(増補版)117D1/3:気になった事柄を集めた年表(1649年〜1651年)

題:(増補版)117D1/3:気になった事柄を集めた年表(1649年〜1651年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1649年、交通:一人旅の者の宿泊の制を定めた。
1649年、軍役規定を改定する。
  石高に応じた軍役基準を制定した。
  (しかし、案のみで発布されなかった)。
1649年、令:3階建が禁止
  江戸で3階建ての町屋が禁止となった。
  この後の、享保の改革では、「家作り、なるべき成(
 軒高)はひきく(低く)建て」ることを市中に要請した。
1649年、若年寄職掌が廃止され、老中に移された。
1649年、清教徒革命(ピューリタン革命、イギリス)
  国王を処刑し、共和制を確立した。
  この年には、アイルランドを征服して植民地とするな
 ど、新興の市民階級の利害関係が背後にあった。
1650年、世界人口が5億人になった。
  この頃は、2億人増えるのに650年かかっていた。
  今・現在は、約3年で2億人増えている。
  今・現在(2015年6月1日)、世界の人口は約72億5800
 万人と予測されている。
  世界中で、1年間で6000万人が亡くなり、1億3000万人
 が生まれている(7000万人の増)
  365年前の1650年の世界の人口は、5億人だった。
1650年9月、農民の鉄砲所持を禁止した。
  猟師は許されていた。
1650年、交通:中原街道大山街道筋が発展した。
1650年、お蔭参り
  最初の本格的、大規模な伊勢お蔭参りの流行。
  伊勢神宮に対する信仰が年ごとに高まっている。
  庶民は、平和を実感する社会だった。
  この年3月から5月に、箱根の関所を通過した伊勢へ向
 かう民は、1日2500人から2600人に及んだとある(寛明
 日記)
1650年、世情:百姓一揆の少ない時代だった。
  この頃の、17世紀の中期の20年ばかりは、百姓一
 揆が、最も少なかった。
1950年、農業:新興富農の台頭
  都市の問屋商人と同様に、農村においては、地主層が
 次第に富力を蓄積して行った。
  商品作物の栽培にみられるように、17世紀中葉以降、
 農村においても商品経済の発展は都市以上に甚だしかっ
 たとも言える。
  商品経済の新しい波に乗り得た者は上昇した。
1650年、家光が、家綱を世子(せいし、跡継ぎ)と定める。
  家綱が将軍の世子として西ノ丸に入った。
  家光には、自分の将軍・跡継ぎで揉めた事が心にあっ
 たのだろう。
1650年、久留島氏は、もともと伊予の来島(くるしま)水
 軍の大将で、豊臣政権下で1万数千石の大名になり、朝
 鮮戦役の時に、水軍の一将となって出陣し、朝鮮の水師
 提督・李舜臣と戦って、当主の兄弟とも戦死した。
  徳川幕府の早々の時の大方針の一つに、水軍を絶滅さ
 せることにあった。
  織田・豊臣家の水軍である熊野水軍の九鬼(くき)氏
 を、丹波の山奥に移封させたように、
  久留島氏も、この豊後森大分県)というような海と
 まったく無縁の山奥に移された(街道をゆく8)
1650年、社会資本整備、美濃・伊勢の堤防
  風水害を受けた美濃・伊勢の堤防を修築した。
1650年、出版:朱子学的合理主義からの日本史である林羅
 山の「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」の神武朝から宇
 多朝までが完成して、幕府へ提出したが、明暦の大火で
 焼失した。
  幕府が編集する歴史書
  徳川家光の命によって始められた。
1651年4月、家光が没する(48歳)
  江戸幕府の体制を完成させた人。
  また、補佐役が優秀であったこと、または、補佐役の
 仕事を引き出し、引き立てる人だったとも言える。
  新旧重臣のバランスを取るのが上手かった人。
  民や組織を支える旗本などへも配慮した心があった。
  家光が没して、わずか11歳の家綱が後を継いだ(将
 軍の宣下を江戸で受けた)。
  また、家光が没して、老中の堀田正盛阿部重次らが
 殉死した。、
1651年7月、由比正雪軍学者)の乱(慶安の変
  家光の政治で、多数の大名が改易され、また、減封さ
 れ、浪人が増えているという世情であった。
  この様な世情の中では再度の仕官は難しかった。
  その様な時において、当然、政治に対する風当たりは
 強まって行った。
  浪人の中には、盗賊や追剥行為へと身を落とす者も多
 かった。
  正雪は、その様な時代の中で、浪人の支持を得た、浪
 人たちも集まった。
  この様な中で、病没した将軍と、後を継いだ将軍が幼
 君であるというこの時、
  由比正雪・丸橋忠弥らの浪人らは、幕府転覆、浪人救
 済を旗印として行動を開始した。
  江戸・京都・大阪で決起する、そして、天皇を擁して
 討幕の勅命を得て、討幕するという計画だった。
  しかし、密告され、計画は露見し、叛乱の計画の廉(
 かど)で、忠弥は江戸で捕縛され、
  正雪は、江戸を発って駿府で、駿府奉行所の取り方に
 宿を囲まれた中で、自決、
  大阪で、正雪の自決を知った金井半兵衛が自害、
  そして後、忠弥は処刑となった。
  駿府で自決した正雪の遺品の中に、紀州藩主・徳川頼
 信の書状があった。
  これは偽物とされたが、頼信は、謀反の疑いをかけら
 れた。
  幕府は、背後関係を徹底的に捜索した。
  頼信は、10年間、紀州への帰国が出来なかった。
  10年の後に、頼信は、この変の疑いは晴れて、帰国が
 できたが、和歌山城の増築工事は中止しなければならな
 い情勢だった。
  徳川頼信は、後に、幕政批判の首謀者として失脚させ
 られている。
  武功派との派の争いが背後にあった。
  また、幕府は、各藩に浪人の採用を奨励した。
  そして、幕府の政治は、武断派から文治政治へと移行
 して行った。
  正雪の考えた方向へと幕政は向かった。
1651年12月、大名支配:末期養子を許した、
  大名と旗本の50歳未満の者に末期養子を許した。
  浪人発生の防止のためだった。
  また、浪人の江戸追放を中止した。
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