(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年〜1696年)

題:(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年〜1696年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1694年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が老中に就
 任した。
  側用人柳沢吉保を老中に準じる。
1694年、物流:問屋仲間成立
  大阪から江戸への物資輸送を円滑にするため、荷受け
 問屋を糾合して江戸十組問屋仲間を成立(結成)する。
  十組問屋(とくみどんや)は、江戸で組織された各種
 の荷受け問屋組合のこと。
  江戸と大坂間の海上輸送の不正や、遭難による損害を
 防ぐために組織された。
1694年、大坂に24組問屋(にじゅうよくみどんや)が成立
 した。
  大阪菱垣廻船積問屋二十四組ともいう。
  江戸の十組問屋と結んで、大阪から江戸へ積み出す荷
 物を独占的に取り扱った。
1694年、物流:荷物運送を容認
  信州中馬の荷物運送を容認した。
  中馬(ちゅうま)は、信州の農民が行なった馬背を利
 用した輸送業。
  伊那地方の農民が農閑期の余業として2〜3頭の手馬で
 物資を目的地まで運送したのに始まる。
  信州以外に、尾張三河駿河・相模・江戸にまでと
 活動範囲は広がった。
  重要な運送手段となった。
1694年7月27日、イングランド銀行が設立された。
  W・パターソンが、イギリス王のウィリアム3世の財政
 難を助けるため設立した。
  名誉革命の直後は、国家の財政は赤字ばかりだった(
 戦争ばかりしているからだ、結局、これも、対仏戦の戦
 費調達となった)
  代償に銀行券の発行権を得て、120万ポンドの資金を公
 募し、銀行としての株式会社として設立された。
1695年2月、政策:関東の幕領の検地が行われた。
  関東郡代の伊奈忠篤の支配地で、1696年2月21日付けで
 実施された検地は、総石高が40万石び、これは、天領
 10%に及んだ。
  やり方は、支配地の代官ではなく、近隣の大名、また
 は、別の代官が実施した。
  田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も
 検地帳に登録し、隠田を摘発した。
  また、開墾可能な土地は、山林や原野、荒地や湖沼地
 帯も検地し、台帳に記載した。
  そのようにして石盛(こくもり、見積生産高のこと)
 を高めるという方法で行われた。
  武蔵国世田谷の村々では、石盛が2倍や3倍になるなど、
 検地は厳しいものであったが、
  生産技術が進歩したことによる生産量の増加が、石高
 の大幅な上昇をもたらしていた。
1695年8月、諸国の鉱山の採掘を奨励した。
1695年8月、経済:貨幣の改鋳(初めての改鋳)
  5代将軍・徳川綱吉の臣下・勘定吟味役・荻原重秀の建
 策で、財政赤字解消のため、金貨・銀貨を改鋳した(元
 禄金銀・げんろくきんぎん)、
  以後も、改鋳で年平均50万両の収入をあげる。
  元字金銀(げんじきんぎん)ともいう。
  この頃、米が値下がりし、米を売って生計を立ててい
 た武士や農民の収入が減り、デフレ経済に陥っていた。
  荻原は、それまでの「慶長小判」を回収して溶かし、
 「元禄小判」に作り替えた。
  大きさは同じだが、含まれる金の割合を約3分の2にし
 た。
  慶長小判2枚を元禄小判3枚にした。
  1枚あたりの価値が下がった元禄小判は、借りやすくな
 って活発に使われ(流通の活発化)、元禄の太平の世を
 作り出した。
1695年10月17日、凶作:奥羽地方が大冷害で、奥羽と北陸
 が凶作となり、餓死者が多数出た。
  幕府は、10月17日に、凶作の救済のため、津軽藩主・
 津軽信寿(のぶひさ)に米3万俵を貸与した。
1695年11月、江戸の犬を中野犬小屋に収容し、養った。
1695年、旧金銀貨幣との混用を布令した。
1695年、出版:西川如見(にしかわじょけん、天文暦学者)
 が「華夷通商考(かいつうしょうこう)」を著した。
  中国はじめ諸外国の位置・風土・人口・産物・風俗な
 どを記した海外一般の地誌。
  著者が、オランダ人との接触を通じて得た海外事情を、
 通商の立場から書いている。
  1708年には、アメリカの記事を「職方外記」から邦訳
 して補充している。
1695年、イギリスの悪行が露見
  イギリスの卑劣な行為が、この年に、白日の下に、一
 般大衆の知るところとなった。
  イギリス王室が讃美して始められた「東インド会社」。
  この実質的にはイギリスという国そのものであるこの
 会社は、人を殺し、騙(だま)し、そして、この賄賂と、
 悪い事ばかりしている。
  インドを含めて、弱い植民地の諸国を虐げている行為
 も軽蔑するが、
  この年に、非人間的な行為でもって、稼ぎに稼いだ金
 でもって、その悪貨を賄賂に使って、自分たちに有利に
 事を運んでいた事が暴露された。
  イギリスを正しい方向へ導くべき人たちに対し、賄賂
 が贈られていて、黙らせていた。
  臆面なく、賄賂を受け取った者たちも大悪漢である。
  その収賄していた者たちが、政治家を含む者たちが牢
 屋に入れられた。
  6年間だけで107万ポンドもの大金が賄賂に使われてい
 た。
1696年、経済政策:値段書付を提出させる
  江戸で町屋敷値段書付を提出させた。
1696年、交通:大井川渡渉制度ができた。
  この年に、川越制度ができ、川庄屋が置かれた。
  川会所は、この制度に基づき、川越賃銭の決定、渡渉
 順次の割り振りなど、川越業務の管理運営を行った所。
  大井川の管理や渡渉制度に、関わる運営を現地で行う
 川庄屋が任命された。
1696年、鉱山:阿仁銅山(あにどうざん)
  佐竹藩(秋田県北秋田郡)が、阿仁銅山を開いた。
  古くは金銀を算出、後に、銅山として栄えた。
1696年、農業:農書
  近畿地方の先進的な農業事情を記す江戸前期の代表的
 農書、宮崎安貞(みやざきやすさだ、安芸広島藩士)の
 「農業全書」がなる(翌1697年に刊行)
1696年4月、農業:塵芥利用の埋立て新田の許可
  幕府が、江戸町中の塵芥を利用して埋立新田を作るこ
 とを許した。
  幕府は、1649年に「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」
 しているが、
  家綱の時の1655年に、江戸市中のごミ処理令を出した。
  これは、江戸市中のごみを、江戸城下から離れた隅田
 川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務
 付けた。
  それまでは、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ
 廃棄していた。
  しかし、江戸の人口の急激な増加に伴って、この様な
 ごみ処理は、江戸市中の衛生状態を極度に悪化させた。
  また、1681年の綱吉の時に、江戸市中のごみ捨て場と
 して、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂付近)を
 定めた。
  そして、1696年4月30日に、ゴミ船で江戸市中の塵芥(
 じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島〜上総(かずさ
 )間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可した。
  そして、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立て
 を命じ、そして、土地造成を更に進めた。
1696年4月11日、人事:荻原重秀(おぎわらしげひで)が、
 勘定奉行となった。
  そして、この日、250石を加増され(2000石)となった。 
1696年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒者
  古文辞学派の祖・荻生徂徠が、柳沢吉保に召し抱えら
 れ、将軍・綱吉の学問相手を勤めた。
  徳川吉宗の時に、吉宗に「政談」を提出している。
1696年、ブラジルでゴールド・ラッシュ
  ブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されて、ゴ
 ールドラッシュが起きた。
  インディオの方々やアフリカの方々を奴隷として酷使
 し、大量の金をポルトガル本国へ送った。
  金は、王や貴族の宮殿の装飾などに使われ、飾った。
1696年、露土戦争(1686年〜1700年)で、ロシアのピョー
 トル1世が、トルコと戦い、この年、アゾフ占領(黒海
 部)に成功した。
  露土戦争は、ロシア・オーストリアベネチア・ポー
 ランドのヨーロッパのキリスト教諸国の神聖同盟軍と、
 オスマン帝国との大トルコ戦争(1683年〜1699年)の一
 部をなし、
  1700年に、コンスタンティノーブル条約が締結されて
 終戦した。
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