(増補版)132D1/3:気になった事柄を集めた年表(1683年〜1686年)

題:(増補版)132D1/3:気になった事柄を集めた年表(1683年〜1686年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1684年4月、出版取締令
  幕府が、江戸市中に出版取締令を公布した(書籍出版
 に禁令)
1684年8月〜1685年4月、松尾芭蕉東海道木曽路を旅し
 た。
  芭蕉が、江戸・深川に隠棲(いんせい)して4年後の、
 数え41歳の時のこの年、旅に出た。
  東海道を上って近畿、木曽、甲斐・・と、行き倒れ覚
 悟で歩いた。
  『野ざらし紀行』と名付けた。
  「野ざらし」は、捨てられ風にさらされた髑髏(どく
 ろ)の意味。
  「のざらしを 心に風の しむ身かな」。
1684年10月、暦(こよみ)
  編暦の実権を公家の土御門家から天文方に移し、862年
 以来、用いられてきた宣明暦を改めて、翌年から貞享暦
 を用いる事とし施行した。
1684年10月、幕府が、渋川春海(しぶかわしゅんかい、貞
 享歴の作成者)の議により貞亨歴(じょうきょうれき)
 を採用し、春海は幕府天文方(てんもんかた)となった。
  天文方は、若年寄に属し、天文・歴術・地誌・測量・
 洋書翻訳などをつかさどった。
  安井算哲(さんてつ)改め渋川春海と称した。
1684年11月、8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)が生
 まれた(1684年〜1751年、将軍期間1716年〜1745年)
  徳川御三家紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として
 生まれる。
1684年、演芸:竹本義太夫が、大阪道頓堀に人形浄瑠璃
 竹本座を開き、
  近松門左衛門作の「世継曽我(よつぎそが、曽我兄弟
 仇討の後日譚)」を初演した。(1685年2月説あり)
1684年、車善七(くるまぜんしち、非人頭、病気の囚人の
 保護を行う浅草溜を管理した)らが弾左衛門(だんざえ
 もん、非人頭、浅草を本拠とした)の支配から抜け出そ
 うとするが敗訴。
1684年、農業:会津農書(あいずのうしょ)
  佐瀬与次右衛門(させうよじえもん、会津の名主)が
 「会津農書」を著した。
  農業技術の研究と慣行の改良が記されている。
  極めて具体的に栽培、土壌、肥料、労力、東北の寒冷
 地農業技術などが記され、また、農民としての道徳面も
 記されていて、農業経営の指導書として高い価値を持つ。
1684年、事件:若年寄稲葉正休(いなばまさやす)が、
 江戸城内で大老堀田正俊を刺殺し、正休は、その場で
 殺され、稲葉家は改易となった。
  暗殺理由は不明。
1684年、社会資本整備:淀川
  河村瑞賢が、淀川下流の開削に着手し、翌年に安治川
 が完成し、西回り航路の水運路になった。
1684年、令:徳川幕府が、初めて服忌令(ぶっきりょう)
 を定める。喪に服すべき期間を定めた。
1684年、貿易:長崎貿易の市法交易を止め、糸割符制を再
 興(復活)した。
  活況の長崎貿易、金銀流出が激しく、1672年に、市法
 貿易法になったが、これを廃止し、糸割符制に戻した。
1684年、環境政策畿内に治水条例が公布された。
  幕府が、乱伐が激しいので、再度、「山川掟の令」を
 5畿内に発布した。治山治水の政策。
1684年、社会資本整備:淀川、淀川の大改修を開始した。
1684年、オーストラリアが、ベネチアポーランドと同盟
 して、オスマン・トルコと戦った。
1685年、文学:野ざらし紀行芭蕉の「野ざらし紀行」が、
 この頃にできた
1685年、貿易:生糸の輸入制限強化され、国産生糸産地の
 確立に向かう。
1685年、フランスのルイ14世が、キリスト教プロテスタン
 トの信仰の自由を認めた「ナントの勅令」を廃止した。
  これによりカトリック中心の権威主義的国家へと逆戻
 りした。
  ナント勅令があったとしても、キリスト教プロテスタ
 ントは、キリスト教カトリックへ、「十分の一税」と言
 って、収入の10パーセントの金を、税金として納めな
 ければならなかった。
  プロテスタントユグノー(フランス改革派キリスト
 教会)が、多数、国外へ逃げた。
  留まった一部は、乱(1702年のカミザールの乱)を起
 こした
1685年、ヨハン・セバスチャン・バッハが生まれた(カト
 リック批判の音楽家)。
  バッハは、ルターが勉学に勤(いそ)しんだアイゼナ
 ハで生まれた。
  ルターは、キリスト教カトリックを批判した人。
  このルターの精神を引き継いだバッハは、その音楽に、
 ルターが糾弾したキリスト教カトリックの堕落への糾弾
 の響きがある。〜1750年没、65歳。
1686年、江戸大伝馬町の木綿問屋仲間が結成された。
1686年、濃松本藩の農民・忠嘉助が、年貢増徴に反対する
 強訴を指導して処刑される(嘉助騒動)
1686年、出版:林鳳岡(はやしほうこう、儒学者林鵞峰
 の次男)と木下順庵らが、幕府の命により「三河記(み
 かわき)」の校訂を完成させた。
  三河記は、「三河物語」「大久保彦左衛門筆記」など
 の別称で流布した一心太助が登場する本。
1686年、関東諸河川航行の船に極印を押し、役銀を徴収し
 た。
1686年、令:幕府が、諸国鉄砲改め令(鉄砲禁止令)を出
 した。(1687年説あり)
  藩の所持する鉄砲数をはるかに上回る鉄砲を、百姓が
 持っているという藩も多くあった(鉄砲の統制の法律)、
  それでも民衆層は、鉄砲を闘争に用いる事を自制し、
 例えば、百姓一揆や打ち壊しに鉄砲を持ち出すことは無
 かった。
1686年、文学:井原西鶴好色五人女」「好色一代女」が
 刊行された。
1686年8月、貿易:対馬藩の朝鮮貿易額を1万8000両に制限
 した。
1686年12月、貿易:鹿児島藩琉球貿易額を2000両に制限
 した。
1686年、イギリスは、インドにムガール帝国が建国される
 と、今までの様な商売が出来なくなると、また、今まで
 の様な貿易がしたいと、兵力に頼る行動を行った。
  そして、この年、インドへ遠征軍を派遣した。
  遠征軍は、12門の大砲を備えた軍艦や、17門の大砲を
 備えた軍艦など、10隻もの軍艦を送った。
  また、歩兵は600からなる規模だった。
  また、ムガール帝国以外の藩のインド人の戦艦を捕獲
 して、ムガール帝国に宣戦をさせたりした。
  また、ムガール帝国の一切の戦艦を拿捕(だほ)した
 り、チッタゴン(インドの、今・バングラデシュの都市、
 大きな海港がある)を占領したり、
  ベンガル国と武力で強制的に条約を結んだりした。
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