(増補版)102C3/3:気になった事柄を集めた年表(1605年〜1607年)

題:(増補版)102C3/3:気になった事柄を集めた年表(1605年〜1607年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1605年、家康の参謀
  林羅山が、1605年に、二条城で始めて家康にあった。
  家康は、羅山を信任して側近にした。
  羅山は、学問や文教政策のブレーンとして活躍した。
  羅山は、キリスト教に強く反対した。
  林羅山は、江戸前期の儒者朱子学者。京都生まれ。
 藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、徳川家康以下四代
 の将軍に仕え、幕府の制度の樹立に尽した。
  上野に開いた私塾弘文館は、昌平坂学問所の起源をな
 した。著作は厖大。(1583年〜1657年)
1605年、社会資本整備・築地井出
  加藤清正が、築地井出(熊本県菊池市)を開削し、小
 牟田新田を干拓する。
1605年、社会資本整備・芝原用水
  福井藩家老の本田富正が、芝原用水を開削した。
1605年、煙草が伝来した。
  幕府は、1609年に、その栽培を禁止する(タバコ流行)。
  この時代に流行していた喫煙について「煙草説」に、
  「海のかなたの遠い異国から、もたらされた新種の薬
 草であり、中国古来の医書にも記載がない」・・と。
  そして、当時噂されていた、たばこの効用について
  「病人が喫煙によって健康を回復し、たとえ健康な者
 でも、たばこを吸えば長寿が期待できる」と、
  そしてまた、
  「老若男女、誰でもたばこを楽しまない者はいない」
 と。
1605年以降、大阪城の軍資金の脅威
  徳川打倒の軍資金として使用されることが脅威だった。
  秀吉が貯めた金銀の財宝が、大阪城に大量に存在した。
  家康に味方した諸将に、秀頼の行く末を案じる事も、
 必ずしも、ぬぐえぬに存在していた。
  家康は、豊臣家の家運隆盛などを絡めて、その財宝の
 資金を使うように勧めた。
  淀殿は、秀頼の名をもって、伊勢遷宮を前にした宇治
 橋の架け替え、また、出雲大社石清水八幡宮醍醐寺
 など、次々に修造をして行った。
1605年、由井正雪が生まれた(1605年〜1653年頃)
  江戸前期の軍学者で、
  江戸へ出て、塾を開き、楠流軍学を講義して門弟多数
 を得た。
  徳川家光の、1651年の死に際し,幕閣への批判と、旗
 本救済を掲げて、幕府転覆を企図した。
  しかし、事前に露見し、駿府で自殺した(1605-1651)
1605年、木内惣五郎が生まれた(1605年頃〜1653年頃)
  近世の代表的な義民(正義のために人々のために身を
 ささげる人)。
  佐倉惣五郎(宗五郎)と通称される。
  下総国(千葉県)佐倉藩領公津村の名主。
  藩主の堀田氏の苛政に対して、領民の先頭に立って江
 戸藩邸への門訴(門前に集結して訴えを起こす事)した。
  老中へ駕籠訴などの訴願を行うも容れられず、
  そして、上野の寛永寺に参詣途中の将軍に直訴した。
  要求は認められたが、妻と共に磔,子供は死罪に処され
 た。藩は改易になった。
  全体または部分が創作という説もある。
  ただ、この話は民の意志の発現として民を勇気づけた、
 また、自由民権期には民の行動の元としての支えとなっ
 た。
  惣五郎の墓所がある成田市東勝寺は、宗吾霊堂として
 現在も多くの人々に信仰されている。
1606年9月、江戸城の本格的な工事が始められ、本丸・二の
 丸・三の丸のほか、外郭の石垣がほぼ出来上がり、
  秀忠は、9月に、新装なった本丸に入った。
1606年、慶長通宝を鋳造
  家康は、この年に、慶長通宝を鋳造した。
  1608年には、永楽銭の通用を禁止し、永楽銭1貫文=
 銭(びたせん)4貫文=金1両という貨幣の交換割合を
 定めた。
  家康は、幕府の所在地である関東から、永楽銭を整理
 して、慶長通宝を通用させようとした。
  永年にわたって通用していた永楽銭を整理する事は難
 しかった。
1606年、社会資本整備・保津川の開墾
  京都の豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)は、水
 利土木に優れた技術を持ち、1606年に、保津川の開墾を
 した。
1606年、角倉了以は、山城の大堰川に舟運を開いた。
1606年、江戸に住民が移る。
  江戸城拡張工事によって、この年に、宝田村・千代田
 村の住民は、日本橋・京橋方面に移った。
1606年、鯨漁の始まり
  和歌山県太地町の鯨漁が始まった。
  これは、この地の豪族・和田忠兵衛頼元(ちゅうべえ
 よりもと)が、この年に始めた。
  「古式捕鯨発祥の地」である。
  今も、イルカ追い込み漁が行われている昔からの伝統
 の鯨漁である。。
  オーストラリアの反捕鯨団体が反対するが、
  キリスト教では、鯨は知能があるからステージが高い
 動物だという。
  だから捕鯨はダメだという。
  オーストラリアに来たイギリス人・クックは、1707年
 だった(この鯨漁より100年も後である)。
  つまり、この時より100年以上さかのぼる昔からなのだ、
 太地町の鯨漁は・・。
  それを、自分勝手な宗教上の基準を押し付けて、陰湿
 な、正義に反する行為をする。
  この様な不正義は行為は、当然、するべきではない。
  この様に、古い時代から鯨は日本の食であり、文化な
 のである。
  キリスト教は、「聖職者が、豚肉を食べただろうと、
 魔女にされた可哀想な女性を拷問で責め、焼き殺すとい
 う歴史がある」が、このオーストラリア人は豚肉を食べ
 ている。
  あまりにも、自分勝手な押し付けをし過ぎる。
  オーストラリアは、今でも、カンガルーやコアラを無
 残に殺すことをしている。
  この現実をよく見て戴きたいと思います。
  https://www.youtube.com/watch?v=b7dmXwB8LBA&NR=1&feature=fvwp
1607年5月、朝鮮使節が、江戸に入った。
1607年、家康が駿府に移った(隠退)。
1607年、江戸城天守閣、および、石垣が修築された。
  東国の外様大名を中心に命じ、ふたたび、江戸城の増
 築工事を続行した。
  この時、高さ10間、広さ20間四方の石垣の上に、五層
 の天守閣ができあがった。
  また、掘割り工事も行った。
1607年、伏見城
  伏見は、京都と大阪をつなぐ水陸の要地で、晩年の秀
 吉は、ここを隠居所としたが、
  家康も、5大老時代にここで政務をとった。
  覇権確立後、京都とともに直轄とし、
  伏見奉行についで、1607年には、伏見城代をもうけ、
 松平定勝をこれに任じた。
  家康の畿内経営は、京都と伏見を拠点として進められ
 た。
1607年、角倉了以が、富士川を開墾して、駿河の岩淵から
 甲府に至る舟行をひらき、
  また、天竜川を開墾して、信濃の諏訪に舟を通わせた。
1607年、徳川幕府が、鉄砲の統制を始めた。
  「仰渡され候御定の覚」には、以下の様に記されてい
 る(抜粋)
  ・鉄砲細工を余人へ相伝申すまじきこと、
  ・鉄砲薬の調合や、薬込、他言他言致すまじきこと、
  ・みだりに他国へ出してはならぬ
  ・諸国から鉄砲多く誂(あつら)えがあったら早速届
 出すべきこと、
  また、新筒を受け取り候はば届すべきこと、
  ・違背の者候はば、早速相届け申し上ぐべきこと・・
 など。
  鉄砲は、1607年から、幕府の許可の者のみの製造可能
 となった。
1607年、家康の9男の徳川義直が、尾張に封じられた(尾張
 徳川家の成立)。
1607年、林羅山が、「本草綱目」を入手し、
  徳川家康に献じた。
  以後、日本での自然観察の学に、大きな影響を及ぼす
 本になった。
1607年、アメリカのバージニア植民地は・・、
  北アメリカに設立された。
  イギリスの植民地であるが、1607年に、バージニア
 社によって設立された。
  そして、1624年に、バージニア王室領植民地となった
 (1776年まで)。
  そして、1776年のアメリカ独立宣言により、アメリ
 合衆国の最初の13州(いわゆる「13植民地」)の1つ、
 バージニア州となった。
  そして、アメリカの奴隷制度は、このバージニア植民
 地に、初めて入植したてのすぐ後に始まるという、軽蔑
 すべき奴隷の歴史がある。
  アメリカは、この様にアフリカの方々を虐(しいた)
 げた。そして、その行為で富を蓄積してきた。その様な国
 である。
  そして、その収奪で出来た街並みである。
  キリスト教の神が奴隷にすることを肯定し、「奴隷に
 せよ」と叫んでいる。聖書に記されている。
  その様な聖書で洗脳され、奴隷制度を忌むべき制度と
 感じていないキリスト教徒の行為であった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/