(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年〜1742年)

題:(増補版)167D1/3:気になった事柄を集めた年表(1740年〜1742年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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18世紀、長年、キリスト教と戦ってきたフランスだった。
  そのフランスの知識人・ギイ・シボン氏の言葉:
  「18世紀の市民たちの革命は、『王権神授説』を支え
 たキリスト教会の権威を倒すための行動だった」・・
 ・・と言った。
  キリスト教は、権威が得たいと、あらゆる手を使った。
  俗の世界のものにまで、手を出した。
  そこで、俗の世界の最高位にある王権が、(キリスト
 教の)神から国王に授けられたものだという破廉恥な考
 えを押し付けた。
  その様な行為でもって、キリスト教は、権威を得て行
 った。また、権力を得て行った。
  智のある人たちは、その不本意な行為と戦った。キリ
 スト教と戦った。
  しかし、キリスト教は、その俗の王を凌(しの)ぐ力
 (ちから)を持った。
  俗の王が、キリスト教権力に、破門の解除を願い、許
 しを乞うた話が、過去にもある、「カノッサの屈辱」と
 いう歴史的事実だ。
  この話は、キリスト教が、強権を使って、俗の王を謝
 らせてしまったという話である・・が、
  この歴史的事実は、キリスト教プロパガンダ(嘘宣
 伝)で、キリスト教が美しく話を仕立てて話されている、
  が、しかし、話は、まったく逆である、
  キリスト教が、キリスト教の権威で、腕力で、俗の王
 を謝らせた・・という権力闘争に打ち勝ったという話で
 ある。
  王権神授説(おうけんしんじゅせつ):王の統治権
 人民の委託によらず、(キリスト教の)神の特別な恩寵
 おんちょう)に基づく・・とする。
  人民の総意ではない、人民の意思ではないというから
 恐れ入ってしまう。
  恩寵(おんちょう):(キリスト教の)神から受ける
   恵み。
  この話を、キリスト教に偏するNHKは、学校放送の
 番組として、キリスト教と同じ言い方で高校生たちに説
 明した。
  まったくキリスト教会の手先の様な放送をした。
1741年、ロシアのヴィトゥス・ベーリングが、第二次探検
 でアラスカ沿岸に達した。
  この第2回カムチャッカ探検は、1733年〜1743年にかけ
 て行われた。
  ロシアは、1733年に、探検隊を編成した。
  そして、1741年7月4日に、第二次調査隊が、ペトロバ
 ブロフスを、アメリカ大陸を目ざして出発した。
  そして、1741年7月16日に、アラスカの陸影を視認した。
  そして、数日後、アラスカのカヤック島に上陸した(
 7月17日説あり)
  その後、カムチャッカに向かい、発見した陸地を海図
 に記入しながら航海を続けた。
  そして、1741年8月末に、アリューシャン列島の島々を
 発見し、シュマージン諸島の島の一つに上陸した。
  そこで一週間をすごし、土地の住民のアレウト人と初
 めて遭遇した
  (だから、ロシア人が最初の発見者ではない。アレウ
 ト人が最初である)
  その後、病気で死んだ乗組員を葬ったり、大嵐に見舞
 われたりして、1741年11月4日に、コマンドルスキー諸島
 の無人島の海岸線を視認後に漂着した。
  壊れた乗船と、多くの病人を抱え、ベーリング船長自
 身も重い病のなか、その島に上陸した。
  そして、その島に居た巨大なジュゴンを獲って、飢え
 をしのぎながら、越冬した。
  しかし、1741年12月8日に、ベーリング船長は、60歳で
 没した。そして、この島に葬られた。
  ベーリング隊の生き延びた乗組員は、船医で博物学
 であるステラー博士と、ワクセル中尉に率いられて、カ
 ムチャッカに戻った。
  この途中で、ステラー博士も亡くなった。
  この後、この乗組員たちを救ったジュゴンは、乱獲さ
 れ絶滅したという。
1742年11月、銅の輸出額を制限した。
  幕府は、長崎を天領とし、奉行をおいて、貿易を監督
 した。
  おもな輸入品は、生糸・薬品・書籍だった。
  そして、輸出品は、銀・銅・海産物だった。
  日本の銅は品質が良かった。
  遠い日本の地であっても国際的な競争力があり、大量
 に流出していた。
  また、生糸などの輸入価格が引き上げられ、大量流出
 の原因にもなっていた。
  幕府も貿易統制を行なったり(市法売買)努力した。
  日本の貨幣改鋳による金銀の質の低下が起きると、銅
 の輸出額(量)が急激に増加して行った。
  銅の集荷などを幕府はさせたが、
  また、海産物の輸出の増加をはかって、銅などの流出
 量を減らそうとした・・が、
  銅の需要の急激な増加は、各地の銅山をたちまち枯渇
 させた。
  その様な中、金銀の流出も防止せざるを得なく防止し
 たため、銅へ集中する状況においてコントロールが行わ
 れた。
1742年、経済:幕領年貢
  この頃の幕領年貢は、近世後期最大の180万石となる。
1742年、令:公事方御定書(くじがたおさだめがき)
  御定書百箇条(刑法関係成文法規)を作った。
  この「公事方御定書」は、吉宗の命によって、老中の
 松平乗邑、および、三奉行が中心になって作成した(幕
 府の内規集という形)。
  法律に関心の深かった吉宗自身の意見も、随所に反映
 されているという。
  そして、この作成者ら以外には秘密にされた。
  判例・取り決めなど103条が収めてある。
  1742年に、一応、出来上がったが、奥書(おくがき、
 著作や写本などの巻末の、著者名・書写年月日・来歴な
 どについての書き入れ)も書かれたので、一般に、この
 年を成立時期としているが、
  編集は、続行されていて、実質的に完成したのは、翌
 年の1743年だった。
  そして、その後も1754年まで書き加えが行われている。
1742年、フランソワ・デュプレクス(フランス人)が、ポ
 ンディシェリ(インド南東部の港湾都市、フランス領イ
 ンドの首府)の総督となる。
  この都市は、イギリス領インドの中でフランス領とし
 て存続し続けた。
  この2年後の1744年に始まったオーストリア継承戦争
 では、対抗関係にあるイギリス東インド会社に対して優
 勢の内に戦いを進めた(実質的にはイギリスとフランス
 の植民地における戦争、会社が絡んでいるだけ)。
  インドでは、卑劣な事に、このイギリスとフランスは、
 何度も戦争をしている。
  南インド東海岸の貿易拠点を巡る戦争や、荷物の集
 散地をめぐる争いや・・
  インドの方たちが迷惑なだけだった・・
..
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