(増補版)103C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年〜1610年)

題:(増補版)103C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年〜1610年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1608年1月、主たる大名に「松平」の姓を与えた。
1608年、永楽銭の通用を禁止し、貨幣の交換割合を定めた。
  交換割合は、永楽銭1貫文=銭(びたせん)4貫文=
 金1両を定めた。
1608年、姫路城が出来た。
1608年、新田開発・・、
  伊奈忠次が、武蔵国葛城郡下之村・宇喜新田などに対
 し、新田開発につき諸役を免除し、屋敷地・田畠免除地
 を与えた。
  伊奈忠次(いなただつぐ)は、家康の近習、初代の関
 東郡代
1609年2月、家康が、西国大名の人質を倹せしむ、江戸に集
 めた。
1609年2月、有馬晴信が、幕府の許可を得て、台湾へ出兵し
 た。
  そして、明との貿易拠点を築こうとしたが、出来なか
 った。
  ところが、マカオで、晴信の朱印船の乗組員が争いを
 起こし、
  晴信の家臣と、乗組員の48人が殺されるという事件が
 起きた。
  晴信は、家康に仇討の許可を求め、事件のマードレー
 デーデウス号が、長崎に入港したため、
  晴信は、船長を捕らえようと多数の軍船で包囲した。
  ところが、船長は、船員を逃して船を爆沈させた。
  マードレーデーデウス号事件が起きた。
  このキリシタン大名有馬晴信は、この事件が絡んだ
 岡本大八事件の贈賄の罪を問われ、
  甲斐国の初鹿野に追放処分となった。
  そして、死罪となり切腹した。
1609年8月、諸大名に対し、500石積以上の造船(軍船)を
  禁止した(これは、水軍力削減のため)。
  また、軍船だけでなく、外洋の航行可能な船による勝
 手な貿易を防ぐため。
  9月に、西国大名が持つ500石積以上の大船を没収した。
1609年11月16日、家康が、名古屋への遷府命令を正式に号
 令した。
  1609年、名古屋城の築城を命じ、1610年に着工。
1609年、松平正綱が、幕府の財政・会計の任にあたる。
1609年、交換割合を定めた。
  金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=京銭4貫文とし、そ
 の後、ふたたび、永楽銭の通用禁止令を出したが、十分な
 効果が上がらなかった。
  幕府の銅銭対策が軌道に乗るのは、寛永通宝の登場後
 である。
1609年、社会資本整備・木曽川の改修
  木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50キロメ
 ートルにもわたる大堤防を築いた。
  「御囲堤(おかこいづつみ)」という。
  これは、西国勢力の侵入を防ぐという軍事上の目的も
 持ち、また、尾張の国を洪水から守ろうとの役割もあっ
 た。
1609年、社会資本整備・銚子舟入り、運河の開削。
  利根川の水運を利用した江戸への物資の運搬。
  幕府が、奥羽諸大名の普請役で銚子舟入り普請を行う。
1609年、家康の11男の徳川頼房を水戸に封じた(水戸徳川
 家の成立)。
1609年、オランダに貿易を許した。
  平戸に商館が開設された。
1609年、姫路城は一時、豊臣秀吉も居城としており、豊臣
 の城だった。
  秀吉の後、秀吉の弟・秀長、さらに、秀吉の正室・お
 ねの兄・木下家定が続いた。
  池田輝政は、1601年から城郭の大拡張工事にかかり、
 西国の守りを務めるにふさわしい城を築いた。
  5層の大天守が完成したのは1609年だった。
  輝政は、52万石だったが、一族も所領が与えられ、全
 所領は92万石になる。
  輝政は、『西国将軍』と呼ばれた。
  日本は、キリスト教諸国の様にむやみに殺さない、知
 恵を使って、この様に、戦いが起きないようにしている。
1609年、魔女狩りで、ラブールでは、4か月に600人が焼か
 れた。
1610年、本田忠勝が没した(1548年〜1610年)
  本田忠勝は、長篠の戦い終了後、どこか物憂げであり、
 家臣がその訳を尋ねると、
  忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思ってい
 る。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚
 痴をこぼしたという。
1610年4月、武家政令3ヶ条を発する。
1610年、幕府にある改易・転封の特権
  幕府と諸大名との相違は量的な問題であって、その権
 力の質的な差はない、
  また、幕府権力に王権としての性格はない。
  この頃、幕府は公儀、将軍は公方様と呼ばれた。
1610年、足尾銅山が発見された。
1610年、社会資本整備・川中島
  川中島藩主・松平忠輝が、川中島堰を築造した。
1610年、この年、近畿地方に大風雨の被害。
1610年、幕府、常備軍の多くを諸大名に依存・・、
  普請役も軍役の一種だった。
  普請や土木工事も重要な戦争行為であった。
  江戸幕府の直轄領は、体制確立後は400万石余り、日本
 全体は、ほぼ3000万石なので、その13.3%だった。
  幕府は、財政的に早くから脆弱だった。
  しかし、常備軍の経費負担は少なかった。
  幕府と外様大名との間には、開幕当初と幕末には、た
 しかに危うい状態・関係があったと言えるが・・、
  しかし、幕府の支配体制が確立する頃からは、幕藩関
 係は安定し、融和の状態に入っていた。
  つまり、大名も旗本も、公儀の権力に服属し、それぞ
 れの分限に応じて支配体制の形成に参与し、それによっ
 て近世社会の秩序が保持された。
  こういう状況から、幕府は常備軍の多くを諸大名、特
 に、外様の大半に依存してゆくことができた。
1610年12月、土井利勝が、家康の命令で老中となった。
  家康と瓜二つの顔立ちだったという。
  飛ぶ鳥を落とす勢いで出世したという。
  秀忠の赤ん坊のころからの側近として近侍した。
  故に、秀忠将軍との意思の疎通は抜群だっただろう。
1610年、江戸期は、キリシタン禁制で鎖国だというプロパ
 ガンダがあるが、その見方は間違っている。
  キリスト教の嘘宣伝に洗脳されている。
  家康は、貿易重視で、キリシタンに関しての取締りは
 甘かった。
  キリシタンは、この期に日本に広まっている。
  キリスト教に偏するNHKや放送大学は、ひたすら
 『殉教』だとかの弾圧する日本を大袈裟に放送したりし
 て、史実を間違った印象に伝え、放送ている。
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