(増補版)123D1/3:気になった事柄を集めた年表(1662年〜1664年)

題:(増補版)123D1/3:気になった事柄を集めた年表(1662年〜1664年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1662年、呉三桂が、桂王を殺し、明は完全に滅亡した。
  この年に、ビルマまで逃げた桂王を捕らえ、これを昆
 明(雲南省)で殺した。
  これで明は滅亡し、清は呉三桂に『親王』の爵位を賜
 うことで報いた。
1662年、ボイル(イギリス)が、ボイルの法則を発見した
 (1661年説あり)。
  ロバート・ボイルの法則は、「温度が一定のとき、理
 想気体の体積は圧力に反比例する」。
1663年5月、令:殉死を禁じた。
  幕府が、武家諸法度を改定し、殉死を禁じた。
  また、武士諸法度改定で、公武婚姻、耶蘇教の禁止条
 項を加えた。
1663年、冊封使(さくほうし、中国で、冊封のために天子
 の任命書を持って近隣の国へ行く使者)
  清の冊封使が、琉球に来た。
  清が琉球王の進貢(しんこう、みつぎ物を献上するこ
 と)を認知し、冊封使を派遣し、「琉球国王之印」を授
 与した。
  冊封は、中国で、天子が臣下や諸侯に冊をもって爵位
 を授けたこと。
  冊は、昔、中国で天子が諸侯に領地や爵位を授ける時
 などの祭事に下したみことのり(詔)。
  詔(みことのり、しょう)は、天子の命令を直接伝え
 える文書。詔書(しょうしょ)。
1663年、榊原忠次(さかきばらただつぐ、播磨姫路藩主)
 が、井伊直孝に代わって大老となる。
  井伊直孝(いいなおたか)は、譜代大名で近江彦根藩
 の第2代藩主。
1663年、久世広之(くぜひろゆき、下総関宿藩主)が、老
 中となる。
  秀忠・家光の小姓をしていた、また、家綱の側衆にも
 なり(1653年)、若年寄になっていた(1662年)。
1663年、家綱が、日光社参した。
  日光社参は、日光山徳川家康東照宮に参詣すること。
  日光社参は19回実施されたが、内10回は将軍・家光だ
 った。
1663年、流通:雇船による江戸廻米の初見。
1663年、社会資本整備:水戸水道ができた。
  徳川光圀が、水戸の町の飲料用に石造の水道を造った。
  笠原の水源地から細谷まで全長10.75km。
  民の飲料水を心配する光圀だった。
1663年、社会資本整備:八ヶ郷用水
  岡山藩の八ヶ郷用水を開削する。
1663年、情報伝達:京都・大坂・江戸の三都の飛脚商が連
 合し、町飛脚を始めた(1664年説あり)
1664年、領地の比率:この頃の領地
  大名領72.5%、幕府直轄領15.8%、旗本領10.0%、そ
 の他1.7%、総計約3000万石、
  天領(幕府の領地の事)は、幕府直轄領と旗本領を合
 わせた領地。
  勝海舟編の「吹塵禄」の「天保十三年全国石高内訳」
 によると、天保13年(1842年)の天領は、総石高の14
 パーセントで、420万石だった。
1664年4月、諸大名に領地判物を与える(寛文の朱印改め)
  領知判物は、江戸幕府の将軍から全国の各藩主に宛て
 て出された『領地を安堵する文書』(寛文印知)。
1664年、制度:老中の連署制を定め(改め)、大事は連署
 し、小事は月番1名のみとした。
1664年、宗門改め:諸藩にも、宗門改めの役人を置くこと
 を命じ、これ以後、諸藩の各地でも、宗門改め帖が作成
 された。
1664年、情報伝達:定飛脚(江戸と京阪を結ぶ公用飛脚)
 業者が、町飛脚の営業を開始。
1664年、パリ天文台で気象観測を開始した。
1664年、オスマン帝国が、オーストリアを攻撃して敗れた。
  オスマン帝国は、1299年に、オスマンが建てたトルコ
 系イスラム国家。
  トルコの地はもちろん、北アフリカ、および、東ヨー
 ロッパ、カナンのキリスト教の地を含む、広大な国家だ
 った。
  1683年〜1699年には、大トルコ戦争が起こっていた。
  そして、この年・1664年に、記憶に留めるべき敗北を
 喫していた。
  この戦いは、ハンガリールーマニアをめぐる戦争で、
 オスマン帝国神聖同盟オーストリア・ロシア・ベネ
 チア・ポーランド)の戦いだった。
  この戦いの以後、オスマン帝国は衰退した。
  しかし、この時、新たな火種が生まれていた。
  それは、西のフランスにルイ14世と言う王が、領土拡
 大の野望を抱いていた。
  戦争の絶えない修羅の地のヨーロッパだった。
1664年、フランスも、イギリスがインドでうまいことをし
 ている事を、横目で見ていたが、
  自分も同じことをしたいと、この年に、遅ればせなが
 ら、ルイ14世の保護のもと、インド会社と呼ぶ団体を作
 った。
  そして、1674年にインドの東海岸のポンディシェリ
 元フランス植民地)に根拠とする地を奪い、拠点とし、
  続いて、1688年に、カルカッタ付近にも根拠地を奪い、
 築き、商館を置いて、活動を始めた。
  そして、卑劣な事に、フランスまでもが、インド国内
 の反目する藩王どうしを争わせて、
  漁夫の利を得たりの、
  イギリスと同様な、汚い行為を真似したのだった。
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