(増補版)175D2/3:気になった事柄を集めた年表(1763年〜1765年)

題:(増補版)175D2/3:気になった事柄を集めた年表(1763年〜1765年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1763年3月、幕府が諸国の銅山を点検する。
  幕府が、未産出や休山の諸国銅山および銅鉱脈の有無
 の調査を命じ、銅の増産を奨励した。
  「宝暦十三(一七六三〕年の三月二十二日に、幕府は
 令を出して、諸国に銅鉱の在る山で、今まで銅を採らな
 い処、またはかつて採った処でも今廃絶している処は、
 その地の代官または領主において点検を遂げて、今後は
 いよいよ銅の出るように沙汰すべしという令を出した」
 (辻善之助『田沼時代』)
1763年、毛利の改革:長州藩(宗家は萩藩)は、
  この年に「撫育方(ぶいくがた)」という新組織(人
 材育成の組織。下級武士の登用の場でもあった)を創設
 した。
  そして、財政困窮の改善に取り組んだ。
  この組織は、下級武士の新しい生き甲斐ともなって、
 貧困に意気消沈していた藩はがぜん活性化した。
  50石取りの軍学師範だった吉田松陰1830年〜1859年)
 もこの様な組織から登用された。
  脱藩(1851年)の罪で士籍を失った吉田松陰に、藩主・
 毛利敬親(たかちか)(1819年〜1871年)は、陰から暖
 かい知遇(ちぐう、人格・能力などを認められて、厚く
 待遇されること)を与え続けた。
  門閥や縁故のない松下村塾生たちは、松蔭の推薦によ
 って藩の役を与えられ、あるいは、江戸遊学の機会を得
 た。
  登用された門下生の多くは、松蔭の死(1859年11月21
 日)後、志士として活躍したが、脱藩して浪人となった
 他藩人と違って、微禄であっても長州藩に籍を置いた。
  それは、自由な行動を許す長州藩の体質を信頼してい
 たからである。
  藩主・毛利敬親は、寛大であった(プレジデント)
1763年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、医師)(
 1730年〜1801年)が、賀茂真淵(かものまぶち、国学者
 歌人)(1697年〜1769年)に出会った。
1764年、第10代将軍・徳川家治が、琉球使節を引見し、献
 品を受けた。
  琉球使節の記録に「貢物を献上する」という 意味を含
 む「来聘(らいへい、外国から使節が来朝して礼物・れ
 いもつを献じること)」)が記録されている。
1764年、江戸人参座を設立する(1763年説あり)
  田沼意次は、朝鮮人参の国産化に成功した田村藍水を
 幕臣として召し出し、朝鮮人参を独占的に扱う人参座を
 設立した。
  朝鮮人参は、和漢薬の特効薬的存在で、朝鮮貿易の中
 心にあった。
  田沼政権は、これの国産化が出来ないかを試みた。
  朝鮮と似た風土を探し、上野国を選定し、田村藍水に
 日光の朝鮮人参栽培地の管理にあたらせた。
  種まきからの栽培を行なった。
  この試みは成功し、薬効も朝鮮産と何ら異ならないこ
 とを確認した。
  そこでこれを幕府の専売として、人参座を作った。
  当初は、専門に担当する職員を置いたが、1819年には、
 日本産の朝鮮人参を、中国へも輸出もしている。
  長崎貿易において、当初は、朝鮮人参が金銀流出原因
 であったが、逆に、外貨を稼ぐ産業まで成長した。
  因みに、田村藍水(たむららんすい)は、江戸に生ま
 れ、本草学者で、町医者だった。
  薬用人参の研究者でもあった。
  これが後に、幕府から注目された。
  1737年に、幕府から、朝鮮人参の種子を下付され、栽
 培を試みている。
  1757年に、江戸湯島に物産会(我が国最初、薬品会・
 やくひんえ)を開いている。
  1764年に、幕府の医官として、幕府から300石を給せら
 れ、薬園で朝鮮人参を栽培し、製薬にあたった(1763年
 説あり)。
  また、採薬・物産調査に諸国を巡っている。
  門弟に平賀源内らがいる。
1764年〜1765年、関東農民20万の大一揆が起きた。
  関東地方を中心にした、助郷反対の大百姓一揆だった
 (天狗騒動or伝馬騒動・てんまそうどう)
  幕府の伝馬助郷役への増助郷(ましすけごう)に反対
 して起きた広域の農民一揆
  武蔵・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・信濃
 国に広がりを見せたが、関東郡代は要求を受け入れを約
 し、農民の要求が受け入れられて収まった。
  首謀者の関兵内(せきのへいない)は罰せられ、獄門
 となった。
1765年、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、戯作者、浮世
 絵師)が生まれた(1765年〜1831年
  駿河府中の町同心(千人同心or六十人同心)の子とし
 て生まれる(武士の子と言われるが・・父母の名は未詳)。
  江戸で仕官して大阪に赴任したが、この地で職を辞し、
  浄瑠璃の合作で文筆活動を始めた。
  また、材木屋の婿となるが離縁となり江戸へ戻った。
  1793年に、江戸で山東京伝の知遇を得る、そして、京
 伝の黄表紙の挿絵を描く。
  1795年に、黄表紙など3種を刊行し、洒落本、読み本な
 どを書き、滑稽本を得意とした。
  好評を博し、山東京伝曲亭馬琴とならぶ戯作者の地
 位を確立した。
  十辺舎一九は、曲亭馬琴と共に執筆料だけで生計を立
 てた最初の職業作家だった。
  「東海道中膝栗毛」「江之島土産」
  戯作とは:ぎさく、江戸後期の通俗小説類の総称。
  洒落本・滑稽本黄表紙・合巻(ごうかん)・読本(
 よみほん)・人情本など。伝統的で格式の高い和漢の文
 学に対していう。
1765年9月(明和2年)、5匁銀を鋳造する。
  田沼意次の命を受けた川井久敬が考案した。
  純銀度は46パーセントで、「文字銀五匁(ぶんじぎん
 ごもんめ)」と表記されており、
  これは、当時、通用していた銀貨(元文丁銀)と等品
 位であった。
  1767年からは五匁銀12枚をもって金1両通用と規定さ
 れた。
  金を使っていた江戸で、金貨代わり通用の銀貨とされ、
 地方では銀貨代わりの銀貨と見られた。
  一時、両替屋仲間で評判が良くなかったが、後に、認
 識も深まり、その流通状態は良くなった・・とあるが、
  銀貨60匁で金貨1両としたが、実勢は銀貨63匁で、実勢
 と合わない小判との交換規定で、現実にそぐわなかった。
  また、両替商は、金貨・銀貨の為替差益や、為替手数
 料などで収入を得ており、額面が固定されている五匁銀
 は敬遠された。
  その為、ほとんど流通しないまま、1768年に、引換回
 収が開始され、通用停止などの布告は出されないまま市
 場からは自然に姿を消した・・の記述もある。
  幕府は、1767年に、12枚を1両で通用させるよう触書を
 出したが、
  そしてまた、同時に、勘定奉行へは、市中の五匁銀を
 小判へ引き換えるよう申し渡している。
  これは、事実上、五匁銀の回収のために出されたとさ
 れている。
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