(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年〜1635年)

題:(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年〜1635年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1630年代、この年代は卑劣な年代だった。
  ヨーロッパは、絶え間のなく、戦争ばかりをしていた。
  卑劣な年代だった。
  そして、ヨーロッパは、卑劣な事に、ことのほか戦争
 において、鉄砲を多く使った。
  例えば、ドイツの人口が、そのため、半減してしまっ
 た。
  戦争で、人がより多く殺戮される、殺すことが出来る
 鉄砲で人々が殺されてしまった結果だった。
  生活に希望のないヨーロッパ社会は、地下が20分の1に
 なるという状態だった。
  悪事をする輩も横行した。
  成年男子の居なくなった社会だった。
  キリスト教の司祭も結婚し、子供を作った。
  キリスト教の教義は、そっちのけのっ状態だった。
  社会の存続、背に腹は代えられないと、カトリック
 司祭も人口回復を奨励された。
  また、二人の妻を娶(めと)ることが督励された。
1633年2月、海外渡航者の帰国を制限した。
  奉書船以外の海外渡航を禁じ、また、海外に5年以上
 居留する日本人海外渡航者の帰国を制限した。
1633年2月、改革:地方直し(じかたなおし)が行われる。
  これは、旗本の窮乏対策である。
  旗本へ俸禄(ほうろく、給与)として地方を知行(ち
 ぎょう)として与えた。
  1000石以下の者に一律200石ずつ与えた(20%アップ)。
1633年12月、家光が、弟・忠長の領地没収し高崎に移した。
  翌1634年12月に、忠長は自害した。
1633年、天災:大坂の大和川、石川が氾濫し、2万石余の
 土地が荒れた。
  よく氾濫を起こす地点で、中甚兵衛の治水功労者の銅
 像もある。水害と戦う人多数。
1633年、諸国巡検使(じゅんけんし)の分国を定める。
  巡検使とは、将軍の代替りに五畿七道の幕領・大名領
 の民情政情を視察するために派遣された役人の事で、江
 戸時代に9回の派遣があった。
  大名の治績動静を視察したり、幼少の大名のもとへ赴
 任し、その後見監督に当たり(国目付)、あるいは城の
 受け渡しの時にその場に臨んで監督をするなど、すべて
 幕府の上使を務めた。
1633年、訴訟規則が成文化、
  この年に、軍役制が発布されるとともに公事裁許定と
 いって、主人と家僕、親と子、本寺と末寺、代官と百姓
 など身分に応じた訴訟取扱い方法などの規則が成文化さ
 れた。
1633年、石高制による軍役性、
  石高制と深く関わっているのが軍役制で、制度として
 は3代将軍家光の1633年に完成した。
  それによると、1000石取の旗本は、人数23人、槍2本、
 弓1張、鉄砲1挺を、
  1万石の大名は、騎馬の武士10騎、槍30本、弓10張、
 鉄砲20挺、旗3本を、
  10万石の大名は、騎馬170騎、槍150本、弓60張、鉄砲
 350挺、旗20本を、
  出動命令を受けた時の為に常備する義務があった。
  必ずしも、石高に正比例してはいないが、それぞれの
 俸禄の高に応じて軍備を課せられた。
  江戸時代には、中央政府としての幕府が、直接、持っ
 ている常備軍は比較的少なく、
  主として、諸大名の軍役に期待し、幕府は、その統帥
 権を持っていただけだった。
  軍役は、鎌倉時代御家人役に淵原する。
  鎌倉将軍家から所領の給与、または、安堵された武士
 は、その御恩に対する奉公として、1年ずつ交替で、大番
 役(京都の警護役、後には鎌倉も加わる)を務めねばな
 らなかった。
  また、戦争には動員を受けた。「いざ鎌倉」である。
  近世は、何石にどれだけという、上からの一方的な割
 り当てで、全国的に徹底した権力であった。
  中世は、全国的でなく、関係ない非御家人も多数存在
 した。
1633年、人事:松平信綱ら6人衆=若年寄に任命された。
  若年寄(わかどしより)は老中に次ぐ重職で、この年
 の任命が始まり。
  旗本、および、老中支配以外の諸役人の統轄した。
1633年、ガリレオが、再度、キリスト教に捕まり、異端審
 問所で取り調べを受けた。
  ローマ法王庁は、ガリレオ終身刑の有罪とした。
  軟禁状態となった。
  家に閉じ込められ、外部との接触が出来なくさせられ、
 この9年後の、1642年に、ガリレオは没した。
1634年5月23日、秀吉の養女の豪姫が没した。
  享年61歳だった。
  秀吉は、自分の子を亡くした時、幼なじみの前田利家
 が4女を養女として秀吉の子とした。
  秀吉とおねの夫婦は寵愛した。
  秀吉は、「もし豪が男であったら関白にしたものを」
 と妻のおねに言っている。
  夫の宇喜多秀家八丈島流罪となった後は、米や薬
 などの必需品を八丈島の夫のもとへ送り続けた。
  明治になって、明治天皇陛下より、現在の浦安市
 19900坪の宅地を賜わり、その苦労を慰めて戴いている。
1634年6月、山王祭(さんのうまつり)が、初めて江戸城
 に入る。
  徳川三代将軍・家光以来、江戸城内に入御した御神輿
 を、将軍が上覧拝礼する天下祭りで、盛大をきわめた。
1634年6月、家光が30万の大軍を率いて上洛し、武威を示し
 た。
  また、この時、上皇御料を一挙に3倍に増やしている。
1634年7月、江戸城の西ノ丸が炎上した。
  酒井忠世、家光の勘気を受けた。
1634年8月、譜代大名の妻子を江戸に移した(大名支配)
  また、琉球の江戸上りが始まった。
  幕府の将軍や琉球の国王が代替わりすると、幕府に挨
 拶に上がった。
  1634年に、京都・二条城に滞在していた将軍に会った
 のを始まりとして、その後は毎回、江戸まで行った。
  1850年に終わるまで合計18回を数えた。
1634年、仇討:
  岡山藩士の渡辺一馬が、荒木又右エ門らと共に伊賀国
 上野西端鍵屋の辻で、弟の仇敵の河合又五郎を討ち取っ
 た(伊賀越の仇討)。
1634年、領主と農民間の階級的矛盾
  幕府と藩という領主内部にあった矛盾が解消して、領
 主と農民との間の階級的矛盾が表に出てきた。
  領主財政の確立と拡充に対する農民の抵抗の激化がそ
 れ。
  ことに、1634年頃から、全国的にかなり大きな飢饉に
 見舞われたことがそれを助長した。
  島原・天草の乱もその飢饉に触発された百姓一揆であ
 った。
1634年、踏絵が盛ん。
1634年、前年の奉書船以外の渡航を禁じるなどの通達を、
 再度、行った。
1634年、社会資本整備・小貝川
  伊奈忠次が、小貝川に岡堰を築造した、また、牛久沼
 にも2000間堤(2000間=約3.6キロメートル)を築いた。
1634年、老中・若年寄職掌を定めた。
1634年、訴訟審理規則が成文化した。
  3代将軍家光の1634年〜1635年に至り、老中・若年寄
 諸奉行の制、評定所の訴訟審理規則などが成文化され、
 ほぼその全容を整えた。
1635年6月、参勤交代が制度化された。
  参勤交代は、幕府が諸大名の経済力を弱めるため強制
 した策略だという見方が依然としてある。
  しかし、それは結果であって、幕府の目的が、そこに
 あったと言うのは曲解である。
  参勤交代は、軍役発動の一形態である。
  幕府の常備軍は少なかったので、常に、大名を半数ず
 つ江戸に滞在させて、首都防衛に当たらせたのである。
1635年6月、武家諸法度が大改訂され、内容が完備した。
  江戸幕府の支配体制が制度的に固まったと言える。
  官僚組織の整備は、その中核をなした。
  参勤交代の制度化はこの中にある。
1635年10月、老中・若年寄の役が始まる。
  老中・若年寄以下、所有司の職掌を定める。
  土井利隆ら若年寄となる。
1635年11月、評定所(ひょうじょうしょ)の条例を定める。
  法令の成立から、この時期に設置されたとされる(た
 だ、その場所については諸説あり)。
1635年11月、寺社奉行が創設された。
1635年、中国・オランダなどの外国船の入港を長崎のみに
 限定した。
  また、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の
 帰国を禁じた。
1635年、松平信綱阿部忠秋堀田正盛連署の列(老中)
 に加わる。
1635年、諸士法度を改定する。
1635年、この頃の資料がバチカンで発見された。2014・11・
 12の新聞で報じている。
  日本の「宗門改め帳(しゅうもんあらためちょう)」
 である。
  この頃の江戸幕府を、キリスト教は、厳しい取り締ま
 りをしていると言うが嘘だとこの資料から分かる。
  キリスト教プロパガンダと分かる。
  この宗門改め帖でも、実際は、本人でなくても、家族
 や知人でも、キリスト教を止めたと言えば「お咎(とが)
 めなし」だった。
  キリスト教は、ヨーロッパのキリスト教国の様な卑劣
 な非人道的な事が、取締りが、日本でも行われた如くに
 言うが、まったくの嘘で、デッチアゲである。
  日本は、キリスト教国・ヨーロッパの様な執拗(しつ
 ようないじめ・苦しめはしていない。
  その事が、この宗門改め帖裏付けられる。
  キリシタンではないという事を、印を押してただ庄屋
 に出せばいいことだった。
  庄屋は、まとめて藩に出せば、それで済む事だった。
  ヨーロッパの様に、キリスト教裁判所が何だかんだと
 拷問して苦しめて、罪を着せて、火あぶりにして、財産
 を没収するというキリスト教会の裁判所がやった事とは
 ほど遠い日本だった。
  キリシタンと分かっても「転びキリシタン」と書けば
 許された。
  お咎(とが)めはなしだった。
  その記述があるだけ。殺されていない。
  何しろ幕府は、穏便に穏便にと、事を進めた。
  キリスト教は、厳しい取り締まりに耐えたとか、殉教
 だとしたいから、昔から、この様に嘘を言う。
  今・現代でも、嘘をついてでも、「殉教だ」と言いた
 がるキリスト教となっている。
  江戸幕府は、貿易行為を認めていたオランダから、定
 期的に報告書を提出させ、海外情報を集めていた。
  鎖国政策で、まったく諸外国の事は知りませんでした
 とキリスト教が言うが、これも嘘。
  因みに標記の宗門改め帳は、1953年(昭和28年)に、
 キリスト教神父が、横浜から船でバチカンへ送ったもの。
  約1万点の文書、ほとんどが宗門改め帖だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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