幸徳秋水
 も、そういう系列の中の人といっていい。
  龍馬の語録:「本朝の国風、天子を除くほか、其の世
 の名目なり」。
  また、土佐を特徴づけた自由民権運動天保庄屋同盟
 と照応するであろう。
  思想の土俗体質といえる。
  (注)名目:みょうもく、表向きのただの名称、
1837年6月、生田万の乱(いくたよろずのらん)
  越後柏崎の一揆(柏崎陣屋襲撃)
  大塩平八郎の乱と並び称される乱。
  越後柏崎で本陣を襲撃した一揆
  国学者の生田万が門弟や農民たちと決起した。
  前年も凶作で、その中で代官と米商人が結託して、米
 の買占めを行ない、農民の貧窮が甚だしかった。
  大塩平八郎と同じく、また、平八郎の義挙(ぎきょ、
 正義のために起こす行動)に影響された生田万も、下記
 の文の様に、農民の方々の窮状を見るに忍びなく決起し
 たのだった(この様な事が昭和にも起きた)。
  「此節(このせつ)は四斗四升入にて一両二朱に御座候、
 五十六里はなれし山方(やまがた)にては葛(くず)之根な
 どを喰(く)ひ、小児をば川へ流し申候、(中略)扨(さて)
 大塩平八郎の事御写し被下辱(くだされかたじけなく)、
 当方にても諸所の届書並(ならびに)大塩の四ヶ国への捨
 文等、逐一に写し御座候(下略)」
1837年7月、江戸品川などに救小屋を設けた(品川・板橋・
 千住・内藤新宿)。
1837年、モリソン号事件(もりそんごうじけん)
  6月という記述もあり、7月にマカオを出帆して来たと
 いう記述もある。
  アメリカ商船のモリソン号が、漂民7名を伴い浦賀
 入港した。
  しかし、異国船打払い令(1825年発令)に基づいて浦
 賀奉行が砲撃した。
  そして、薩摩へ向かい、7月に、モリソン号は薩摩の山
 川港に入港したが、再び、薩摩藩主が砲撃した。
  このことについて、崋山らがこれを批判したため、幕
 府に弾圧された(蛮社の獄1839年)、
1837年〜1843年、天保金銀(てんぽうきんぎん)
  幕府が、1837年に、金銀貨を改鋳した。
  天保の大飢饉後の物価高騰や、幕府財政の破綻状況の
 ため、その財政補強のための改鋳。
  五両判・小判・一分金・丁銀・豆板銀・一分銀など
  文政の金銀より品質を改悪して、莫大な改鋳益金を出
 し、非常用に備蓄した。
  今は、ただの紙のお札。日本もそうだが、アメリカな
 どは、特に、世界の基軸通貨だと言って、どんどん刷っ
 て、世界にばらまいている。
1837年、「ノブレス・オブリージュ」という言葉があるが、
  この言葉は、19世紀のイギリスの女優であり著作家
 ファニー・ケンブルという人が、この年に、手紙に使っ
 たのが最初と言われている。
  この言葉は、フランス語で、直訳すると「高貴さは強
 制する」と訳せる。
  つまり、「高貴なる者にともなう義務」と訳したりし
 ている。
  これは、キリスト教社会の完全なプロパガンダ(嘘宣
 伝)。
  欧米はキリスト教社会だからなどと説明している。
  この「施し」をする義務を負うというのはそういう状
 況ではない、
  事実は、「貴族が領土の民を豊かにしておかないと、
 動乱を起こされて、ひっくり返されてしまうから、適度
 に施しを与えておかなければいけない」という所から、
 発想から生まれていた。
  決して単純な善意でやっているのではない。
  そして、キリスト教の理解がない日本人は誤解して、
 「貧しい人には、見返りを求めずに助けてあげなければ」
 と言うが・・この意味ではない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive