(増補版)100C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年〜1603年)

題:(増補版)100C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年〜1603年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1600年代(17世紀)、ヨーロッパでは、この頃、黒人の方々
 やインディオの方々が・・、
  猿や狒々(ヒヒ)と一緒にされ、そして、並んで陳列
 された。
  そしてまた、裸の野蛮人として、舞台の上を歩きまわ
 されたりしていた。
1600年1月1日、イギリスが、東インド会社の活動を開始し
 た。
  イギリスが、競争相手国を駆逐し、東インド会社を設
 立した。
  設立は、1日前の1599年12月31日だった。
  資本金は、わずか68万ポンドだった。
  設立された会社は、形の上は小会社だった。
  しかし、エリザベス女王は、強大な権力を与えた。
  エリザベス女王は、この会社へ、「喜望峰よりマゼラ
 ン海峡に至る(アフリカ南端からチリ南端に至る)国々
 島々と、向こう15年間、自由に、かつ、独占的に通商貿
 易を営むことを得る」という特許状を与え、
  また、法律作成や条約締結の決定権という強大な権力
 を与えた。
  これは、イギリス国そのものだった。
  これによって、この後、インド及び東方諸国との植民
 地経営利益と貿易利益とを上げて行く、というより、植
 民地からの搾取・奪い取りだった。
  イギリス王室は、また、徴兵権を与え、士官任命権を
 与え、土候との交戦権まで与え、これ等の権利を使って
 インドのムガル皇帝から徴税権をもぎ取り、裁判権・関
 税免除の特権など好き勝手に権利を奪い取り、綿布貿易
 などで自由に利益を上げ、土地の支配までもやるという、
 やりたい放題状態だった。
  インド征服のプラッシーの戦いを1757年に行うなど、
 赤子の手をひねるようにインドを奪って行った。
  強欲に、その要求する所は、限りなく広がった。
  この小会社は、開設の翌日から始まる1600年から直ち
 に活動を開始し、
  イギリスは、この事によって、莫大な利益を得た。
  故に、インドを「王冠に輝く燦(さん)たる宝玉」と、
 利益供給国を讃えて言った。
  イギリスは、この後、インドを完全に征服しきった。
  この会社は、30年間の間、2割5分という考えられない
 超高配当を出し続けた。
  インドの方々を虐げて搾取した金をイギリスへ流し続
 けた。
  投資の原資は、何と、800倍以上になるという驚くべき
 率であった。
  この会社が、あまりにも莫大な稼ぎ方をして、巨万の
 富が堂々とイギリスへ流れ込んだので、本国・イギリス
 のロンドン市民でさえ、驚きと貪欲と嫉妬に満ちた憎悪
 に、興奮した。
  この荒稼ぎの陰で泣き、命を落とした植民地の方々が、
 インドの方々が、あまた居た。
  何故、イギリス人が紅茶を好むのか?
  それまでは、普通の人のレベルでは見る事も出来なか
 った紅茶。
  やっと得た人は、舐めるように使用したという紅茶が、
 イギリス中の巷にあふれた。
  搾取と、血と涙があった。
  本来は、植民地の方々のものなのに、インドの方々の
 ものなのに。
  そして、この小会社の株は暴騰し、上げに上げた。
  そして、株価が上がれば上がるほど、おかしなことに、
 株主数は減少して行った。
  莫大過ぎるほどの利益が、さらに一部の者の占有する
 株へと、会社へと・・なって行った。一部の者の独占で
 ある。強欲な人々が独占に・・うごめいた。
  庶民の不満が沸騰した。 
  会社の特権を取り消せ・・と、世論が沸いた。
  その攻撃に対し、莫大な賄賂の金が流れ、嵐が吹いた。
  攻撃を消し、避けるために、その効果がありそうなす
 べての者へ現ナマが投じられて行った、不埒な人間ども
 だった。
  大臣、キリスト教聖職者、王家へ金貨の袋が渡された。
  特権期間が1615年で切れるのだが・・それも、その延
 長も・・莫大な金貨の袋の賄賂(わいろ)で延長された。
  イギリス王室は金貨の袋に敗け、許可した。
1601年1月、伝馬制度。
  家康が、大久保長安らの代官頭のグループに命じて、
 東海道諸宿の東海道53次の駅の伝馬制度
 を定めた。
1601年3月、家康が、関東地方を検地した。
1601年、板倉勝重京都所司代に任命された。
1601年、安南・呂宋が、書を家康に呈した。
1601年5月、「金銀は政務第一の重事」をいう考えから、金
 銀制度を確立して、伏見に銀座を置き、金貨及び銀貨(
 慶長金銀、大判・小判)の鋳造を始めた。
1601年、江戸が大火となり、江戸全町が焼失した。
1601年、秀吉に、1581年に滅ぼされた鳥取城主だった豊国
 が、この年に、家康から但馬国七美郡に6700石を貰った。
1602年、井伊直政が没した。
1602年5月、二条城が築かれた。
1602年、家康が、外様大名の88名を改易した。
  西軍に組した外様大名88名は、改易によって取り潰し、
 その領地416万1084石を没収した。
  これと同時に、毛利輝元上杉景勝佐竹義宣ほか2名
 の大名の領地216万3110石を削り取って、
  輝元は安芸広島から長門萩に、景勝は陸奥会津から出
 羽米沢に、義宣は常陸水戸から出羽秋田に移した。
  没収総高は、93名の、632万4194石という膨大な石高と
 なった。
  家康は、これ等の没収地を、東軍に属して功労のあっ
 た外様大名に配分して、転封する一方、直轄領に組み入
 れたり、徳川一門・譜代大名の取立てにあてた。
  関東領国には、すでに万石以上の領地を持つ40名の上
 級家臣が居たが、
  家康は、覇権確立を同時に、彼らを一斉に独立の大名
 とした。
  これとともに、万石以下の譜代家臣の中から、加封に
 よって20名の者を大名に取り立てた。
  彼らも、三河譜代が中心を占めている。
  他に、新しく帰属したり、新規に取り立てた大名が8名
 あり、合わせて28名となった(譜代大名第二群)
  こうして、戦争直後から1602年までに、実に、68名の
 徳川一門=親藩譜代大名が作り出され、徳川氏の権力
 は飛躍的に強化された。
  豊臣権力(戦後、秀頼は摂河泉65万石の地方大名とな
 った)との隣接地帯に、徳川一門をはじめ、武功派の有
 力譜代大名を配した。
  徳川一門をはじめ、武功派の有力譜代が、外様大名
 対する第一線に立たされ、征服地の新領地の経営に専念
 するようにした事は、彼らが、次第に、徳川政治の中枢
 から離れていくことを意味した。
  戦争の終結は、武功派の栄光ある舞台に幕を下ろし、
 彼らを無用の長物と化して行った。
1602年、検地。
  この年の常陸検地は、「慶長の苛法」と言われて、か
 なり厳しいものであった。
  1歩1尺の空地も残らず石盛をつけ、ことごとく検地
 を実施した。
  そのため、川に身を投じたりする者も出た。
  多賀郡大窪村の検地は、697石の村高が一躍1038石に増
 加した。
  1604年には、武蔵・相模・遠江三河・越後などに徳
 川検地を実施したが、これは「辰の御検地」(辰年にあ
 たる)と言われた。
1602年、新田開発
  伊奈忠次遠江国豊田郡・阿久呂太五郎ら新田百姓へ
 諸役免除の手形を与えた。
  さらに、武蔵国横見郡山下村の松山・上田氏旧臣、山
 崎隼人ら7人の開発人へ9石から32石を与えた。
1603年2月12日、徳川家康征夷大将軍の宣下があった。
  家康が征夷大将軍となり、江戸城を開き、江戸幕府
 始まった。
  家康は、全国二百数十家もあった大名から一銭の徴税
 も行わなかった。
  これは、幕府の経営を税金に頼らないで維持できると
 考えたことと、
  徴税が不平不満の元になる事を恐れたためであった。
1603年2月12日、諸大名に江戸市街の拡張工事を命じた。
  関東総奉行・青山忠成と、内藤清成の連署で、関東公
 私領の農民に対し「定書」を公布した。
1603年2月12日、小笠原一庵を長崎奉行に任命した。
1603年12月、京都に十人組の制を敷いた。
1603年、家康が、関東の公私領の農村に対し発布した。
 この法令は、公私領の農民が、代官・旗本の不法によっ
 て、村を立ち退くときは、例え、その主人から届け出が
 あっても、みだりに連れ戻してはならないとの内容であ
 った。
1603年、関ケ原の戦いから3年後に、
  宇喜多家は、家康によって改易されたが・・、
  秀家は、伊吹山中に逃げ込んだ。
  そこで、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、
 哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に匿った(40日間)。
  その後、変装して、薩摩国島津義弘などを頼って落
 ち延び、今の垂水市辺りに匿われた。
  しかし、これも家康の知るところとなり、
  宇喜多秀家は、島津家の家臣に身の安全を守られなが
 ら、家康の居る駿府へ向かった、関ケ原の戦いから3年の
 後だった。
  島津家は、義を貫いて秀家の助命を嘆願し、秀家の妻・
 豪姫の実家である前田家も強くこれを求めた。
  すでに、社会が落ち着いて秀家を刑死させる理由は無
 くなっていた。
  秀家は、死罪は免れた。
  秀家は、久能山に幽閉後、1606年、江戸から480キロの
 伊豆最南端、八丈島に流された。
  豪姫の願いは叶わなかった。
  豪姫は、実家の金沢へ行く、異母弟の藩主・利常(と
 しつね)は温かく迎えてくれた。
  化粧田1500石と、金沢城下の西町に屋敷を、豪姫らは
 貰った。
  連れて行った二人の姫は、前田家の養女となって縁付
 いた。
  豪姫は、八丈島へ金銀・小袖・薬などを送った。
  豪姫の、夫を思う心情に、藩主・利常は、前田家から
 も生活必需品を八丈島へ送れるように幕府に嘆願を重ね、
 そして、認められた。
  二人は、便りが結んでいた。
  長い年月が流れ、豪姫は、1634年、61歳で没した。
  秀家は豪姫の死後、21年の後、八丈島で、流人として
 84歳で没した。
  江戸から来た代官は、秀家を陣屋に呼んで御馳走をし
 た。
  美味しそうに食べた秀家を見て、この代官は白米一俵
 を贈ったという。
  前田家は、ある時、八丈島に使者を送って、秀家の救
 済を幕府に願い出る件を、秀家へ打診をしたという。
  秀家は、この期に及んでという心境だったのか、この
 打診を断わったという。
  豪姫が亡くなった後も、豪姫の遺志を大事にした前田
 家は、藩主が変わっても、1年おきに白米70俵、金子35両、
 それに衣類、雑具、薬品などを、絶えることなく、秀家
 の御赦免の日までと送り続けたという。
  明治の御一新で大赦となり、明治天皇は、明治6年、東
 京板橋に、宅地19900坪を与え、前田家も金1000両を送っ
 て、一族の労をねぎらった。
  それは、豪姫が、八丈島の夫や一族たちに思いを馳せ、
 金沢で死んでから、実に239年も経ていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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