(増補版)218D2/3:気になった事柄を集めた年表(1827年〜1827年)

題:(増補版)218D2/3:気になった事柄を集めた年表(1827年1827年
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1827年(文政10年)10月、幕府が、江戸三座の座元・役者に
 衣装の華美禁止や、火の用心を申し渡した。
1827年11月、小林一茶(こばやしいっさ、俳人)が没した
 (1763年〜1827年)(65歳)
1827年11月、加賀藩邸の赤門(現東京大学赤門)が完成し
 た(旧加賀藩上屋敷御守殿門)。
  将軍・徳川家斉の娘・溶姫(ようひめ)が前田家に嫁
 したときに造られ、この年・1827年(嫁す前年)に完成
 した。
  大名に嫁した将軍家の子女、あるいはその居住する奥
 御殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門
 を丹塗(にぬ)りにしたところから俗に赤門と呼ばれた。
  因みに、東京開成学校と東京医学校が合併して東京大
 学ができたのは1877年。
1827年12月、薩摩藩の財政改革が始まる。
  幕府は、大名管理から、よく氾濫する木曽川長良川
 揖斐川の3河川の治水工事を、薩摩藩に命じた(1754年)。
  財政窮乏状態の薩摩藩は、必死にこの工事を行った。
  文政年間の薩摩藩は、負債500万両、年間の利子の支払
 いが60万両という、途方もない額の借金だった。
  藩の年間収入総額が10数万両で、金利支払いにも遠く
 及ばない状態で、破産と背中合わせだった。
  ここに調所広郷(ずしょひろさと)が登場した。
  調所の身分は低かった。
  25代薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)は、調所
 を取り立て、藩の財政改革を命じた。
  調所は、この年・1827年に財政改革主任となり、死力
 を尽くしての財政再建を始めた。
  税収向上のため、物産の確保に力を入れた。
  薩摩藩の名産・黒砂糖の専売強化を図るため、奄美
 島(奄美大島、徳之島、喜界島)への管理を徹底し、
  次いで、琉球を通した清国との貿易を盛んにした。
  さらに米、菜種その他の国産品改良や密貿易などで利
 益をあげた。
  その一方、借金の棒引きを必死にやった。
  また、「250年の年賦返済、および無利子償還とする」
 などと勝手に決めて、商人に一方的に通達した。
  1840年に至り、財政再建をほぼ完了した。
  調所が改革に着手して以来、13年の後のことだった。
  天保年間の終わり(1844年頃)には、藩庫備蓄金50万
 両のほか、諸営繕費用が200万両余に達したという。
  財政改革の功により調所は家老となった。
  しかし、幕府より密貿易を問われ、1848年に急死した、
 自殺と言われている。
1827年西郷隆盛(さいごうたかもり、薩摩藩士)が、鹿
 児島で生まれた(1827年〜1877年)
  誕生年に1828年説あり。
  下級藩士西郷吉兵衛隆盛の長男。
  幼名は小吉、通称は吉之介、号は南州(なんしゅう)
  出生地:薩摩国鹿児島城下下加治屋町山之口馬場
  青年時代に、地方役人を勤め、農民生活の悲惨な実態
 に触れ政治の改革を志した。
  1854年の27歳の時に、藩主・島津斉彬(しまずなりあ
 きら)に見い出されて秘書役を勤め、一橋慶喜の将軍擁
 立運動に奔走した。
  この時、各藩の志士と相知った。
  しかし、安政の大獄(1858年〜1859年)が始まり、ま
 た、斉彬の死にあって、隆盛には困難な状況が続く。
  1858年の31歳の時に、同志の僧月照とともに、鹿児島
 湾に投身したがひとり助かって、奄美黄島に流された。
  1862年の35歳の時に、許されたが、斉彬死後の実権者・
 島津久光に嫌われ、また、沖永良部島に流された。
  1864年の37歳の時に、許され、第1次長州征伐の総参謀
 として長州藩を降伏させた。
  1866年の39歳の時、一転して薩長連合の盟約を結び、
 倒幕体制を整えた。
  1867年の40歳の時、大政復古への道を開いた。
  戊辰戦争には、官軍の東征大総督府参謀として、幕府
 の勝海舟と歴史的な会見を行い、江戸城無血開城させ
 た。
  その後、政府の方針にあき足らず帰郷したが、引き出
 されて上京した。
  1871年の44歳の時、参議となった。
  1873年の46歳の時、征韓論を主唱し敗れて辞職した。
 帰郷して私学校を開き不平士族を集めた。
  1877年の50歳の時、不平士族に推されて、西南の役
 起こし、敗走して城山で自殺した。
  因みに、隆盛が、父と同じであるが、王政復古の章典
 で、位階を授けられるとき、親友の吉井友実が誤って、
 父・吉兵衛の名を届けたため、それ以後は、父の名を名
 乗ったためだった。
1827年中浜万次郎(なかはままんじろう、幕臣)が生ま
 れた(1827年〜1898年)ジョン万次郎ともいう。
  土佐国中浜浦の漁師の次男として生まれた。
  1841年の13歳のとき、出漁中に台風に遭い、漂流し、
 鳥島に漂着した。
  アメリカの捕鯨船船に救われ、アメリカに渡った。
  アメリカで教育を受け、
  1850年に、メキシコを出発し、ハワイに居住していた
 仲間と共に、中国へ行くアメリカ船に乗った。
  1851年に、琉球の近海でボートに移乗し、琉球に上陸
 した。そして、薩摩に送られ、後に長崎に送られ、
  そして、1852年7月の25歳の時に、土佐に帰国した(
 1851年の帰国説あり)。
  1852年12月に、小型ではあるが、造船の技術があるこ
 とによって、最初、土佐藩の定小者として用いられるが、
  1853年に、幕府に用いられ、武士としての苗字・中浜
 を授けられた。
  ペリー来航時には、重用され、翻訳をした。
  そして、捕鯨の指導、軍艦繰練を教えた。
  1860年に、通訳として咸臨丸(かんりんまる)で再度、
 アメリカへ行った。
  1861年には、小笠原島の調査を勤め、
  1864年に、薩摩藩へ行き、軍艦操練や英語を教えた。
  維新後は、英語教育にあたった。
  ジョン万次郎は、井伏鱒二の小説に由来するもので特
 別の名ではない。
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