(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年〜1633年)

題:(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年〜1633年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1630年、貝原益軒(かいばらえきけん)が生まれた(1630
 年〜1714年)福岡藩の人、本草学者、儒学者博物学
 な人、著作に「養生訓」がある。
  膨大な編著を残した。
  長崎で医学を修め、藩医にもなる。
1630年、林道春(林羅山の仏門に入った号)が忍岡に学寮
 を建てる。
  忍岡聖堂(しのぶがおかせいどう)を建てた。
  これは、家光から儒学振興のために江戸城北郊の上野
 忍岡の地に1353坪の土地と200両を拝領して私塾と書庫の
 孔子廟であった。
1630年、この年の1年間に、ベニスでペストにより4万7000
 人が死んだ(1説には15万人という)。
  死骸は街路にあふれ、生き残った者は強盗、略奪をほ
 しいままにした。
  キリスト教が、その教義で「地は汚れている、天のみ
 清浄」と民を洗脳したため、地は本当に汚れた。
  糞尿を道に捨てる様な人々だった。
  衛生状態は劣化し、ネズミは増え、ネズミはペストを
 媒介した。
  可哀想に、民は、劣悪なキリスト教の教義によってペ
 ストに罹り苦しんだ。そして、多くの民が亡くなった。
1631年、加々爪忠澄・堀直之の両名を江戸の町奉行に任命
 され、これより2名の旗本役となり、南北両奉行所に分か
 れる。
1631年、貿易:この年、糸割符法を改正し、新たに江戸・
 大坂を加え、5か所を糸割符制とした。
  中国産の生糸を輸入し、多くの日本の銀が流出してい
 た。
  この貿易を独占していたのがポルトガルだった。
  経済的にもこの貿易を統制した。1604年に、堺・京都・
 長崎の糸割符年寄を任命した。
  TPPと同じ様なもの、日本の商人がまとまってポルト
 ルと協議して糸価を決めた。幕府が監理した。
  昔からしっかりした日本だった。しかし、日本の銀は
 大量に流出した。
  18世紀に入ると日本国産の生糸が出回り、生糸輸入
 は衰退した。
1631年、フリードリヒ・フォン・シュペー(1591年〜1635
 年)は、
  ドイツで魔女旋風が最も猛烈に荒れ狂った時期に、そ
 の中心地の一つだったヴェルツブルグで、懺悔僧(キリ
 スト教聖職者)として2年足らずの間に200余人の魔女に
 付き添って、刑場に送った聖職者だった。
  魔女裁判の実態をつぶさに観察した結果、ドイツの諸
 侯と(キリスト教聖職者の)裁判官に対する厳しい抗議
 書「裁判官への警告」をこの年に書いた。
  彼を信頼した囚人たちは、彼に援助と助言を求め、真
 相を訴えた・・が・・、
  彼も囚人のためにあらゆる努力とつくしたという・・
 が・・助かる者は居なかった。
  ある死刑囚は拷問に屈せず、「自白」しないのに、キ
 リスト教聖職者の裁判官は有罪を宣告するのだった。
  シュペーは刑場で、もう一度「自白」をすすめた。
  魔女は、あきらめて、ただ一言、「罪をおかしました」
 と答えた。この様なことを言わす聖職者だった。
  シュペーは、大急ぎで裁判官にその自白を伝えた。
  そして、シュペーは言った、「絞殺の上で火刑にされ
 んことを」・・と、願った。
  しかし、願いは聞き入れられなかった。
  魔女は、生きながら焼かれた。
  後に(1642年)、シュペーは司教になった(ヴュルツ
 ブルグ)。ごますりシュペーは出世した。
  フィリップ・フォン・シェーンボルンが、シュペーに
 「どうしてそんなに早く白髪になったのか」と尋ねた時、
 多くの魔女は、無実だった。そのことを知っていたから
 だとシュペーは答えた。
  そして、魔女狩りを扇動する者は誰かと問われて、彼
 は答えた、「静かに思弁を楽しみながら、汚い牢獄も、
 重い鎖も、拷問道具も、哀れな人間の悲嘆も知らない高
 位の(キリスト教)聖職者と神学者だ・・と。
  そして、魔女裁判をもうかる仕事と考えている(キリ
 スト教裁判所の)裁判官だ・・と答えた。
  最後に本当のことを言った。
1632年、徳川家光が諸大名を集めて去就をたしかめた。
1632年12月、体制:大目付を設置した。
  秋山正重、水野守信、柳生宗矩井上政重の4人を、こ
 の年に、大目付(初期は総目付と言った)に任じたのが
 はじまり、
  当初は、大名・旗本、老中以下諸役人の政務・行状を監
 察し、言上することがおもな任務だった。
1632年、江戸城の拡張工事が着手された。
1632年、社会資本整備・辰巳用水、
  加賀藩が、辰巳用水を開削し、金沢城下の上水に利用
 した。長さ20キロメートル、兼六園に至る。
  防火用水、御城水、殿様用水、御水道上水。
1632年、流通:仙台藩の江戸廻米が始まった。
  『煙霞綺談』に、「今、江戸、三分一は奥州米なり」
 と記述されている。
  武江年表には、三分の二と書かれている。
1632年、諸子法度を公布する。
  諸子法度は、「旗本法度」ともいい、幕府に仕える旗
 本御家人の守るべき規律を制定したもの。
  9ヶ条あった(23ヶ条の説もあり)。
  内容は、忠孝、軍役、兵具、屋作、嫁娶(かしゅ、嫁取
 り)、振舞、音信、喧嘩、火事、反逆殺害盗賊人、知行
 所務、境論(所領などの境界論)、百姓公事、跡目、徒党、
 衣服など。
1632年3月14日、殉死:二代将軍の徳川秀忠が54歳で没し、
 年寄の森川重俊が殉死した。
1632年5月22日、熊本城主の加藤忠弘(肥後熊本、52万石、
 清正の子)が改易された。庄内に流された(大名改易)。
  江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、後に、
  上使・稲葉正勝より改易の沙汰を受け、出羽庄内藩主・
 酒井忠勝にお預けとなった。
  清正は、既に、1611年6月24日に49歳で没していて、三
 男・忠広は、11歳で家督を継いだ。
  (長男・次男は早世していた)。
  清正は、領内の治水事業や利水事業を意欲的に取り組
 み、農業生産量も増やしている名君だったが・・、
  また、築城に長けていたが・・、
  経緯(いきさつ)は、この年の帰国中の忠広に対して
 21ヶ条の詰問状が渡され、速やかに出府して弁明せよと
 の命令が出された。
  忠広は命令を受け、出府するが、
  幕府は、品川宿で忠広を止め、池上本門寺にて待機せ
 よとした。そして・・、
  幕府は、忠広の嫡子・加藤光正(1614年〜1633年)の
 不届き、そして、江戸で生まれた子とその母を、無断で
 国許に返したこと、さらに、
  平素の行跡が良くなかったことを理由にして改易した。
  忠広は、庄内の酒井忠勝に預けられ、
  1万石を与えられた。
  嫡子の光正は、飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、
 堪忍料として、月俸百口を給され、天性寺に蟄居となった
 が、1年後に、19歳の若さで病没した。
  しかし、別説がある。
  忠広は、庄内で22年暮らし、1653年、52歳で没した。
  家光と将軍後継者争いをした徳川忠長と、加藤忠弘が
 親しかったからという理由もささやかれている。
  また、豊臣系有力大名の家だからもある。
1632年10月20日駿府城主の徳川忠長を上野に配した。
  秀忠が亡くなると、家光は、この年、忠長を上野国
 崎藩に預けた。
  忠長は、秀忠の次男(家光の弟)で、1624年に駿府城
 主になって、駿府藩が再び成立していた(駿河遠江
 甲斐など55万石)。
  ただ、忠長は、将軍職を兄・家光と争った経緯から家
 光とは不仲だった。
  忠長は、家臣や侍女や領民を惨殺したりする乱行が目
 立った。
  その事から、1632年のこの日、家光は、高崎藩への蟄
 居とした。
  忠長は、翌年の1633年12月6日に、高崎で自害した。28
 歳だった。この時、家光は29歳。
1632年、タージ・マハル・・インド
  ムガル第5代皇帝のシャー・ジャハーンは、
  寵妃・ムムターズ・マハルの墓廟として、タージ・マ
 ハルの建造に着手した。
  各地から美しい石材を集め、10年の間、常時2万人以
 上の工匠と労働者を駆使して、建造が進められ、
  さらに、付属の庭園や建築物を完成するのに10年を費
 やした。
  壮麗なタージ・マハルは、真正面に満月が昇った時の
 美しさは最高であり、この世のものとは思われない幻想的
 な姿を見せる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/