(増補版)118D1/3:気になった事柄を集めた年表(1651年〜1652年)

題:(増補版)118D1/3:気になった事柄を集めた年表(1651年〜1652年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1651年、制度:六人衆(若年寄)を廃止した。
  「六人衆」として老中に次ぐ重職として、1633年に、
 家光が側近の6人(松平信綱堀田正盛三浦正次、阿部
 忠秋、太田資宗阿部重次)を任命したが、
 この年・1651年に、廃止となり、職務は、老中に吸収さ
 れた。
  しかし、その後、1662年に、「若年寄」として復活し
 た。4人を定員とした。
  次への出世の経験職となった。
1651年、農民支配:給人(藩士、藩から知行所を与えられ
 ている人)の農民支配に藩政庁が介入し、
  年貢率の公定・農政機構の整備を実施、藩の政治・経
 済単位としての自立性を強めた。
  世の中は、様々は商品が生産される場になったが、
  幕府や藩の支出も増大傾向に向かった。
  しかし、収入の米の価格は、これ等の商品に比べて下
 落し、幕府や藩の収入の目減り現象が起きていた。
  貨幣の改鋳などで収入も図っていた。
  また、大商人への借金で急場をしのいでいた。
  貨幣経済が発達した、貨幣による取引の社会だった。
  武士は、武芸に秀でるより、領国管理の人とならなけ
 ればならなかった。それが求められた。
  知識を得る必要性が増大した。世は太平であった。
  その様な世の中において、生活に困る藩士もいて、百
 姓から与えられた知行高よりも多く集めようとする藩士
 も出て来た。百姓も貧しくなって行った。これへ藩は介
 入した。
1651年、加賀前田家で「改作仕法」を開始した。
  加賀藩が、1651年から1656年にかけて農政を中心に藩
 政を改革した。
  藩の財政は困窮していた。
  藩政に携わっていた前田利常は、財政立て直しのため
 農地改革を実施した(改作仕法)。
  田畑の土質の違いで出来具合が違うので、生産物の出
 来具合で租税率を決めた。
  また、米を貸す制度(作喰米の制度)を作った。
  農政の専門の奉行も置いた。
1651年、法令、「家売買の儀、名主と五人組の加判で売買
 すべし」・・、
  名主が相続・土地問題に加わって来る。
  河判(かはん)とは、公文書に判を加えたり、連判・
 合判したりすること。
1651年、幕閣首脳が、浪人問題を協議した。
  幕閣首脳者による、浪人の再仕官の斡旋も行われる様
 になった。
  町奉行石谷貞清(いしがいさだきよ)は、終生で
 1000人もの浪人を、諸家に世話をしたという。
1651年、人事:家光の実弟会津藩保科正之が、家光の
 遺言で家綱の補佐となった。
  家光は、死に臨んで枕頭に正之を呼び、
  「肥後よ、宗家を頼みおく」と言い残した。
  感銘した正之は、「会津家訓十五箇条」を定めた。
  第一条は、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在で
 あり・・」とあり、
  以降の藩主と藩士は、共にこれを忠実に守った。
  幕末の藩主・松平容保も、この遺訓を忠実に守り、会
 津戦争(何と、200年以上も後の1867年)で薩長と戦う、
 正義の道へつながる流れの中にあった。
1651年、松平定政事件が起こる(幕政批判で処分)
  三河刈谷藩主の松平定政(家康は叔父にあたる)が、
 旗本の窮乏を救うために、
  上知(あげち、幕府が知行地を没収すること)を願い
 出て、出家した。
  改易された。
  領地・居宅・諸道具の一切を返上し、旗本救済に当て
 てほしいとする旨を、大目付に提出した。
  また、やんわりと幕政を批判する書を、井伊直孝(家
 光の信望厚かった人)へ提出した。
  まだ、将軍が変わったばかりでもあったので、幕府は
 世を惑わすとの方向で受け取った。
  所領没収、永蟄居となり、本家筋にお預けとなった。
  この事件は、次の事件の引き金にもなった。
  1660年に、定政の姪の婿にあたる堀田正信(下総佐倉
 藩・藩主)が定政と同じような事をした。
  幕政批判の上書を、幕閣へ提出した。
  正信も、定政と同じ様に、所領没収のうえ、永蟄居と
 なり、弟の所にお預けとなった。
  定政の事件が遠因となっていると言われている。
1651年、慶安の御触書公布、
  裏付け資料が現存してないので偽書説があったが、
  古写本から、甲府藩の「百姓身持之覚書」から諸国へ
 広まったものと考えられている。
  目的は、年貢の徴収を確実にしたいだった。
  故に、田畑の売買禁止や、米以外の作物の栽培禁止だ
 った。
  贅沢を戒め、農業や家業に精を出すように・・、
1651年、魔女の処刑で、その珍奇さを現わしている刑に
 「煮沸刑」がある。
  ナイッセ(ドイツ)の処刑史には、「蒸し焼き炉」を
 設計し、この年に42人、
  これに続く9年間に、2歳から4歳までの幼児を含む
 1000人以上の人間をこの炉で蒸し殺したと記録されてい
 る。
  その他、想像を絶する、多種多様な残虐刑が記録され
 ている。
  例えば、罪人の四肢を一本ずつ結びつけた4頭の馬を、
 四方に走らせて四つ裂き゚にするという刑まで作っている。
1651年、イギリス航海条例が結ばれた(クロムウェル航海
 法)。
  イギリスが、自国船による貿易独占をしたいと作った
 条例。
  イギリス植民地におけるオランダの交易を禁じた(外
 国船排除)。
  オランダ船の締め出しであった、
  これは英蘭戦争の原因となった。
  イギリスは、法律をつくればよいのだの姿勢で、世の
 中に通らない行為を法律として、不正を働く癖のある国
 である。
  インドがこの方法で、嫌というほど痛めつけられる。
  法律があるから正義だと言って、不正義な行いをする。
  英国とその植民地に運送されるヨーロッパ以外の地の
 産物はイギリス船で輸送すること・・だった(独占)。
1652年10月、浪人改め令が下る。
  幕府が、江戸市中の浪人を改めた。
1652年、社会資本整備・仁淀川
  高知藩の野中兼山が仁淀川に広岡堰を造った。
1652年、風俗・旗本奴・町奴流行
  この頃、旗本奴・町奴が流行し、幕府の取締りを受け
 た。
  旗本奴と町奴との間には抗争が絶えなかった。
  厚く綿を入れた広袖(ひろそで)で丹前風呂に通う客
 の風俗の町奴、
  そして、用いる刀を白柄にするなど、好んで替わった
 姿をした旗本奴だった。
1652年、令・若衆歌舞伎を禁止した。
  前髪を付けた美少年による舞踊を中心とした歌舞伎が、
 女歌舞伎の禁止のあとに台頭した。
  容色を売りにした。
  幕府は、女歌舞伎にかわって登場したこの若衆歌舞伎
 を禁止した。
1652年10月、事件・老中暗殺を計画
  戸次庄左衛門らが、老中暗殺を計画して捕らえられた
 (承応の変、じょうおうのへん)
  浪人の別木庄左衛門らが、徳川秀忠夫人の27回忌が増
 上寺で営まれる機会をとらえ、放火して金品を奪い、老
 中を討ち取ろうと計画した。
  この計画も、密告によって、別木庄左衛門らは捕らえ
 られ、処刑された。
1652年、この頃、最初のコーヒー店がロンドンに作られた。
1652年〜1674年、イギリスは、世界の制海権が欲しいと、
 スペイン(イベリア)を駆逐した。
  そして、その後、オランダをターゲットにした。
  イギリスは、この期間、オランダに3度も戦争を仕掛け
 た。無法のイギリスだった。
  それまで、「海洋の幸福なる所有者」と言われていた
 オランダは、制海権を苦も無くイギリスに奪われてしま
 った。
  えげつなくイギリスは、次のターゲットをフランスに
 して、機会を狙った。
1652年〜1654年、第一次英蘭戦争
  イギリス(イングランド艦隊)は、東インドなどから
 アジアの富を満載して帰国するオランダ船団を、イギリ
 ス海峡(英仏海峡、北端にはドーバー海峡がある)で襲
 撃し、拿捕し始めた。
  富の横取りである。
  制海権の争奪となった。
  当時、オランダは、世界一の造船能力があったが、輸
 出に力を入れていたが、大艦隊は持っていなかった。
  それでも、小艦隊のオランダ艦隊は、いつもスペイン
 艦隊には勝利していた。
  武力が闊歩する低劣な輩たちの時代だった。
  オランダの沿海が、水深が浅いのも理由だった。
  オランダは、制海権を失った、イギリスに奪われた。
  オランダ艦船は、スコットランドの北を大回りして帰
 国しなければならなくなった。
  イギリス海軍は、オランダ諸港の封鎖を続けた。
  貿易国のオランダは大打撃を受けた。
  1652年〜1654年にかけて戦われたこの戦争も、1654年
 のウェストミンスター条約で終わった。
  損害:
  イギリス・死者2500人、軍艦10隻沈没、7隻拿捕、
  オランダ・死者3000人、33隻沈没、18隻拿捕、・・が
 しかし・・、第二次の戦争へ・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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