(増補版)129D1/3:気になった事柄を集めた年表(1677年〜1680年)

題:(増補版)129D1/3:気になった事柄を集めた年表(1677年〜1680年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1678年、朝鮮の釜山倭館の建物が、この年に、新築され竣
 工した。
  これは、朝鮮が対馬と断交した時に閉鎖されていたの
 が再開されたのだった(街道をゆく2)
1678年、農業:各地に特産品が登場
  この頃から、農村における商品作物の栽培が盛んとな
 り、各地に特産品が登場してくる。
  例えば、都市近郊の野菜、果樹(マクワウリやミカン)、
 東海や瀬戸内地方の木綿、東北や中部のクワ、瀬戸内の
 ナタネ、阿波の藍、東北の紅花など。
  他の名産品に西陣織、久留米絣(かすり)、有田焼、
 清水焼、九谷焼、南部塗、輪島塗、灘の酒、野田や銚子
 の醤油など。
1678年、東福門院徳川和子が没した(1607年〜1678年)
  徳川秀忠の娘(五女)、後水尾天皇中宮、母は、秀
 忠の正室・江(崇源院)、
  1620年に入内し、1623年に皇女(後の明正天皇)が誕
 生、1624年に中宮となった。2男5女に恵まれた。
1678年、演芸:藤田藤十郎
  初代・藤田藤十郎が、大阪で好評を得た。
1678年、演芸:市川團十郎
  この頃、江戸で荒事を創始して上方の坂田と並び称せ
 られる。
1678年、総検地
  この年前後、畿内および近国の幕領の総検地を行なっ
 た。
1678年、政治:川舟極印奉行を置いた。
  勘合に川舟極印奉行を3人置いた。
  農民の商品生産が発展して来たのを受け、関東諸河川
 の、その農民の生産物の運送を担う商船も、活発に行き
 交って来た。
  川舟の登録のために打たれる極印の制度が定着化して
 行き、船年貢や役銀の税の徴収の強化をした。
  勘合:照らし合わせて真偽を確かめること、
1679年10月、農作奨励を令する。
1679年、土屋数直・久世広之が没して、代わって土井利房・
 堀田正俊が老中になった。
1679年、事件:越後騒動
  越後松平家の藩である越後高田藩で起こったお家騒動。
  藩政を執っていた主席家老と、これに敵対する一族重
 臣の争いに、将軍綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下り
 た。高田藩は改易となった。
  財政立て直しのため、藩士の禄を地方知行制から蔵米
 制に改めたのが、藩士にとって減収となったのが恨まれ
 ていたことと、他の要因がからまり問題が大きくなって
 行った(藩主の贅沢癖、諸事業の費用ねん出)。
1679年、人身保護法(イギリス、キリスト教会などの権限
 が過剰に強くなったため)
  フランスに亡命していたチャールズ1世の子が、1660年
 に帰国し、チャールズ2世として、この年に即位した(王
 政復古)際、カトリックを保護し、絶対王政を掲げ、清
 教徒派を逮捕し、弾圧した。
  議会は、1673年に、官吏と議員を国教徒に限る審査法
 律を制定した。
  そして、1679年に、人身保護法を改正し、国民を不当
 に逮捕しないことを定めた。
  キリスト教会や地方の諸侯などの権限が、過剰に強く
 なって、住民の権利が不当に侵害されるようになってい
 た。
1679年頃、アウラングセーブ(インド、1618年〜1707年)
  アウラングセーブは、北インドムガル帝国の第6代
 君主。
  この君主の治世は49年の長きに渡り、その治世は、曽
 祖父アクバル以来の繁栄が続いた。
  1679年に、ジズヤ(人頭税)を復活した。これが帝国
 崩壊へつながった。
1680年、後水尾天皇(ごみずのおてんのう、第108代天皇
 が崩御された(1596年〜1680年)、泉湧寺に葬られた。
  中宮は、徳川和子東福門院
  日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇
 御真筆とされる額が掲げられていて、
  後に、薩摩藩が、日光東照宮の焼き討ちを要求した時
 に、板垣退助が強硬に、後水尾天皇の御真筆をもって説
 得した。
1680年5月、4代将軍の徳川家綱の病状が悪化し、綱吉を継
 嗣とし、家綱は没した。
  堀田正盛の子の正信が殉死した。
1680年8月、徳川綱吉が5代将軍となった(1646年〜1709年、
 将軍期間:1680年〜1709年)。
  綱吉は、将軍に就任してほどなく、1680年8月に、通常
 の政務は月番制で処理し、大事は列座の合議制によると
 いう従来の慣例を破って、信任する老中・堀田正俊に財
 政・民政専管を命じた。
1680年8月、酒井忠清が罷免された。
  翌年、堀田正俊大老とし、幕政の刷新に立ち向かう。
1680年、天災:風水害:諸国に風水害が起きる。
1680年、天災:大凶作となる。
1680年、芸術: 琴
  筝曲(そうきょく、筝は琴の事)は、元禄よりやや前、
 八橋検校(1614年〜1685年)が、かつて九州に伝えられ
 た筑紫琴を基として、新曲を作って京都に広めたのに始
 まるという。
  これが、江戸に伝わり、宝永年間、生田流、寛政年間
 に山田流が開かれ、この2流によって今日の筝曲が成り
 立っている。
1680年、松尾芭蕉が、江戸深川の芭蕉庵に入った。
  芭蕉の経済的庇護者は、杉山杉風(さんぷう)という。
  杉風は、1647年に日本橋で生まれ、幕府御用の魚問屋
 を営み(屋号は鯉屋)、豊かな経済力だった。
  本邸は日本橋田原町であったが、深川に多くの土地
 を持っていた。
  ここに、芭蕉は江戸市中より移り住んだ。
  最初の芭蕉の庵は、杉風所有の生簀(いけす)の番小
 屋だったという。
1680年、文治政治が本格的となった。
  家康から3代家光までを武断政治、4代家綱から7代家継
 までを文治政治(ぶんちせいじ)という。
  幕藩支配体制の安定期となり、儒教徳治主義の政治
 に転換した。
  徳治主義(とくちしゅぎ)は、道徳により民を治める
 政治を目指した。
1680年、魔女旋風が、17世紀末にその余波を新大陸・アメ
 リカに伸ばした。
1680年、キリスト教徒とキリスト教聖職者たちが、南米な
 どでインディオの方々を殺戮し、奪った黄金が、ヨーロ
 ッパに持ち込まれ、この頃、この黄金でヨーロッパは潤
 った。
  1550年から1680年くらいまでの130年間、キリスト教
 術や宮廷美術、そして、文学の全盛期を迎えた。
  しかし、その陰に、南米の人々の、そして、世界各国
 の人々の悲惨な涙と、消えた多くの命があった。
1680年、イギリスは、この頃、インドを失ったら三等国に
 なると言われていた。
  それほど、莫大な利益をインドから得ていた。
  また、その金儲けのつる・権益を守るためにあらゆる
 ことをした。卑劣な事をしても守った。
  本国のイギリス人でさえ信じられない莫大な額の利益
 が、イギリスに流れ込んだ。
  インドは、それほど搾取されていた。
  また、金が、莫大に満ちたイギリスは、賄賂が横行す
 る社会となった。
  また、その利益を享受する人々が、限られた一部の特
 権層だけだった。
  そのため、一般市民の不満が爆発し、暴動が起きた。
  ホイッグ党は、1680年頃に作られたイギリスの政党で
 あるが、ホイッグという名前は、スコットランドの暴徒
 をさす蔑みの言葉・蔑称であった。
  インド人同士を反目させて、漁夫の利を得るイギリス。
  本国も守銭奴の社会となっていた。
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