(増補版)229D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年〜1840年)

題:(増補版)229D3/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1840年1840年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1840年天保11年)5月、売薬の看板に、オランダ文字の使
 用を禁止した。
1840年、幕府が、平田篤胤(ひらたあつたね、国学者)へ、
 著述禁止と、江戸退去を命じた(1841年説あり)。
  1776年、篤胤は、出羽(でわ)久保田藩秋田県)藩
 士に生まれ、
  1795年(19歳)で、脱藩し、江戸に出た。
  1800年(24歳)備中(びっちゅう、岡山県松山藩
 へ養子となる。
  儒教を批判し、尊王思想をとなえた。
  篤胤の思想は、幕末の尊王攘夷運動や、思想界に大き
 な影響を与えた。
1840年9月、高島秋帆が、長崎奉行の田口加賀守を通じて、
 幕府へ「西洋砲術意見書」を提出した。
  阿片戦争を例にひいて、火砲の近代化や、わが国の兵
 制改革を進言した。
  長崎で、西洋砲術などを学んでいた高島秋帆は、幕府
 へ、西洋砲術を採用するよう意見書を提出した。
  幕府は、これを受けて、江戸に招いて西洋砲術の演習
 を実行させた。
1840年長崎奉行・田口加賀守が、高島秋帆(たかしまし
 ゅうはん)とともに、オランダ船のバッテーラに乗り、
 帆を張って長崎港内を巡視した。
1840年長州藩の村田清風の改革が始まった。
  長州藩が、藩政改革についての大会議を開催した。
  村田清風らが改革構想を提出した。
1840年、加賀の農民が、九州地方に出張して害虫の実態と
 対策を調査した。
1840年、日本に、この年に書れた道中日記帳がある。
  これは、甲斐国豪農が、静岡の久能山東照宮の参詣
 したり、安倍川餅を食べたり、
  愛知の桶狭間の古戦場を見物して、今川義元公の墓参
 りをしたり、
  大津では、木曽義仲の墓などを見て、
  大阪では、人形浄瑠璃の芝居見物したり、
  岡山に周ったり・・と、
  地方の富裕層が、文化的な旅行を楽しんで、全国のあ
 ちこちを周り、
  四国の金毘羅さんにお参りをするのだが、
  江戸時代の後期のこの時期に、豪農豪商が、豪華旅行
 を始めていた。
1840年、アームストロング(イギリス)が、水力発電機を
 発明した。(1878年説があり)
1840年、ケラー(ドイツ)が、木材を砕いて、すりつぶし
 て、パルプ(紙の原料)を機械的に作る方法(砕木パル
 プ)を発明し、パルプ工業と製紙工業が盛んになった。
  19世紀後半に、化学パルプが発明される。
1840年代、アメリカによる捕鯨が盛んに行われる。
  この頃、アメリカの捕鯨船は、1200隻に及んだ。
  アメリカは、すでに、1711年に、マッコウクジラ漁を
 はじめ、クジラ漁をしているが、
  それが、19世紀に至ると、大西洋のクジラを捕り尽く
 した。
  それで、日本近海のクジラを取り出していた。
  ランプの油だけに使い、クジラのほとんどを捨てると
 いう、まったく可哀想な捕り方だった。
  これも、ヨーロッパが、植民地から奪い取った利益で
 潤い、生活が贅沢になり、
  また、夜、遅くまで起きているため、照明用のクジラ
 の油が大量に必要としたからだった。
1840年代、オーストラリアは、この年代に、先住民のアボ
 リジニーの方々を、大勢、殺した。
  以下は、この1840年代の、あるアボリジニーの方の回
 想。
  「わしらは、自分たちの土地から追っ払われ、弾に撃
 たれ、毒をもられた。
  娘たちや姉妹たち、それに妻たちは、白人が奪って行
 った。
  一体、何人の仲間が、キルコイ〈クィンズランド州、
 州都ブリスベンの近くの集落)で殺されたことか。
  白人たちは、わしらが生活していた土地を奪った。
  わしらが、腹のへったはずみで、小麦を少しばかり失
 敬したり、牛を殺したら、鉄砲の弾と毒がお返しに見舞
 ってきた。
  今じゃあ、わしらの奪われた土地の代わりに、白人が
 くれる物といやあ、1年に1枚の毛布ぐらいのものさ」。
  キリスト教徒のオーストラリア人の先住民の方々への
 弾圧は、まったく酷(ひど)い。
  また、1840年代末には、オーストラリアの先住のアボ
 リジニーの方々は、無菌状態の自然の中で自由に生活を
 していた。
  そこへ、イギリス人の占領者が入って来て、あらゆる
 病気をもたらした。
  その病気は、急速に蔓延した。
  その病気に対して、アボリジニーの方々には、一切、
 免疫はなかった。
  天然痘結核、しょう紅熱、インフルエンザ、風邪、
 水疱瘡、気管支炎、ハシカ、性病など、あらゆる病気を、
 イギリス人の占領者たちは持って来た。
  その打撃は想像以上だった。
  ある一地域の例で、1840年代末には、梅毒患者は、170
 名のアボリジニーの方々の内、5名に過ぎなかったが、
  わずか10か月後には、成人の50パーセント以上になっ
 た。
  さらに、20か月後には、90パーセントとなった。
  白人のイギリス人入植者が、極端に男性に偏っていた
 ために、アボリジニーの女性が、頻繁に、性的な搾取の
 対象となった。
  食料を与えることとの交換として要求されたのが、ア
 ボリジニーの方々の間に、性病が蔓延した原因だった。
  また、承諾のない強姦も多くなされた。
  白人・キリスト教徒の小屋に、鎖でつながれ、閉じ込
 められている例も、多く見られた。
  また、イギリス人の間には、性病を若い女性に感染さ
 せれば治るという卑劣な迷信があった。
  このイギリス人の悪行為によっても、アボリジニー
 方々の人口減少の大きな要因となった。
  また、白人との混血も多く生まれた。
  白人の占領地拡大と反比例に、アボリジニーの方々の
 人口の減少が起きて行った。
1840年アヘン戦争
  中国で、中国とイギリスの間で、アヘン戦争が起こっ
 た(〜1842年)
  イギリスは、貿易の不均衡を解消するため、中国にア
 ヘン(麻薬)を輸出した。
  そのため、中国国内でアヘン中毒者が急増するにつれ
 て、中国の輸入超過が生じた。
  いたたまれず、欽差大臣の林則徐は、広州でアヘン禁
 止を断行した。
  これに対し、イギリスは、強権出動の手段を取り、イ
 ギリス艦隊を出動させた。
  清は、この戦争に屈した。
  そして、香港をイギリスに割譲し、また、五港を開港
 する南京条約(1842年8月)を結んだ。
  以後、中国は、列強によって半植民地化されて行った。
  1997年に、香港は、中国に返還された。
  アヘン戦争:詳述、
  1840年6月28日〜1842年8月29日、
  イギリスと、中国・清国との間の戦争。
  アヘン(麻薬)の密輸が原因となった戦争。
  イギリスは、清国から茶や陶磁器、および、絹など大
 量に輸入していた。
  一方、イギリスからは、清国へ輸出するものが少なか
 った。
  わずかに、時計や望遠鏡などの金持ちしか買わないよ
 うなものしか輸出するものはなかった。
  当然、イギリスの大幅な輸入超過となった。
  イギリスの銀が流出した。
  イギリスは、アメリカとの戦争などの戦費の必要が迫
 られていて、銀などの国外流出を抑えたかった。
  そこで、卑劣にも、イギリスが考えたことは、インド
 の植民地で栽培したアヘンを、中国・清国へ密輸する事
 だった。
  それで、輸入超過分の赤字を埋めようとした。
  中国・清国は、1796年にアヘンの輸入を禁止していた。
  当然だった。
  しかし、アヘンの密輸入は止まらず、清国内に、アヘ
 ンの中毒患者が広まって行った(吸飲者急増)。
  また、そのアヘン購入のための清国の銀も多量に流出
 し、銀保有量が激減した。
  アヘンの吸飲を取り締まる清国に対し、イギリスは、
 イギリス人の保護という名目で、清国貿易監察官を派遣
 した(まったくの言いがかり)。
  そしてまた、東インド艦隊を、監察官協力の名目で、
 清国へ出動をさせた。
  この様な事態を招来させたら、当然、つばぜり合いは
 起きる。
  清国の取り締まり、そして、アヘン引き渡し要求に強
 権で対峙したイギリス。
  清国側にも、イギリス人側にも、傷付き、そして、殺
 害されるものが出た。
  この様ないざこざでの被害を口実に、イギリスは、
 1839年9月4日に、九竜沖砲撃戦を行なった。
  そして、11月3日に、川鼻海戦で、清国船団が壊滅した。
  本国のイギリスでは、「アヘンの密輸」という「不義
 (不正義)の戦争」という批判はあったが、
  清国への出兵予算案は、議会で可決され承認された。
  この議決を受けて、イギリス海軍は、正式にイギリス
 東洋艦隊を編成し、清国へ派遣した。
  1840年8月に、清国到着後、清国沿岸地域を占領し始め
 た。
  そして、砲台を陥落させたりして、北京へ迫った。
  イギリスは、インドのセポイ兵や、軍艦の増強をした
 りして、清国侵略を奥深くまで進めて行った。
  そして、1842年8月29日の南京条約調印に至った。
  イギリスは、卑劣な事に、第二次アヘン戦争と言われ
 るアロー戦争も、清国としている。
  骨の髄まで吸いつくされる清国だった。
  武力が進んでいるからと、弱い者いじめを、いやと言
 うほどするキリスト教国のイギリスだった。
  再度、検証:
  1840年6月28日、アヘン戦争が始まる。
  この前年に、支那は、国が滅びる状態を打開しようと、
 林則徐(愛国的官僚、民衆からも慕われていた)を広東
 へ派遣した。
  林則徐は、イギリス商人の持つ禁制品のアヘンを押収
 し、焼却処分にした。
  この時、イギリス人水夫に、清国人が殺される事件が
 起きた。
  林則徐は、イギリスへ犯人引き渡しを要求した。
  イギリスは拒絶した。
  林則徐は、最後通牒を発した。
  広東のイギリス人区域を攻撃すると・・。
  居留地域にいた外国人はマカオに避難した。
  しかし、イギリスは、これを「これ、幸い」とした。
  イギリスは、イギリスと清国との軍事力の差を良く知
 っていた。
  イギリスは、清国より遙かに優越していると・・。
  まったくの弱い者いじめだった。
  戦争は、イギリスから先に始めた。
  清国の軍艦へ、イギリスは砲撃を開始して、戦争は始
 まった。
  イギリスは、やすやすと支那軍を破って行った。
  イギリス軍は香港を奪い、舟山列島を奪い、そして、
 上海・寧波・鎮江などを占領して行った。
  揚子江も侵入され、1842年8月29日、南京で清国は、
 イギリスと講和条約を結ばざるを得なかった。
  極めて不平等なる条約が、全敗の清国に押し付けられ、
 清国は、そのイギリスの要求を飲まざるを得なかった。
  そして、アヘン貿易は、さらに盛んとなり、社会はシ
 ッチャカ、メッチャカに混乱した。
  この報を受け、これを知った江戸幕府は動揺した。
  幕府は、それまでの強硬な「異国船打払い令」を和ら
 げ、この年の1842年に「薪水給与令」を発した。
  1840年〜1842年、この年のアヘン戦争に日本は、いち
 早く反応した。
  日本は「阿片(あへん)風説書」をいち早く出し、警
 戒心を強めた。
  しかし、朝鮮は、9ヶ月も経って、使節が、李王に報
 告書を出したが、内容が簡単で、その貧弱な内容の為、
 事態が急変している事に気が付かないという状態だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive