(増補版)249D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1858年〜1858年)

題:(増補版)249D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1858年〜1858年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1858年9月24日、インドの方々の美しき愛国的反抗
  反抗行動していたインドの方々だったが、この日に、デ
 リーは陥落した。
  インドの方たちのイギリスへの大反抗は終わった。
  「セポイ兵の反乱」から始まって、「インド民衆の反抗」
 へ移って行ったが、反抗は力で抑え込まれてしまった。
  1857年5月10日に始まったインドの方たちの反乱。
  セポイの反乱兵士たちは、デリーのムガル皇帝の元に
 向かい・・、
  反乱軍の到着の知らせが入ると、デリー市民や、デリ
 ー駐屯のセポイ兵は、城門を開いて、彼らを向かい入れ、
 そして、反乱兵たちは、名ばかりにされていたムガル皇帝
 を擁立し、帝国の復活を宣言し、自分たちの国を建てるこ
 とが出来たのだった。
  戦いは苦しかった、苦行僧や、托鉢僧(たくはつそう)
 は、地方を遊説し、現実を説いて回った、そして、抵抗へ
 の、戦いへの参加を説き、そして、叫んだ。
  その様なこともあって、反乱は、北インドから、燎原(
 りょうげん)の火の如く広がって行き、中部インド一帯に
 まで広がって行った。
  反乱のセポイ兵の戦いの領域から、はるかに超えて、イ
 ンドの民衆の方々の、自由を欲する、自由を要求する広い
 地域における、イギリスへの反抗の戦いとなった。
  いままでのイギリスに与えられて来た非人道的な虐待の
 鬱積(うっせき)が爆発したのだった。
  イギリスは驚愕した、インドの方々の団結とその集まり
 の行動に驚愕した。。
  セポイの反乱は切っ掛けであった、正しくは、実際は、
 「インドの方たちの反抗」となった。
  一部組織のセポイの反乱の様相ではなくなった。
  「セポイ兵の反乱」から「インドの方々の反抗」のうね
 りとなった。
  セポイ兵の方たちが立ち上がり、そして、インドの方々
 が立ち上がり、このうねりに、イギリスは、切羽詰まった
 状況に追い込まれた。
  しかし、イギリスの反撃体制の立て直しも早かった。
  この時、丁度、イギリスの総力をインドへ向けられる
 状態になっていた。
  (それにしても、世界のあちこちで戦争するイギリス
 だった。武力で、弱小の国々を言うことをきかす、弱い者
 いじめのイギリスだった)。
  丁度、この時、イギリスは、ペルシャとの戦いが、前
 年に終わっていた(ペルシャの反乱の鎮圧)。
  そしてまた、中国の太平天国の乱の鎮圧もめどがついて
 来ていた。
  つまり、インドへ、総力を上げて武力行使できるイギリ
 スだった。
  イギリスは、インドへ強力な軍隊を結集した。
  さらに、イギリスは、その他の国の兵まで、このインド
 の方々へ差し向けた。
  勇猛で有名なネパールのグルカ兵や、パンジャーブ州
 シク族の兵などだった。
  イギリスは、すべてを、総力を、デリーへ向けた。
  デリー奪回に主力・総力を注いだ。
  激しい攻防戦が繰り広げられた。
  4か月の激戦だった。
  インドの方たちは、よく戦った。
  そして、市街戦となっても、インドの方々は、5日間も、
 烈しく抵抗し、戦った。
  決死の戦いだった。
  戦力と兵器にまさるイギリス軍に対して、よく戦った。
  しかし、9月24日、イギリスの武力の下に、暴力のもとに
 下った。
  デリーは、陥落してしまった。
  ムガル皇帝は捕虜となった。
  ムガル帝国は滅亡した。
  この後、イギリス軍は、インド各地の攻略をして行った。
  それでも、各地で血みどろの決戦が繰り広げられた。
  さらに、ゲリラ戦でも、インドの方々は戦いを繰り広げ
 た。
  執拗に、イギリス軍に抵抗し、今までのイギリスの非人
 道的行為に抗議し、卑劣なイギリスの行為への対抗を表現
 していた。受け入れたくないのだと・・言っていた。
  これ等の戦いの中で、美しい話も生まれた。
  ジャーンシーの若き女王のラクシュミー・バーイ女王は、
 自ら馬にまたがり、戦場を駆け巡り、自軍を励まし、大国
 のイギリス軍を悩まし続けた、善戦した。
  しかし、グワーリヤルの戦いで、彼女は、銃弾を受けた、
 戦死した。
  女王の強い愛国心と、英雄的行為は、後の世まで物語と
 して残った。
  また、女王を偲んで歌がうたわれて、「インドのジャン
 ヌ・ダルク」として民衆の心の中に生き続けている。
  本物のジャンヌ・ダルクは、卑劣な、引っ掛けの尋問
 を、キリスト教裁判所の聖職者の卑劣尋問の裁判で、生き
 ているのに、命あるジャンヌ・ダルクを焚刑にして、公衆
 の面前で、卑劣なやり方で焼き殺した。生木を使用した。
  卑劣な事をした。
  インドのイギリスへの反抗も、2年間にわたる抵抗も・・、
 地下に潜った兵を残して、鎮圧された。
  地下に潜った兵の反抗は、1859年の中頃まで続いた。
  その後の仕返し、イギリスの悲惨な、そして、卑劣な仕
 返し、
  無残な、無慈悲な、反抗した兵への報復の殺しが、この
 後に行われる。
  これ等の事は、すべて、ユネスコへ登録されるべきだ。
1859年、セポイの反乱の後の、イギリスの行為、
  セポイの反乱の後に、イギリスは、インドのあちこちに
 記念碑を建てた。
  事実を曲げて、イギリスが正しく立派で、良いことをし
 たと、デッチ上げた記念碑だった。
  今、キリスト教が、日本のあちこちで、同じことをして
 いる。
  イギリスも、この様な行為を行なって、インドの方々の
 心を繰ろうとした。
  しかし、イギリス軍の想像を絶した残虐行為の記憶は、
 インドの方々の心の深くに残り、拭い去ることは出来ない。
  イギリス軍の残虐行為は、規模が大きく、また、演出も
 ずる賢く、巧みだった。
  反乱軍の捕虜は、ほとんど、裁判もなく殺した。
  殺し方は、1つの例は、インドの方々を、数人ずつ束ねて、
 大砲の前に立たせ、大砲を撃ち、、弾丸もろとも吹き飛ば
 した。
  また、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人か
 のインドの方々を立たせて、枝から吊るしたロープを首に
 巻き、牛に車を引かせた。車が去れば・・、
  体は吊られる状態になった。
  また、象を使って八つ裂きにしたりした。
  アラーハーバードの街路に沿って、木という木に、死体
 が吊るされた。
  吊るされない木がないほどだった。色々やった。
  それに、イギリスは、宗教的な嫌がらせまで行った。
  ヒンドゥー教のインドの方々にとって、牛は神聖な動物
 だった。
  イギリス人は、その神聖な牛を殺して、インドの方々の
 口の中に、その牛の血を、注(そそ)いだ。
  卑劣に焼き殺す話もあるが、余りにも悲惨なので略す。
  その他いろいろとイギリス人は、インドの方々を、卑劣
 な殺し方をした。
  これ等の事は、すべて、ユネスコへ登録されるべきだ。
1858年、「インド統治法」
  イギリスが、植民地のインドを統治するための大綱を定
 めた。
  これは、イギリスに対抗したインドの方々の民族運動の
 対抗を反映したものであった。
  ますます、イギリス政府の介入が強化されて行った。
  名目は、インド社会の統治を整序する(せいじょ、物事
 を秩序だててととのえる)だった。
  この「インド統治法」ができ、インド統治の大権は、
 イギリス国王が握ることとなった。
  イギリスの主権下に置いた、置かれた。
  インドの人々にあるべき権利を完全に奪った。
  「イギリス紳士」という言葉があるが、イギリスは、
 紳士の様に、紳士ぶって法律・条例を作り、「この法律に
 従うのだ」「この条令が正しいのだ」という言葉によって、
 インドの方々を支配し、蹂躙した。
  「法律があるから正しいのだ」という論理で、事を粛々
 と行い、インドの方々を、絞って行った。
  その行き着くところでは・・インドの方々の『命を奪っ
 た』。
  インドの大反乱(セポイの反乱)後のこの1858年に、
 完全支配体制下に置いた。
  これは、インド在来の、農業制度を、根底から破壊し
 尽した。
  その為、インドの方々の村落共同体は、ばらばらになり、
 荒れ地の社会の様になった。
  結びつきの、『大切な絆』は、跡形なく、無くなって
 しまった。
  農村は、無味乾燥なイギリス資本に都合よく、支配に
 都合よく・・変えられてしまった。
  キリスト教も、このようなやり方をする、表面的には
 良く見えるが、結局は、自分勝手な論理で、結局、相手を
 無視して、殺すことまでに至ることをする。
  自分の気に入らないものは、すぐ、『異端』のレッテル
 を貼って、追放するか、殺した、その歴史だった。
  「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義を、そのままを
 実施をした。
  このインド農村社会は、目も当てられない悲惨な状態に
 陥った。
  ハーバート・コンプトンは言う・・、
  「予は誓って言う。
  大英帝国において、印度農民以上に悲惨なるものはない。
  彼らは、一切を絞り取られて、ただ骨のみを残している」
 ・・と。
  そして、また、彼は言う・・、
  「彼らは、腹いっぱいものを食った経験が無くして死ぬ」
 ・・と。
  この様なインドの方々を小銃で殺す。
  「日々、我らは、8人ないし10人を屠った(殺戮した)」
 と、ぬけぬけと言う。
  また、この様な、欧米のアジアの方々への蔑視、
  そして、その蔑視から来る行動を、
  大川周明(東大卒、拓殖大学教授)は、
  第二次世界大戦大東亜戦争)の開戦直後の1941年12月
 に、NHKラジオで、連続講演した(全12回)。
  そして、その速記録は、この翌月に、「米英東亜侵略史」
 (第一書房)から出版された。
  この大川教授を、東京裁判で、アメリカなど連合国は殺
 そうとした。
  教授は、危うく東京裁判で殺されるかもしれない状況に
 置かれたが、教授は危うく逃れ、生き延びた。
1858年、「インド統治改善法」
  米欧は、帝国主義的行為で、世界を我が物にして行った。
  特に、イギリスは、17世紀以降、インドの方々から好き
 なように利益を奪い確保し、
  また、インド統治法なる法律を作って、自分に都合よく
 インドの統治をした。
  そして、1858年には、「インド統治改善法」なる法律を
 作って、またまた、自分に都合よく利益収奪・搾取をした。
  インド総督のへスティングが・・、
  イギリス本国でさえ、「過酷だ」と、弾劾するほど、
 非人道的な過激さだった。
  自国で、つるし上げられるほどの過激さとは、前代未聞
 の残酷さだった。
  残酷と言われた男だった。
  それを許したイギリスが、甘い汁を吸って、美味(おい)
 しいこととに甘んじた。
1858年、対日接近を控える様になった・・アメリカ。
  この頃、日米修好通商条約の後、アメリカが、対日接近
 を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのではなく、
  アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、その様
 な事を行なう余裕が無かった。
  日本は、中国の様な、餌食の場になっていたかもしれな
 い。
  日本の叡智は、これを見抜いていて、明治維新と共に
 『富国強兵』を、まず、第一とし、邁進した。
  日本の叡智は、世界の何でも知っていた、中国の事も、
 インドの事も、
  故に、逆に、ここをアメリカは突いた。
  日本と条約を結びたいというアメリカは、卑劣にも、
 条約の話を断ったらどうなるかを、清(中国)がどうな
 ったかの話をして、日本を脅(おど)した。
1858年5月28年、アイグン条約
  ロシアと中国・清が、この時に、中国北東部、アムール
 川中流のアイグンで条約を結んだ。
  これは、ロシアの南下政策の一環の行動の中で結ばれた
 条約だった。
  南下するという政策は、ロシアの大方針だった。
  このロシアの侵略体質が、大方針が、日露戦争へつなが
 って行くのだが・・、 
  アムール側左岸を、ロシアは獲得した。
  また、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は、
 ロシアと清の共同管理地とされた。
  また、ロシアのアムール川の航行権を、清は、認めさせ
 られた。
  完全なる不平等条約だった。
  アメリカ・イギリスの列強も、清国に対して、同様な事
 をしていた。
  ロシアは、条約に調印をしなければ、ロシア軍艦から大
 砲を撃って、武力で黒竜江左岸の満州人を追い払うと脅迫
 して認めさせた。
  この地は、再び、2004年のロシア・中国の画定完了まで、
 中ソ国境紛争の問題地域となった。
  この様に、ロシアの南下は激しかった。
  アイグン条約で、ロシアと清の共同管理地だとした地域
 は、1860年の北京条約で、ロシアを含むイギリスとフラン
 スも加わって、清は割譲させられ、土地が、国土が奪われ
 た。
  朝鮮や満州は、このロシアの勢いの中で、必ずや、ロシ
 アの支配下のものとなって行く運命の下にあった。
  アメリカとイギリスも、この時期、ロシアと同じく中国
 での権益を得たいと動いていた。
  その意味でアメリカは、日露戦争で、『ロシアの歩みが
 止まって欲しい』・・と思い、考えていた。
  日露戦争の時、日本の有利な状況で、アメリカは仲裁し
 た。
  戦争を終わらせた。
  しかし、この後、アメリカは、日本が驚くほどに、手
 のひらを返したようにして、日本を攻めてくるようにな
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive