(増補版)11A:気になった事柄を集めた年表(300年〜500年)

 題:(増補版)11A:気になった事柄を集めた年表(300年〜500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
300年、4世紀〜5世紀、巨大古墳に馬具を埋めたものが多
 く、馬・イノシシ・犬・シカ・サル・鶏・水鳥類などの
 動物埴輪や、鷹狩をする人の埴輪が残される。
300年(4世紀)、西アフリカに20万人の軍隊を、常時、配
 備していたガーナ王国が誕生した。
300年、新羅(しらぎ):古代朝鮮のこの頃、慶州地方を
 本拠とする斯蘆国が辰韓を統一してできた。
  高句麗百済との抗争の中で勢力を伸ばし、660年に
 唐と連合して百済を、668年には高句麗を滅亡させ、676
 年に唐勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した。
  これ以後を統一新羅時代と言うが、滅亡した高句麗
 遺民らが建てた渤海と対立し、唐の冊封を受け、日本と
 も国交を持った。
  律令制に基づく唐制も取り入れ、中央集権的な国家体
 制を目指し、仏教中心の文化が花開いた。
  9世紀末には一地方政権となり、935年に高麗王朝に降
 伏し、滅亡した。
300年頃、リベリア〜インドまでのポイティンガー図(絵
 図的な地図)が作られた。
313年、高句麗が、楽浪・帯方の二郡を滅亡させ、その地
 を併合した。
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。
323年、仁徳天皇が、社会資本整備事業になる『茨田堤』
 を築いた。
  これは、江戸時代以前の主な社会資本整備事業である。
324年、キリスト教ローマ帝国の国教となった。
325年、キリスト教の最高の会議の「ニカイア公会議」が
 開かれた。相変わらず揉(も)めにもめた。
  「イエスは人か?または、神か?」と。
  色々な話で揉めたが、「ニカイア信条」をまとめた。
  その信条の中に、「(イエスは)聖書に従い三日目に
 よみがえり・・」と書いた。
  イエスが刑死した時は、まだ、キリスト教の聖書はこ
 れだと決まっていないのにである。
  たとえ、聖書があったとしても、その聖書にイエス
 従ったとは?そして、聖書に従って復活行為をしたとは?
  キリスト教の神が無視されている。
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。
330年、コンスタンチノーブルへ遷都。
  コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コンス
 タンティノーブルに遷都する。
  度々の火事に見舞われた。
  ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
4世紀半ば、この頃、大和朝廷が統一された。
351年、キリスト教のアウグスチヌスが生まれた。
  彼の時代は、ゲルマン人の侵入の時代だった。
  人々は狼狽した。
  そのような時代であったため、キリスト教会が、理想
 的な神の国の様に民には見えた。
  地上的な王国との中間に介在して、地上の国家に神の
 国をなし得る限り実現させていく導きとなることを祈っ
 た。
  アウグスチヌスは、崩壊していくローマ帝国を、信仰
 によって超越したいとした。
  しかし、彼の願いもむなしく、キリスト教の聖として
 の彼も、時代の流れに抗する事は出来なかった。
367年、百済が、初めて日本に使節を送った。
367年、倭国が、百済の求めに応じて朝鮮半島に出兵した。
  百済と通交し、任那を領有した。(日本府を成立させ
 たか?)
367年、百済王が、倭王石上神宮七支刀を送った。石上
 神宮は物部氏氏神である。
374年、好太王が生まれた(374年〜412年)
375年、ゲルマン民族大移動。
  フン族の攻撃に押されて逃げ延びようとしたゲルマン
 人の一派である西ゴート族が南下、
  ドナウ川を越えし、ローマ帝国領を脅かしたことが移
 動の始まりとされている。
  多数の移動は、侵略的であったり、平和的に行われる
 こともあったが、原因として他民族の圧迫や気候変動、
 それらに伴う経済構造の変化がある。
  4世紀〜5世紀にかけて、ヨーロッパと北アフリカで起
 きた。
  ゲルマン人の侵入によって、キリスト教も大きく影響
 を受けた。
  ゲルマン民族の土俗信仰が、たっぷり染み込んだ。
  キリスト教は、この事例だけでなく、他宗教の真似を
 したり、取り入れたりと、変質の激しい宗教である。
378年、アドリアノープルの戦いでローマ帝国軍は敗退し、
 ウァレンス帝が戦死する事態に追い込まれる。
  以後、ゲルマン系諸民族が、他の勢力と共に各地の領
 土を切り取って、国家を形成していく。
391年、高句麗好太王が即位した(391年〜412年)
391年、日本軍が朝鮮半島に出兵し、高句麗などと戦った。
  百済新羅を従えた(好太王碑)。
  この石碑は、現在、中国の鴨緑江流域に置かれている。
392年、テオドシウス帝が、キリスト教ローマ帝国の国
 教とした。
  統治のために利用したいとした。
  崩壊寸前の国を救いたいと思った。
  また、キリスト教ユダヤ教の対立があった。
  しかし、、国教とした年から、わずか3年後の395年に
 は、ローマ帝国は、東西に分裂してしまった。
  そしてまた、このイタリアの地は、ゲルマン民族の大
 移動にさらされた。
  東ローマ帝国は、しっかり守り、無事だったが、
  西ローマ帝国は、その81年後の476年に滅亡してしま
 った。
  ゲルマン民族ケルト民族が、原住民として住んでい
 たガリア地方は、辺境の地で、無文字の社会だった。
  移動して来た民と民族は混在した。
  ゲルマン人無文字社会であったが、ラテン語を公用
 語とした(キリスト教ラテン語を重要視している)。
  ゲルマン人は、あちこちに移動し、混血した。
  ローマ人とも混住した。
  ローマ人に軽蔑されながら、ローマ人を支配した。
  ローマのキリスト教司教たちは、長い髪のゲルマン人
 の群れの間に座り、ゲルマン語を耳にするのを我慢する
 のが嫌(いや)だった。
  軽蔑感をあらわにした資料が、現在に残っている。
  しかし、ローマ人も、ゲルマン人のもとで平和を求め
 た。
  ゲルマン人は善政を敷いた。
  そして、ローマ文化を吸収した。
  ローマの貨幣を用い、地中海貿易を行った。
395年、ローマ帝国が東西に分裂した。
  奴隷制農業から小作制への社会基盤の変化は、軍人皇
 帝時代の混乱をもたらした。
  後期帝政も大帝国を維持できず、395年に東西に分裂
 した。
395年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国):ローマ帝国
 分裂により成立した国。
  ビザンチウム(コンスタンチノーブル)を首都とした
 のでこの名がある。
  395年に始まり、1453年にオスマン・トルコにより滅
 んだ。
  イスラム勢力と常に緊張関係にあり、領土は次第に縮
 小した。
  後には、首都周辺のみとなったが、海軍力によって東
 地中海の商圏は維持した。
  ローマ帝国の伝統を保ち、皇帝教皇主義、ギリシャ
 教、ビザンチン芸術など独自の形成に貢献した。
  帝政末期には、多数の学者・文人が西ヨーロッパに亡
 命し、ルネッサンス期の古典学の発達に寄与した。
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。
  これまでの約400年間は、キリスト教聖典の無い年
 月を過ごした。
  イエスは、アラム語を話した。そのイエスアラム語
 が翻訳されている訳ではない。
  また、各語への翻訳による齟齬が発生している。
  旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻。
  仏教経典から見るとささやかな経典となっている。
400年、ポリネシア人イースター島に400年〜500年頃に
 渡って来た事がほぼ認められている。
400年代(5世紀)、中国を代表する仏教遺跡で、世界遺産
 に登録されている雲岡(うんこう)石窟は、北魏が、5世
 紀に造営した仏教寺院で、東西1キロにわたって多数の石
 窟がある。
5世紀、楼蘭は、タクラマカン砂漠の東端に位置し、東西
 交通の要衝として栄えたオアシス国家。
  5世紀に忽然と姿を消した。
  紀元前176年に歴史上にその名を現した。
5世紀、この頃の日本の事が、中国の歴史書宋書倭国伝」
 に記されている。
5世紀、渡来人が漢字や技術などを伝えた。
404年、倭軍が、帯方の地域で高句麗好太王の軍と戦っ
 た。
412年、好太王が没した(374年〜412年)
413年、この年以後、しばしば中国に遣使する。倭の五王
421年、倭王讃が、江南の宋朝朝貢する。
427年、高句麗が、都城平壌に移す。
430年、宋に朝貢した。
5世紀前半から半ば、この頃、仁徳天皇陵(486メートル)
 が築造され、古墳文化が栄えたが、
  エジプトのピラミッドの最大のクフ王のピラミッド(
 231メートル)より大きく、
  また、中国の秦の始皇帝の墳墓(350メートル)より
 も大きい。
  日本人のスケール感が大きいことを表す1例である。
  半導体産業で、日本の技術が、世界を席巻していた頃、
  韓国の学者が、「日本人は小型のもの、微小なもの、
 繊細なものを開発するのが得意だ」と言ったが、
  この言葉は、決して、日本人をほめる趣旨で発言され
たものではなかった。
  日本人の特性として「縮(ちぢ)み志向」であるとい
 う意味で言われたものだった。
  かなり、このマインドコントロールは、日本及び日本
 人に定着し、洗脳されている。
  日本人は、昔から優秀なのであり、
  韓国学者が、言う様な「縮み志向」の資質の国民でも
 ない。
  あの古代に、制振技術を組み込んだ五重塔は、今・現
 代でも、脚光を浴びている
  あの時代に、この様な高層建築を、それも、全国のあ
 ちこちに、普通の、ふだんの技術の様に、駆使して、使
 い切って、塔を建てている。
  この様な事例は、日本には、いろいろ、あまたある。
  五重塔の芯柱が、制振の挙動をするように、取り付け
 た、斬新な技術は、今・現代においても驚嘆に値する。
  何百年も、さかのぼった時代であった事を、さらに誇
 るべぎである。
  技術だけでなく、日本の文化も、奥深く、誇るべきで
 ある。
 因みに、この技術の考え方は、何と、1993年に建てられ
た、横浜みとみらい21の中核を担っている超高層ビルに、
今・現在、使われています。
 このビルは、70階建て、高さ296.33メートルで、建設
当時日本一高いビル、今、第2位のビルです。
  能楽茶の湯、生け花、水墨山水画、回遊式庭園、枯
 山水、書院造りなどなど、例をあげるいとまもない。
  仏像群の奥深さも、現代美術のロダンをしのぐ、世界
 で、これらに比肩できる彫刻群は、ギリシャ古典世界以
 外には存在しない。
  勿論、中国にも、朝鮮にも、アメリカにも、イギリス
 にもない。これ等の国に、これだけの世界は作れていな
 い。
451年、アッチラの率いるフン族は、ライン川を渡り、ガ
 リアに侵入し、オルレアンを包囲した。
  西ローマの将軍アエチウスは、ゲルマン諸族の軍と共
 にこれを討ち、今の北フランスのシャロン付近のカタラ
 ウヌムの野で大決戦をした。
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した。
  匈奴と呼ばれるフン族は、インドや中国へも侵入した。
475年、高句麗が、漢江流域の漢山城の王都をおく百済
 陥れた。百済は、都を熊津に移した。
476年、西ローマ帝国が滅亡した。
478年、倭王武(わおうぶ、雄略天皇)が、宋の順帝(南
 朝)に遣いを送り、上表文を呈した。
  倭王武は、順帝から安東将軍の叙爵を受けた。
480年(5世紀後半)、キリスト教の「アタナシオス信条」
 ができた。
486年、フランク王国が建設された。
500年、この頃、達磨という、インドの仏教徒が、中国で
 禅宗を広めた。
  修行で9年間も座禅を組み、悟りを開いたという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009